第四十四話 「雨が止めば虹が咲く」
駆け出した。
自分の英雄を信じたから。
そんな言い訳をしても、今だけは許される気がした。
『お前の、たった一人の英雄だ!』
彼は強い。
思えば、最初からそうだった。
血まみれで倒れていたはずなのに、少し目を離しただけで笑っていた。
家庭教師をした時だって、ボクは一度も勝てる未来を想像できなかった。
どんな苦境でも笑って。
どんな絶望でも立ち向かって。
そして今も。
勝てないと分かっている相手へ、一人で向かっていった。
体だけじゃない。
心も、誰より強い人だった。
最後に見た、大きな背中。
その背中を見た瞬間、ボクは無意識に走り出していた。
根拠なんてない。
それでも、不思議なくらい確信できる。
彼は必ず、生きて帰ってくる。
「……ボクは……」
足が止まる。
胸の奥が苦しい。
英雄として信じるなら、このまま逃げるべきだ。
でも。
友達なら。
今すぐ引き返して、一緒に戦うはずだ。
答えが出ない。
彼を信じたい。
でも、失いたくない。
英雄として見れば、背中を預けられる。
友達として見れば、置いていけるわけがない。
その二つの想いが、胸の中で激しくぶつかり合っていた。
『俺にだって誇りがある!』
『プライドがある!』
『意地がある!!』
その言葉が、止まっていたボクの足を縛りつけた。
そうだ。
彼は男だ。
もし今ボクが引き返したら。
彼はきっと、自分の言葉ではボクを救えなかったと思ってしまう。
それは違う。
絶対に違う。
ボクは、救われた。
『俺がお前の、たった一人の英雄だ!』
あの言葉に。
あの背中に。
確かに救われた自分がいた。
だから。
救われた側として、ボクにも守らなきゃいけないものがある。
彼の誇りを。
彼のプライドを。
彼の意地を。
だから今は、信じる。
英雄を。
止まっていた足が、ゆっくりと前へ出る。
出口から差し込む光が、少しずつ強くなっていく。
父様は、ボクを見たらなんて言うだろう。
ルクシスと一緒に戦わなかったことを怒るだろうか。
……いや。
きっと、何も言わない。
今までと同じように、ボクなんて見向きもしないだろう。
それでも。
「……それでも、いいや」
自然と笑みがこぼれた。
最近は、そう思えるようになった。
思えるようになったからこそ。
今度は、別の生き方をしたい。
これからもルクシスに剣を教わって。
魔法を教わって。
一緒に笑って、生きていきたい。
彼に憧れた。
彼みたいになりたいと、初めて思った。
人生で一度も抱いたことのなかった感情。
憧れ。
思い返せば、ルクシスはたくさんのものをくれた。
魔術が上達する喜び。
誰かと話す楽しさ。
誰かを信じる安心感。
そして――
自分にも、生きていていいんだと思える勇気。
たった一週間。
それだけの時間で、彼はボクの人生を変えてしまった。
……そうだ。
彼は。
最初に会ったあの日から、ずっとボクの英雄だった。
その時だった。
ドゴォンッ!!
目の前の壁が崩れる轟音。
続けて、後ろから何かが着地する重い音が二つ。
足が止まりかける。
振り返りそうになる。
「振り返るな!! 走れ!!」
少し遅れて届いた、その声。
聞き間違えるはずがない。
ボクの英雄の声だった。
──外へ飛び出す。
夜風が熱くなった頬を撫でる。
だが、そんな心地よさを感じる余裕なんてなかった。
背後では、何かが激しくぶつかり合う轟音が響き続けている。
走るたびに音は少しずつ遠ざかっていく。
それでも振り返れば、きっとまだ視界に入る距離だ。
その証拠に、砕けた瓦礫が時折こちらまで飛んでくる。
一つが頬を掠めた。
熱い痛み。
頬を伝う血。
でも。
ボクの英雄は、こんなものじゃない。
腹を貫かれても。
腕を貫かれても。
何度倒されても。
それでも立ち上がって、戦い続けている。
それなのに。
ボクは頬が切れただけで足を止めそうになる。
そんなの。
許されるわけがない。
前へ。
前へ。
そう思って足を動かした、その瞬間。
力が抜けた。
「あっ……」
膝から崩れ落ちる。
砂利が皮膚を削り、掌に激痛が走る。
転んだ。
許されるわけがないのに。
ボクは、転んでしまった。
ボクは、ルクシスがどれだけ追い詰められているのか知っていた。
どれだけ勝ち目がなくて。
どれだけ痛みに耐えながら戦っているのかも。
全部、知っていた。
知っていて、この失態だ。
