第四十九話 「不審者と穀潰し」
──十分ほど、朽ちた都市を歩き続けた先だった。
周囲の建物より一回り大きな塔。その根元に、緑色の人影が蠢いている。
「……いた」
目は四つ。虫のように左右へ散らばって付き、それぞれが不規則にギョロギョロと動いていた。
裂けた口からは、鋭い上顎の歯がすべて外へ突き出している。
「……言うなれば、気持ち悪くなったゴブリンってところか」
思わずそんな感想が漏れる。
数は五体ほど。
魔物たちの足元には、血の付着した剣や槍が無造作に転がっていた。
誰かがここで戦い――そして、負けたのだろう。
フェルギアは静かに息を吸う。
右手を軽く握ると、オレンジ色の鎖が音もなく伸び、腕へと絡みついた。
「……いくか」
重心を低く落とす。
次の瞬間、地面を蹴った。
風が頬を打つ。
その瞬間、不意に一つの会話が脳裏によみがえった。
『ステー…タス強化? なんだそれ』
リベリオンの階段を登っていた時。
ルクシスは、本当に知らない言葉を聞いたような顔をしていた。
『いや……ほら、なんというか……体を強くする的な?』
『体を強くする……』
顎へ手を当てて数秒考え込むと、ルクシスは「あぁ」と小さく呟き、指を鳴らした。
『魔力補助のことか?』
『魔力……補助?』
『というかお前……魔力補助も知らねぇで魔物と戦ってたのかよ』
呆れ半分、驚き半分といった声。
『いや……だって……教えてくれる人がいなかったから……』
『戦闘の知識もないのに戦闘部に所属するとか……とんだ命知らずだな』
呆れたようにルクシスが肩をすくめる。
『ま、まぁ……成り行きだったからな』
『……?』
怪訝そうに首を傾げるルクシス。
『ま、まぁまぁ! そんなことより、魔力補助について教えてくれよ』
話を強引に逸らすフェルギアに、ルクシスは「しょうがねぇな」とでも言いたげにため息をついた。
『あー……魔力補助ってのは、簡単に言えば魔力で身体能力を底上げする技術だ』
人差し指を立てながら続ける。
『と言っても、魔力を持ってるやつなら無意識に発動してることもある』
『そうなのか?』
『お前も一度くらいなかったか? 人間離れした動きができた時とか』
『そんな……の……』
フェルギアは少し考え込み、やがて「あっ」と小さく声を漏らす。
『……あったな。そういえば』
『だろ? それが魔力補助だ』
ルクシスは満足そうに頷いた。
『結局は感覚なんだよ。その時の感覚を思い出せりゃ、誰でも使える』
『ほうほう、なるほど』
興味津々に何度も頷くフェルギア。
そんな様子に苦笑しながら、ルクシスは最後に付け加えた。
『まぁ、一つだけコツを教えるなら──』
少しだけ真面目な表情になる。
『強くしたい部分に魔力を込めろ』
『……』
『魔力は目に見えねぇ。だからこそ、どれだけ鮮明にイメージできるか。それが、俺たちの強さを決めるんだ』
脚へ魔力を集中させた。
イメージはまだ曖昧だ。荒削りで、これが正解なのかも分からない。
それでも――確かな変化があった。
「っ……!」
地面を蹴った瞬間、景色が一気に流れる。
速い。
あまりにも速すぎた。
五十メートルどころか、一秒とかからず駆け抜けられるほどの速度。
――いや。
「……あっ」
出しすぎた。
勢いに体が追いつかない。
脚だけが前へ飛び出し、頭と脚の高さが入れ替わる。
次の瞬間。
「ぶべっ!」
ゴンッ!!
盛大に頭から地面へ突っ込み、そのまま腹這いのままズザァァァッと滑走する。
土煙を巻き上げながら、そのままゴブリンモドキたちの目の前まで一直線。
「ガ……ゴガ……?」
四つ目の魔物たちは困惑したように首を傾げた。
だが、予想外すぎる体当たりに恐怖したのか、一斉に後ずさる。
「く、そ……むずいな……」
言い訳はしない。
泥だらけになった服をぱっぱっと払い、フェルギアは鎖を握り直す。
「今度は……腕に、魔力……!」
深く息を吸う。
片足を大きく上げ――
ドンッ!!
