第六十一話 「伸ばす手」
「……それじゃあ、つけるぞ」
ルクシスが静かに告げる。
その右手には、一枚の仮面。
アステラが身につけていた、あの白い仮面だった。
フェルギアも無言で頷き、青い液体が入った瓶を手に取る。
震える指先で蓋を回すと、
キュポン。
静かな休養所に、小さな音だけが響いた。
瓶の中では青い液体がゆらりと揺れ、淡い光を反射している。
それを確認したルクシスは、眠るアステラの表情を一瞬だけ見つめると、壊れ物に触れるような慎重さで仮面を彼女の顔へとかぶせた。
ルクシスが手を離す。
同時に、フェルギアは瓶の中身を仮面へと流しかけた。
青い液体が仮面を伝い、その表面を覆っていく。
次の瞬間――
ビリリッ!!
乾いた電流のような音が部屋に響いた。
仮面の表面に青白い光が走り、細かな火花を散らす。
やがて力を失ったように仮面はアステラの顔から滑り落ち、
カラン――。
乾いた音を立てて床へ転がった。
誰も言葉を発しない。
静寂だけが部屋を満たす。
一秒。
二秒。
三秒――。
「…………」
フェルギアは無意識に息を止めていた。
そして。
アステラの長い睫毛が、ぴくりと震える。
ゆっくりと瞼が持ち上がり、その奥から澄み切った青い瞳が姿を現した。
天井の灯りを映したその瞳は、まるで宝石のように透き通っていた。
「……」
その瞬間。
フェルギアは張り詰めていた全身の力が、ふっと抜けていくのを感じた。
――目を覚ました。
その事実だけで、胸の奥に押し込めていた不安が、少しだけ溶けていった。
「……アステラ」
震えそうになる声を押さえながら、フェルギアは彼女の名を呼ぶ。
その声に反応するような素振りはない。
アステラはゆっくりと上半身を起こすと、眠たげに周囲を見回し、最後に二人へ視線を向けた。
透き通るような青い瞳に映るのは、白髪の青年と茶髪の青年。
ほんの数秒、じっと二人を見つめてから、小さく首を傾げる。
「……誰、ですか?」
その一言が、胸に深く突き刺さった。
――分かっていた。
記憶はまだ戻っていない。
スカーレットがそう言っていた。
だから覚悟はしていたはずだった。
それでも。
実際に向けられた『初対面の視線』は、想像以上に苦しかった。
フェルギアは胸の奥を締めつけられるような痛みに耐えながら、小さく息を吸う。
「……フェルギア」
不意に、隣から肘で軽く小突かれた。
振り向くと、ルクシスが穏やかな表情でこちらを見ている。
「まずは説明だろ」
静かな声だった。
「辛くて無理って言うなら、俺が代わるが」
一瞬だけ迷う。
逃げてしまえば楽かもしれない。
だが、それだけはしたくなかった。
「……いや」
フェルギアは小さく首を振る。
「俺がやるよ」
「……そうか」
ルクシスはそれ以上何も言わず、柔らかく笑った。
そして踵を返し、そのまま部屋の出口へ向かって歩き出す。
「ルクシス?」
呼び止めると、彼は振り返ることなく片手をひらりと上げた。
「俺がいたら、話しづらいこともあるかもしれないからな」
一拍置いて、少し照れくさそうに笑う。
「……ただの気遣いだ」
そう言い残し、ルクシスは静かに部屋を後にした。
部屋に残されたのは、フェルギアとアステラ、二人だけ。
静寂が降りる。
胸の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
「……色々と混乱しているとは思う。でも、今はまず聞いてくれ」
フェルギアはできるだけ穏やかな声で言った。
アステラは小さく頷く。
その素直な反応だけで、張り詰めていた胸がほんの少しだけ軽くなった。
「まず……お前は今、記憶喪失なんだ」
「……記憶、喪失……?」
「あぁ。そして俺と、さっきここにいた茶髪の男――ルクシスは、お前の記憶を取り戻すために動いてる。つまり……俺たちはお前の仲間だ」
アステラは黙ったまま、その言葉をゆっくりと飲み込んでいく。
「だから聞きたい」
フェルギアは息を整え、静かに問いかけた。
「お前は……どこまで覚えてる?」
「私……は……」
言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
「っ……!」
アステラの肩がびくりと震える。
次の瞬間、両手で頭を押さえ、その場に膝をついた。
「ぐっ……ぁ……!」
「アステラ!」
苦しそうな呻き声。
呼吸は乱れ、細い肩が小刻みに震えている。
まるで頭の中を無理やり掻き回されているような、そんな苦しみ方だった。
フェルギアは反射的に手を伸ばす。
だが――止まる。
(どこに触れればいい……?)
