父の顔
御所の再建は順調に進んでいた。
年内には新御所へ移り住む事ができるであろうという見通しの下に準備は着々と進んでいる。
そんな慌ただしさの中、新典侍・葉室頼子に無事、第一皇子・礼仁親王が誕生した。
予定より少し早い出産に、仮御所は久々の明るい歓びに包まれていた。
朝廷直系の長老である恭礼門院(一条富子)は、皇統が繋がったことへの祝いの品を頼子に届ける準備をしていた。産着や、健やかな成長を願うお守りなどである。
(欣子内親王はどうされているであろう……)
欣子が主上をお仕着せの許嫁としてではなく、一人の女人として恋慕っていることは富子にも分かっていた。
傷口に塩を塗るような大役を命じるこの祖母を、あの子は恨むであろうか。
しかし、未来の中宮(正妃)となるならば、いつかは越えなければならない試練であった。
富子は欣子を呼び出し、あえて厳しく言い渡した。
「女一宮、そなたが私の名代として、頼子の元へ祝いの品を届けてきなさい。
将来後宮を統べる者として、主上にお仕えする者にも心を配らねばなりませぬ。その覚悟、いまのうちに得ておきなさい」
「……畏まりました」
欣子の顔は、見る間に血の気が引き、青ざめていくようだった。
欣子はこの時、十一歳。
祖母から託された祝いの品を携え、女房を連れて聖護院仮御所の一角にある頼子の局へと歩みを進めた。
一歩一歩が、重く足にすがりつくようだった。
もう間もなく頼子の部屋、というところまで来た時だった。
静まり返っているはずの奥から、楽しげに談笑する声が聞こえてきた。
欣子はぴたりと立ち止まり、先触れをしようとした女房を片手で制した。
低い、しかし拒絶を許さない声で告げる。
「ここで待っていなさい」
そして、音を立てずに忍び寄り、御簾の隙間からそっと部屋の中を覗き見た。
そこにあったのは、政務の合間を縫って、お忍びで我が子を見にきていた主上のお姿であった。
我が子の誕生に胸を躍らせた主上が、わずかな隙を突いてふらりと足を運ばれたのだろう。
主上は、優しく穏やかな「父親」の顔をして笑っておいでだった。
その隣には、出産を終えて少し疲れてはいるものの、幸福に満ちた顔で寄り添う頼子がいる。頼子は主上の腕に抱かれた赤子を、愛おしそうに見つめていた。
そこには、他者の立ち入る隙のない、睦まじき親子の景があった。
欣子は胸を突かれながらも、お付の女房に密やかな声で命じた。
「主上がおいでになっています。
お祖母様には、頼子殿が御休息中であったため、お品はのちほどお届けするとお伝えしなさい。……引き返します」
その時、ふと人の気配を察した頼子が御簾の向こうを見た。一瞬、華やかな衣の裾がひるがえって消えるのが見えた。
(いまのは……欣子さま?)
「どうした、頼子。身体が辛ければ横になるがよい」
主上が頼子の顔を覗き込む。
「いえ、大丈夫でございます。
御父上さまが来てくださったので、
皇子も機嫌がようございます」
頼子は幸せそうに微笑んだ。
自室への帰路、欣子の頭には主上と頼子が微笑みあう光景がこびりついて離れなかった。
(あの方は、父親の顔をしておいでだった……。
あのようにお優しく、父帝が私を抱き、母と共に愛しんでくださったことが、一度でもあったのだろうか)
欣子は、母の顔さえおぼろげで、父帝の顔にいたっては全く覚えていなかった。
父である後桃園天皇は欣子が赤子の時に崩御され、母もわずか四歳の時に亡くなったからだ。
(私には、誰もいないのだわ)
頼子の局を包んでいた温かな光の残像が、欣子の心を冷たく突き放す。
主上という存在が、急に手の届かない、遠い人になってしまったように思えた。
主上とは、先年の大火の避難の折、混乱の中で一度だけお顔を合わせたきりである。その時の、切迫した中にも凜々しさを湛えたお姿こそが、欣子にとっての「主上」のすべてであった。
しかし、御簾の向こうにいるお方は、それとは全く違う顔をされていた。
赤子を見つめるその眼差しから、欣子は
(ああ、父親とはこれほどまでに優しく、穏やかな顔をするものなのだ)
と、初めて教えられるように気づいた。
と同時に、その温かさが自分や自分が産んだ子どもに向けられたものではないという事実に、胸が苦しくなった。




