幕間
雨が降っていた。
空が裂けたような豪雨。
アスファルトを叩く雨音だけが、静かな路地裏に響いている。
そんな中、一人の餓鬼がいた。
薄汚れた黒髪。
泥だらけの服。
痩せ細った身体を廃れたビルの壁へ預け、ただ静かにこちらを見つめている。
助けを求めるわけでもない。
泣き叫ぶわけでもない。
ただ、じっと。
その瞳に宿っていたのが畏怖だったのか、それとも渇望だったのかは分からない。
だが、ちょうど下僕が一人欲しいと思っていた頃だった。
──少しだけ、興味が湧いた。
◇◇◇
そのまま地下へ連れ帰った。
暖房もろくにない部屋。
餓鬼は寒さで小刻みに震えていた。
「……ほら」
最近完成したばかりの黒いコートを放り投げる。
透明化機能を備えた試作品。
まだ性能実験も終えていない代物だ。
餓鬼は恐る恐るそれを羽織る。
だが。
礼も言わない。
嬉しそうな顔もしない。
ただ黙って僕を見つめているだけだった。
「……まぁ、いいか」
どうせこれから操り人形になる人間だ。
感情なんて必要ない。
従うだけで十分だ。
ふと、一つだけ気になった。
呼び名がないと不便だ。
「……名前は?」
「…………」
返事はない。
いや、返せないのか。
その沈黙だけで理解した。
こいつには名前がない。
「……そう」
僕は興味なさそうに肩をすくめる。
「僕はスカーレット」
「別に覚えなくてもいいけど」
その言葉に、餓鬼はほんの少しだけ目を見開いた。
「……すかーれっと…」
その時だった。
初めて、こいつの声を聞いた。
かすれていて、拙い発音。
まるで言葉そのものを、これまでほとんど使ったことがないかのような声だった。
「そうだ」
僕は短く頷く。
「僕はスカーレット」
そして、当然のように告げる。
「──今日から、お前の主人だ」
都合がいい。
こんな何も知らない餓鬼なら、少し教育するだけで僕に絶対服従する人形になる。
……そう思っていた。
◇◇◇
「……貴様は、いつまでその姿でいる気なのだ?」
目の前に立つ男が、呆れたようにため息をつく。
昔は僕の腰ほどしかなかった餓鬼。
だが今では見上げるほど背が伸び、いつの間にか"餓鬼"なんて呼べない年齢になっていた。
それどころか、無礼にも僕を**「貴様」**と呼ぶ始末だ。
……どこで育て方を間違えたんだろう。
「このくらいの体が、一番記憶力いいんだ」
若返りの薬。
僕の最高傑作の一つだ。
定期的に服用することで、肉体年齢を常に十代前半で固定している。
精神年齢だけで言えば、とっくに五十を超えているはずなのに。
『クソガキ感が抜けていない』
──と、この男に言われた時は。
三日間、地下から締め出してやった。
「ならば吾輩も使うべきでは?」
黒仮面は真顔で尋ねる。
僕は鼻で笑った。
「あんたに知力を使う仕事を任せた覚えはない」
そう言い放つと、黒仮面は「むぅ……」と小さく唸り、不満そうに腕を組んだ。
……本当に。
昔はあんなに大人しかったのに、どうしてこうなった。
「それよりも」
僕は椅子をくるりと回し、黒仮面へ視線を向ける。
「その仮面の調子は?」
「依然、変わりなしだ」
「そう」
問題なし、と。
僕はそれだけ確認すると、再びキーボードへ視線を戻した。
そういえば、この餓鬼とは契約を結んでいた。
僕が最低限の生活を保証する代わりに、こいつは僕の下僕になる。
そんな、至って単純な契約だ。
契約の証として渡したのが、あの黒い仮面。
通信機能。
現在地を把握するためのGPS。
簡単な生体情報の測定。
思いつく限りの機能を詰め込んだ、僕の自信作だった。
おかげで、この餓鬼がエンシスのどこへ行こうが見失うことはない。
何せこいつは、僕とは正反対の人間だ。
じっと研究室に籠もる僕とは違い、とにかく外へ出たがる。
以前、
『研究に使えそうな場所でも探してこい』
そんな適当な指示を出したことがあった。
普通なら数日歩き回って終わる程度の命令だ。