地面を力強く踏み込み、魔力を込めた腕を勢いよく振り抜いた。
オレンジ色の鎖が唸りを上げ、空気を裂く。
「お、らああああああああッ!!」
鎖は唸りを上げながら弧を描き、ゴブリンモドキたちの腹部へと叩きつけられた。
「グギャッ!」
鈍い衝撃音とともに五体の体が宙を舞い、そのまま背後の塔へ激突する。
石壁が揺れ、亀裂が走る。
やがて五体は力なく地面へとずるりと崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
荒い呼吸を繰り返しながら、フェルギアはゆっくりと近づく。
「グ……ガ……ガ……」
かすかに痙攣する魔物。
「……まだ、生きてる」
事実を確認するように呟く。
一瞬だけ迷う。
だが、その迷いを振り払うように、オレンジ色の鎖を頭上へ掲げた。
「……っ!」
振り下ろす。
ゴキッ――。
嫌な音が響き、二体の頭蓋が砕け散る。
血が飛び散り、魔物たちは短く痙攣すると、足先から黒い塵へと変わっていった。
「……二匹」
小さく数える。
残った三体にも近づき、一体ずつ、確実に。
鎖を振り下ろす。
骨が砕ける音。
肉を潰す感触。
そして黒い塵。
それを三度繰り返した。
──最後の一体が消滅した、その瞬間だった。
「……うっ」
全身から一気に力が抜ける。
膝が折れ、そのまま地面へ尻もちをついた。
「はぁ……はぁ……」
胸が苦しい。
手が震える。
魔物の肉体は消える。
だが、血だけは消えない。
辺り一面に広がる赤黒い血溜まり。
鼻を突く鉄臭さ。
それは、この場で命が失われたという事実だけを、いつまでも残し続けていた。
荒い息を整えながら、フェルギアは周囲を見渡す。
この任務の前提階級は三級。
三級ともなれば、それなりの危険任務のはずだ。
それなのに――相手はあのゴブリンモドキ五体だけ。
「そんなわけ……ないよな」
納得できない。
むしろ、今までが静かすぎた。
「立た……ねぇと……」
掠れた声で呟き、地面へ落ちた鎖をもう片方の手で握り直す。
その瞬間だった。
――ドスン。
重たい足音。
塔の裏から、巨大な影がゆっくりと姿を現した。
「……っ」
ゴブリンモドキより、一回り――いや、二回りは大きい巨体。
肩には刃毀れだらけの大剣。
頭部には十字架のように伸びた黒い角。
四つの眼球が、それぞれ別々の方向へとぎょろりと動く。
肌の色も、醜悪な顔立ちもゴブリンモドキと同じ。
だが、その全身から放たれる威圧感だけは比べ物にならなかった。
「ゴ……ガガ……?」
低く濁った声を漏らしながら、魔物は辺りへ視線を巡らせる。
黒く染まった血溜まり。
消え去った仲間の痕跡。
そして、その中央に立つ白いパーカーの青年。
「……群れのリーダー」
フェルギアは乾いた唇を舐める。
「ゴブリンロード……ってところか」
四つの眼が、一斉にフェルギアを捉えた。
仲間が全滅したことを理解したのだろう。
巨体がゆっくりと震え――
「ゴグ……アアアアアアアアアッ!!」
怒号にも似た咆哮が都市全体へ響き渡る。
砕けたビルの窓ガラスがビリビリと震えた。
次の瞬間。
ドォン!!
