第六十話 「感謝の言葉」
地下へ続く階段を下りるたび、外の光は少しずつ遠ざかっていった。
天井には一定間隔で小さな照明が吊るされており、淡い橙色の光だけが三人の行く先を照らしている。
通路は人一人がようやく通れるほど狭く、湿った空気が肌にまとわりつく。足音だけが静かな地下道へ規則正しく反響していた。
「おい……」
フェルギアが辺りを見回しながら眉をひそめる。
「他に部屋もないのに、なんでこんなに通路が長いんだ?」
「外の光を最大限遮るためだ」
黒仮面は振り返ることなく答えた。
「外の光って……ヴァンパイアかなんかかよ」
思わず漏れた冗談。
「その『ゔぁんぱいあ』とやらは知らぬが、少なくとも彼は人間である」
「……人間に解呪なんてできるのか?」
フェルギアが半信半疑で尋ねる。
「できるからこそ、貴様らをわざわざここまで案内したのだ」
「はいはい」
ずいぶん投げやりな返事だった。
脅されている側とは思えない口ぶりだが、ここまで来ると互いに気にも留めなくなっている。
しばらく無言で歩き続けると、不意に黒仮面の足が止まった。
「……着いたぞ」
二人も立ち止まり、視線を前へ向ける。
そこには、先ほど地上で見た地下ハッチと同じ黒鉄製の重厚な扉が静かに佇んでいた。
長年誰にも開かれていないような重苦しい存在感が、地下通路全体を支配している。
「……開けてくれ」
ルクシスが静かに促す。
黒仮面は一瞬だけ扉を見つめると、小さく息を吸い、片手をドアノブへ伸ばした。
――カチャリ。
静寂の中、その金属音だけがやけにはっきりと響いた。
◇◇◇
狭い部屋だった。
壁一面には何台ものパソコンが隙間なく並べられ、モニターの淡い光だけが室内を照らしている。床には空になったペットボトルや菓子の袋が無造作に散らばり、足の踏み場を探すのも一苦労だった。
その部屋の奥では、一人の少年が床に座り込み、無数のキーボードを忙しなく叩いている。
「……スカーレット」
黒仮面が小さく名を呼ぶ。
「あ?」
気だるそうな返事とともに、少年がゆっくり振り返った。
血のように赤い髪。病的なまでに白い肌。そして、リベリオンの管理人にも負けないほど濃い隈が目の下に刻まれている。
まるで何日も眠っていないような顔だった。
「なに? 負けたの?」
黒仮面の様子を一目見ただけで察したのか、スカーレットは露骨に不機嫌そうな顔を浮かべる。
「……そうだ」
「無能。くたばれ」
返ってきたのは慰めでも皮肉でもない、あまりにもストレートな暴言だった。
「口悪いな」
思わずルクシスが眉をひそめる。
「お前が言うのか、それ」
フェルギアがすかさず横から突っ込む。
「んあー……あんた弱いもんな」
スカーレットは興味なさそうに肩をすくめる。
「……面目ない」
黒仮面は反論することもなく、しおらしく頭を下げた。
「んー……どうせ呪いの解呪でしょ」
面倒くさそうにそう呟くと、スカーレットは机の横に転がっていた青い液体の入った小瓶を掴み、そのままフェルギアへ放り投げた。
フェルギアは慌てて両手を伸ばし、小瓶を受け止める。
「えっと……」
フェルギアは手の中の小瓶とスカーレットを交互に見つめ、困惑した表情を浮かべた。
「なに」
面倒くさそうな声が返ってくる。
「これは……一体?」
「なんで見て分かんないんだよ。年の割に知識ないんだな」
呆れたようにため息を吐くスカーレット。
「……はい。分からないので教えてください」
フェルギアは素直に頭を下げた。
今さら子供に少し悪く言われたくらいで腹を立てる気にはなれない。それよりも、今はアステラを救う手掛かりの方が何倍も重要だった。
その態度が気に食わなかったのか、スカーレットは小さく舌打ちする。
「チッ……仮面の機能を停止させる薬。記憶までは戻らないと思うけど」
「機能を停止……」
フェルギアは小瓶へ視線を落とす。
「ずいぶん機械みたいな言い方するんだな」
隣でルクシスがぼそりと呟いた。
「だって機械だし」
「…………は?」
あまりにも当然のように返された一言に、ルクシスの思考が止まる。
「そいつの黒ローブだって、僕が発明したものだし」