なのに。
『良い場所を見つけたぞ!』
毎日のように満面の笑みで報告に戻ってくる。
今日は廃工場。
明日は地下施設。
その次は崩れた研究所。
まるで宝探しでもしている子供のように、目を輝かせながら。
年相応かと言われれば、まるで違う。
いい歳をしたおじさんが、毎日子供のようにはしゃぎ回っているのだ。見ていて気持ち悪いに決まっている。
……とはいえ。
研究場所になりそうな廃墟や地下施設を見つけてくる嗅覚だけは、一応認めてやってもいい。
そのおかげで、また一つ新しい研究成果が完成した。
黒仮面に与えたものと同じ形状の――白い仮面。
だが、同じなのは見た目だけだ。
この仮面には、支配の呪いが組み込まれている。
なので装着した人間は、僕の下僕となる。
つまり、街中の人間へ片っ端から仮面を被せるだけで、大量の従者を作り出せるというわけだ。
……もっとも。
完成してから、とんでもない欠陥が判明した。
被術者が術者の姿を見ると、呪いが解除される。
しかもこの方法で呪いが解除されると被術者は廃人になるというおまけ付き。
我ながら笑えない欠陥だ。
つまり、僕自身が仮面を配ることはできない。
なので僕は白い仮面を餓鬼に渡し、下僕を集める役目を命じた。
もちろん条件も付けた。
絶対に僕と会わせるな。
それだけは守れと。
さらに、被術者がこいつを尾行して僕の居場所を突き止めることも避けなければならない。
だから僕は命じた。
できる限り、自分の姿も見られるな。
するとこの餓鬼は、それを律儀に守り続けた。
それからというもの、この餓鬼は定期的に新しい下僕を作っては僕へ報告しに来るようになった。
いつの間にか、そいつらを**『調査隊』**なんて大層な名前で呼び始めたらしい。
僕からすれば、ただの下僕だ。
名前なんてどうでもいい。
命じた仕事さえきちんとこなしてくれるなら、それで十分だった。
◇◇◇
ある日。
ふと、この餓鬼に名前を与えてやろうかと考えた。
別に僕にネーミングセンスがあるとは思っていない。
ただ、いつまでも『あんた』だの『餓鬼』だのと呼び続けるのも、少しばかり不便に感じ始めたのだ。
……だが。
結局、一つも思いつかなかった。
否。
思いつこうとしなかった。
わざわざ、自分の手足に名前をつける人間がどこにいる。
そう考えた瞬間、興味が失せた。
結局、名前の話をしたのは、初めて会ったあの日だけ。
それ以降は一度も口にしていない。
まぁ、それで困ることもなかった。
あいつだって僕のことを『貴様』としか呼ばない。
……そう。
僕たちは、名前など必要としない関係なのだ。
◇◇◇
「……気になったのだが」
ある日、不意に餓鬼が口を開いた。
「貴様は何の目的があって下僕を作っているのだ?」
「目的か……」
そんなもの、考えたこともない。
最終目標だとか世界征服だとか、そんな大層なものはない。
ただ。
欲しいと思ったから作った。
それだけだ。
……とはいえ。
そんな答えでは、この餓鬼は納得しないだろう。
「じゃあ、いつか巨大な組織でも作ろうか」
「組織……か?」
「そう。リベリオンにも負けないぐらいのね」
適当に思いついたことを口にすると、餓鬼は腕を組み、小さく唸った。
「……それは無理ではないか?」
「リベリオンの人間を全員洗脳すれば可能だろ」
そう返すと、餓鬼は呆れたようにため息をついた。
「現実的に考えてみろ。リベリオンに喧嘩を売れば、吾輩たちなど一瞬で滅ぼされる」
「……」
正論だった。
だからこそ腹が立つ。
よりにもよって、この餓鬼に言われるなんて。
……また三日ほど地下から締め出してやろうか。
そう思ったところで、あることに気付く。
今のこいつには調査隊の集落がある。
締め出したところで、帰る場所には困らない。
「……はぁ」
思わずため息が漏れた。
全く。
成長すればするほど、扱いに困る餓鬼だ。