地面を踏み砕きながら、ゴブリンロードは大剣を引きずり、一直線にフェルギアへ襲い掛かった。
「うぐっ……!」
鉛のように重い身体を無理やり動かし、フェルギアは脚へ魔力を集中させる。
──跳べ。
地面を強く蹴る。
疲労のせいでイメージが曖昧になったことが、逆に幸いした。
飛び退いた距離は、離れすぎず近すぎず。反撃にはちょうどいい間合いだった。
視線を前へ戻す。
そこには、フェルギアが立っていた場所へ大剣を叩きつけるゴブリンロードの姿。
轟音と共に地面が砕け、土煙が舞い上がる。
「ゴグ……ギギィ……!」
獲物を逃した苛立ちからか、魔物は低く唸り声を漏らした。
「もう……一度!」
今度は失敗しない。
イメージを、より鮮明に。
魔力が腕へ流れ込む感覚を頭の中で何度も描き、全身へ染み渡らせる。
ゴブリンロードは、大剣を振り下ろした直後。
あの巨体では、すぐに次の動きへ移れない。
──今しかない。
フェルギアは前傾姿勢になり、地面を蹴った。
先ほどの暴走じみた速度には届かない。
それでも十分すぎるほど速い。
一瞬で魔物の懐へ潜り込む。
「ふんっ!!」
長く伸びた鎖が、ゴブリンロードの腹へ叩きつけられる。
鈍い衝撃音。
しかし、それだけでは終わらない。
フェルギアは腹へ当たった鎖を軸に、腕へ込めた魔力を一気に解き放つ。
「ぶっ……飛べぇぇぇぇッ!!」
鎖が唸りを上げ、斜め上へと跳ね上がった。
次の瞬間。
ゴブリンロードの巨体は地面から弾き飛ばされ、まるで投げ捨てられた人形のように空高く舞い上がる。
「うがっ……!」
フェルギアは勢い余って身体を反らし、そのまま仰向けに地面へ倒れ込んだ。
受け身の取り方など知らない。
背中に鈍い衝撃が走るが、今さらそんな痛みを気にする余裕はなかった。
数秒後――。
ドォンッ、と重々しい音が響く。
吹き飛ばされたゴブリンロードが地面へ叩きつけられ、その巨体は骨と肉を砕きながら、無残な肉塊へと変わった。
やがて足先から黒い塵となり、風に溶けるように消えていく。
「これで……任務、達成……か」
初めての任務。
しかも大きな怪我ひとつ負わずに終えることができた。
本来なら飛び上がって喜ぶような結果なのだろう。
だが、胸に広がっていたのは達成感ではなかった。
どこまでも重く沈む、鉛のような疲労感。
身体ではない。
心が、限界だった。
「……帰る、か」
身体はまだ動く。
休養所まで歩くくらいなら問題ない。
ゆっくりと立ち上がり、フェルギアは集落の方角へ視線を向ける。
「……アステラ」
その名前を口にしただけで、胸が締めつけられた。
自分を忘れてしまった彼女。
仮面で素顔を隠し、まるで別人のような冷たい瞳。
あの言葉。
『お前など知らん』
耳の奥で何度も繰り返される。
心配じゃないと言えば、嘘になる。
どうして記憶を失ったのか。
なぜ仮面をつけているのか。
聞きたいことは山ほどあった。
けれど――。
(……いいか)
フェルギアは小さく目を閉じる。
(あいつは……生きてるんだから)
それだけで十分だ。
そう、自分に言い聞かせるように呟きながら、フェルギアはゆっくりと歩き始めた。
───「一応……な」
ラートにだけは、ちゃんと別れを告げておきたかった。
何も言わず姿を消せば、あのお人好しなおじさんはきっと心配する。
そう思い、フェルギアは集落の中央へと足を向けた。
──その時だった。
「だ、だから違うんだべ! フェルギアは戻ってくるだべ!」
聞き覚えのある必死な声。
思わず足が止まる。
視線の先では、小柄なラートが必死の形相で両手を振り、青髪の女性へ何度も頭を下げていた。
「お前が言ったんだろう。あいつは不審者ではないと」
冷え切った声。
感情の一切ないその声は、フェルギアの心臓を嫌というほど締めつける。
「それは、お前の命で保証されたことだ」
「そ、そうだべ! だから急がなくていいべ! あいつはちゃんと戻って──」
「……ラート……」
フェルギアの指先がぴくりと震えた。
嫌な予感が、全身を駆け巡る。
頬を伝った一筋の汗が、顎から地面へ落ちる。
その瞬間だった。
フェルギアは地面を蹴った。
「急ぐな、だと?」
アステラは冷たく言い放つ。
「何時間経ったと思っている。それに──」
腰の鞘へ静かに手を添えた。
「どちらにせよ、お前のような穀潰しなど、もういらん」
シャリン――。
乾いた音を立て、剣身が鞘から抜き放たれる。
「やめろおおおおおおお!!」
フェルギアの絶叫が集落中へ響き渡る。
右手からオレンジ色の鎖が弾けるように伸びた。
だが。
アステラは、その叫びに気づくことなく。
ラートだけを見据えたまま。
迷いなく、その剣を振り下ろした。