さらりと言い放つスカーレット。
その場の空気が、一瞬だけ静まり返った。
「えっと……この設備で、か?」
ルクシスは部屋中に並ぶパソコンや散乱したペットボトルを見回しながら尋ねる。
研究室というより、徹夜続きの引きこもりの部屋にしか見えない。
「ここだけで作れるわけないでしょ。馬鹿かあんた」
スカーレットは呆れたように肩をすくめ、再びキーボードへ視線を戻した。
「いや……黒ローブはまだ分かる」
ルクシスは腕を組み、スカーレットを真っ直ぐ見据える。
「透明化していた時、魔力をまったく感じなかった。だから機械だと言われても納得はできる」
一拍置き、その瞳が細くなる。
「だが……仮面まで機械なのか?」
「二度も同じこと言わせんな」
スカーレットは面倒くさそうに吐き捨てた。
「……質問を変える」
ルクシスはそれ以上食い下がることなく話を切り替える。
「仮面はどういう仕組みだ?」
「なんでそんなこと、初対面の相手に教える必要があるの?」
カタカタ、とキーボードを叩く音だけが部屋に響く。
スカーレットは一度たりともこちらへ視線を向けない。
その態度だけで、「これ以上は話す気がない」と十分すぎるほど伝わってきた。
「なぁ……それよりも」
弱々しい声が二人の会話を遮る。
フェルギアだった。
小瓶を握る手がわずかに震えている。
「記憶が戻らないって……」
喉が締め付けられるように苦しい。
もし本当に記憶が戻らないのだとしたら。
もう二度と、自分を「先輩」と笑って呼んでくれたアステラには会えない。
そんな現実だけは、どうしても受け入れたくなかった。
「はぁ……ちゃんと話聞けよ」
スカーレットはため息をつき、ようやく口を開く。
「その薬だけじゃ戻らないって言ったの」
まるでフェルギアが何を恐れているのか、最初から見抜いていたかのような口ぶりだった。
その一言に、フェルギアの強張っていた肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「じゃあ……どうすれば記憶が戻るんだ?」
縋るような声だった。
フェルギアは青い小瓶を強く握り締めながら、スカーレットを見つめる。
「知らね」
「……は?」
あまりにもあっさり返された一言に、思考が止まる。
「調べたことないんだから知らないに決まってるでしょ。馬鹿かあんた」
スカーレットは相変わらずキーボードを叩いたまま、こちらを見ることすらしない。
「いや……だって……」
フェルギアの肩が震えた。
手の中の小瓶も、それにつられるように小さく揺れる。
「この薬だけじゃ戻らないって……」
「また話聞いてないのかよ」
スカーレットは深いため息をつく。
「戻るなんて言ってないでしょ」
「はぁ……?」
フェルギアの瞳から光が消えていく。
「なんだよ……それ」
力が抜けたように、その場へ膝をついた。
床へ散乱していた菓子の袋が、ぐしゃりと鈍い音を立てて潰れる。
静かな部屋に、その音だけが妙に大きく響いた。
「……戻らないとも言ってないよな、お前」
沈黙を破ったのはルクシスだった。
感情を挟まず、事実だけを確認するような静かな声。
「さっきからそう言ってる」
スカーレットはキーボードを打つ手を止めない。
「調べてないから、戻るかどうかなんて知らないんだよ」
「……だってさ」
ルクシスはフェルギアへ視線を向ける。
「……は?」
ゆっくりと顔を上げるフェルギア。
その瞳には、まだ絶望の色が残っていた。
「戻らない可能性はあるかもしれない」
ルクシスは一拍置き、小さく笑う。
「だが、戻る可能性だって十分あるって話」
その一言だけで、フェルギアの止まりかけていた思考が、再び少しずつ動き始めた。
「……吾輩は帰ってもよいのか?」
おずおずと黒仮面が口を開く。
「雑魚は黙ってろ」
間髪入れずに返ってきた冷たい一言。
「……」
黒仮面はぴたりと口を閉ざした。
どうやら、スカーレットには一切逆らえないらしい。
「でも……そうだな」
スカーレットはキーボードを叩く手を止めることなく、面倒くさそうに呟く。
「もうあんた達とは話したくもないし、帰れよ」