背中をさすればいいのか。
肩を支えればいいのか。
それとも下手に触れない方がいいのか。
何一つ分からない。
伸ばした手は宙を彷徨い、そのまま力なく下ろされる。
「アステラ……!」
名前を呼ぶことしかできない。
その無力さが、ひどく歯痒かった。
数分にも感じられる時間の末、アステラの呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、ゆっくりと頭を上げるアステラ。
フェルギアは安堵と罪悪感が入り混じった表情で息を吐いた。
「……悪い」
掠れた声が漏れる。
「こんなことになるなんて……思って、なくて…」
「……すみません」
「……え?」
思わず顔を上げる。
苦しんでいたはずのアステラは、申し訳なさそうに俯いていた。
「わた……しが、記憶を失ってるから……ですよね」
「な……なに、が……」
言葉が続かない。
喉の奥で詰まり、声にならない。
その違和感でようやく気づく。
「あ……」
頬を、一筋の雫が伝っていた。
泣いている。
フェルギアは慌てて手首で涙を拭う。
目の奥が焼けるように熱かった。
違う。
アステラが記憶を失ったからじゃない。
苦しんだからだ。
頭を押さえ、涙を浮かべ、痛みに耐えながら震える姿。
その姿が、あの日と重なってしまった。
腹を貫かれ。
涙を流しながら。
苦痛に耐え、それでも最後まで――。
『……逃げて』
ただ、その一言だけを口にした少女。
脳裏に焼き付いた光景が、離れない。
「……ごめん」
気づけば、その言葉が唇から零れていた。
力が抜けるように膝が床へ落ちる。
フェルギアは目を閉じ、何度も何度も手首で涙を拭った。
「……ごめん」
それしか言えない。
謝る資格なんてないことくらい分かっている。
それでも、その言葉しか出てこなかった。
今、アステラはどんな表情で自分を見ているのだろう。
その顔を見る資格すら、自分にはないんじゃないか。
そんな考えが胸を締めつけ、堪えようとした涙は、また静かに溢れ落ちた。
――その時だった。
ぽん。
優しく、何かが頭に触れる。
温かな感触。
そのぬくもりが、張り詰めていた心を少しずつほどいていく。
「……ぁ……?」
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、手を伸ばしたままのアステラがいた。
細く白い手が、そっとフェルギアの頭を撫でている。
「……なんとなく」
アステラは少し照れくさそうに微笑んだ。
「こうしたほうが、いい気がしましたので」
その笑顔は穏やかだった。
優しくて。
柔らかくて。
どこか懐かしい笑顔。
――あぁ。
この顔だ。
会社で笑っていた後輩の顔。
ブラックコーヒーしか飲まない自分に、甘いコーヒーを差し出してくれた時と同じ笑顔。
記憶は失ってしまった。
それでも。
その優しさだけは、何一つ変わっていなかった。
張り詰めていた心が、ゆっくりとほどけていく。
気づけば、涙は止まっていた。
「……ごめん」
また同じ言葉が漏れる。
けれど今度は、さっきまでとは少しだけ違う。
謝罪だけではなく、安堵も混じった声だった。
フェルギアは大きく息を吸い込む。
そして頭に置かれたアステラの手を、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。
ゆっくりと立ち上がり、まっすぐ彼女を見つめる。
「俺は……フェルギア・バーンライト」
一度、小さく笑う。
「お前の――先輩だよ」
一瞬だけ目を丸くしたアステラは、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……はい、先輩」
その二文字が、胸の奥へ静かに染み渡る。
まるで失われた時間を埋めるように。
「なんだか……」
アステラは自分でも不思議そうに首を傾げた。
「すごく口馴染みがいいです。貴方を『先輩』って呼ぶの」
その一言だけで十分だった。
記憶はなくても、心のどこかには残っている。
そう思えたから。
フェルギアは、ようやく心から笑うことができた。
「……アステラ」
フェルギアの声は、先ほどまでとは違っていた。
涙で震えていた声ではない。
どこまでも穏やかで、優しい声。
「俺たち……いや」
一度だけ首を横に振る。
「俺が必ず、お前の記憶を取り戻す」
握ったままの小さな手に、そっと力を込める。
もう二度と離さないと誓うように。
「俺が――お前の英雄だから」
その言葉に、アステラは目を丸くした。
突然そんなことを言われたのだ。
驚くのも当然だった。
けれど、その驚きはすぐに柔らかな微笑みへと変わっていく。
記憶を失い。
目覚めた先で見知らぬ男に『俺はお前の英雄だ』と言われる。
本来なら困惑してもおかしくない。
それでも彼女は、一度も拒絶しなかった。
きっと。
心のどこかで覚えているのだ。
名前ではなくても。
思い出ではなくても。
この人は信じてもいい人だと。
そう感じる何かが、まだ残っている。
「……期待、してますから」
その一言に、フェルギアは静かに目を見開いた。
あの日。
壊れたマンションで交わした約束。
英雄になると誓ったあの日と、まったく同じ言葉。
記憶はなくても。
彼女は確かに、アステラのままだった。
だから――必ず。
ルクシスじゃない。
アテネでもない。
先輩であり。
そして、彼女の英雄である自分の手で。
必ず、アステラを救い出す。
──これは。
フェルギア・バーンライト。
"孤独の英雄"が、大好きな人を救う。
そんな物語。
これで第四章は終了です。
ラートの扱いに困ってます。