露骨な追い出しだった。
ルクシスは一度だけスカーレットへ視線を向け、小さくため息をつく。
「……そうだな。行くぞ、フェルギア」
ぼんやり立ち尽くしていたフェルギアの腕を掴むと、そのまま強引に部屋の外へと引っ張っていった。
扉が閉まり、地下室には再び静寂が戻る。
◇◇◇
「……早く帰れよ」
スカーレットはモニターから目を離さないまま、不機嫌そうに言い放つ。
「もう少しだけでも、吾輩と話をせんか?」
黒仮面は困ったように頭を掻く。
「どいつもこいつも……」
カタカタと鳴っていたキーボードの音が止まる。
「二度も同じこと言わせんなっつったろ!」
スカーレットが勢いよく振り返り、黒仮面を睨みつけた。
その怒鳴り声に、黒仮面は肩を小さくすくめる。
「落ち着け。あの者達が気にはならんのか?」
「……あ?」
「ならないけど」
あまりにも素っ気ない返事だった。
「もっと他の人間にも興味を持て。吾輩の時のように」
「……あんたを拾ったのは、下僕を作るためだ」
スカーレットは面倒そうに続ける。
「というか、今一人減ることが確定したんだ。あんたも早く他の下僕を作れよ。そのために仮面をわざわざ作ってやってるんだぞ」
「……全く」
黒仮面は肩を落とし、小さく苦笑する。
「貴様は、昔から変わらんな」
◇◇◇
「……なぁ」
フェルギアは、すっかりいつもの調子を取り戻していた。
「なんだよ」
先頭を歩くルクシスが、前を向いたまま気のない返事を返す。
二人は、黒仮面に案内された地下通路を引き返していた。
狭い通路に二人分の足音だけが規則正しく響く。
「洗脳してたのは、支配の呪いがあったからなんだろ?」
「ああ」
「つまり、仮面をつけると支配の呪いにかかるってことだよな」
「そういうことになる」
フェルギアは腕を組み、少し考え込む。
「でもさ……スカーレットが言ってただろ。あの仮面は機械だって」
「ああ」
「だったら、機械が人に呪いをかけたってことにならないか?」
「なるな」
あまりにもあっさりと肯定され、フェルギアは眉をひそめた。
「……なんか、色々おかしくないか?」
「そうか?」
「そうだろ。呪いなんて非科学的なものを機械で再現するなんて……」
フェルギアは首を傾げる。
「どういう理屈なんだよ」
「うーん……」
ルクシスは顎に手を当て、小さく唸った。
数秒だけ考え込むと、静かに口を開く。
「仮説を立てるとしたら…」
「俺たちは最初、仮面を作ったのも、洗脳していたのも黒仮面だと思ってた」
「ああ」
「でも実際に仮面を作っていたのはスカーレットだ」
「……そうだな」
「だからスカーレットが呪いを扱う能力を持っていて、それを機械にも与えたという説になるな」
「そんなこと…できるのか?」
ルクシスは肩をすくめる。
「透明化するローブなんて代物まで作れる奴だ。能力を機械へ組み込むくらい、できても不思議じゃない」
フェルギアは苦笑する。
「……まぁ、それもそうか」
「現に、機械だけで洗脳できるっていうなら……液体をかけたら停止するっていうのも、おかしな話だろ?」
ルクシスが首を傾げながら呟く。
「まぁ……確かにな」
フェルギアも素直に頷いた。
そして、ルクシスはふとフェルギアの横顔を見る。
「……ていうか」
「今はアステラを助けられる可能性が見えたんだろ?」
ルクシスは少し呆れたように笑う。
「もっと喜べよ」
「……そうだな」
その一言で、張りつめていたものが少しだけほどけた。
自然とフェルギアの口元が緩む。
絶望しか見えていなかった数時間前とは違う。
今はまだ、小さくても希望がある。
それだけで十分だった。
「……お前のおかげだ」
フェルギアは照れくさそうに笑い、真っ直ぐルクシスを見る。
「ありがとう」
一瞬だけ、ルクシスは目を丸くした。
だがすぐに、吹き出すように笑う。
「やっと謝罪じゃなくて感謝の言葉が聞けたよ」
ルクシスは満足そうに頷くと、前を向く。
「ほら、行くぞ」
「ああ」
二人は歩幅を合わせ、ほんの少しだけ歩く速度を速めた。
長く暗い地下通路の先には、ようやく差し込む出口の光が見え始めていた。