当然、すぐに立とうとした。
失敗したらすぐに取り返せ。
謝るのは、取り返してからでいい。
それはルクシスが教えてくれたことだった。
「……っ!」
地面に手をつき、無理やり体を起こそうとする。
だが。
膝に力が入らない。
再び崩れ落ちる。
腕も震え始める。
握った拳から、少しずつ力が抜けていく。
「セイン!!」
ルクシスの叫びが聞こえた。
怒鳴っているわけじゃない。
責めているわけでもない。
ただ。
必死だった。
その声だけで分かった。
背後から、肌を刺すような殺気が迫る。
振り返らなくても分かる。
次の瞬間には。
ボクは殺される。
「……どうして」
小さく呟く。
どうして、こうなってしまったんだろう。
まだ。
ルクシスに。
ありがとうも。
ごめんなさいも。
何一つ、伝えられていないのに。
だけど、その殺気は、ボクの体を貫かなかった。
背中の服に、鋭い爪の先端が触れている。
あと数ミリ押し込まれれば、それだけで命は終わっていた。
それなのに。
やつは、動かない。
「……ジ……ジ……間……間……?」
やつは首をぎこりと鳴らしながら、ゆっくりと空を見上げる。
「……殺……セ……ない……ない……不……可……」
何かに命令されているようにも、何かへ報告しているようにも聞こえる、不気味な声だった。
「お前……さっきから何言ってんのか、全然わかんないんだよ!!」
怒鳴り声と共に、ルクシスが飛び込む。
だが。
その拳が届く寸前。
やつの姿は、まるで霧が晴れるように消えた。
「がはっ……!」
空を切った勢いのまま、ルクシスはボクのすぐ後ろへ倒れ込む。
「また……これかよ……」
ボクは震える脚を無理やり動かし、ゆっくりと立ち上がった。
辺りを見渡す。
瓦礫。
砕けた壁。
血の匂い。
だけど、あの異様な気配だけが跡形もなく消えていた。
まるで、嵐だけが突然通り過ぎていったようだった。
その静けさに気づいたのか、ルクシスの口元がわずかに緩む。
安堵したように大きく息を吐き、彼も地面へ手をついて、ふらつきながら立ち上がった。
「逃げたのか……?」
ルクシスは頭を掻きながら辺りを見渡す。
やつの気配は、もうどこにもない。
ようやく安全を確認すると、大きく息を吐き、ボクへと手を差し伸べた。
「まぁ……酷い戦いだったけどさ」
照れくさそうに笑う。
「二人共生き残れたってことで」
その笑顔は、初めて出会った時に向けてくれたものと、どこか似ていて。
でも、あの時よりずっと優しかった。
ボクも自然と笑みがこぼれ、その手を握る。
「……ありがとう、ルクシス」
「どういたしまして」
「あと……ごめんなさい」
「……?」
ルクシスは首を傾げた。
「なんで謝るんだ?」
本当に分かっていない。
そんな顔だった。
それがおかしくて。
安心したら力が抜けて。
「……ぶっ、ははっ……あはははは!」
気づけば笑っていた。
死にかけた直後だというのに。
こんなにも笑える自分がおかしかった。
「え、えぇ……?」
ルクシスは困ったように頭を掻く。
「……俺も謝ったほうがいいか?」
その一言がまた可笑しくて。
ボクは涙を浮かべながら、しばらく笑い続けた。
「はぁ……」
笑い終えたあと、ようやく息を吸う。
涙が頬を伝っていた。
きっと今、ボクの顔は真っ赤になっている。
「ルクシス……ボクの瞳……赤いんだ」
「え?」
「ほら、魔物の色って……言ったじゃん? 黒い髪なのに、赤い目で……気持ち悪がられたんだ」
「……そう、か」
ルクシスがゆっくりと目を伏せる。
その表情は怒りでも悲しみでもなく、どうしようもない現実を知ってしまったような複雑なものだった。
「ボクはね、この目が大っ嫌い」
頭に乗せていた官帽風の帽子を外す。
髪と帽子の間から垂れていた紙も外れ、赤い瞳が夜風にさらされた。
ずっと隠してきた、本当の自分。
「でもね……ルクシスは、この目を嫌いにならないと思うんだ」
返事はすぐには返ってこなかった。
沈黙が流れる。
だけど、不思議と不安はなかった。
彼なら。
ルクシスなら。
きっと。
「……綺麗だよ」
優しく届いた、その一言。
「お前が嫌いでも……俺は、お前の瞳の色、好きだよ」
その瞬間。
張り詰めていた何かが、音を立ててほどけた。
「……そう言うと……思ってたよ」
声が震える。
涙が止まらない。
「……実はさ、俺の友達にもいるんだよ」
「そう……なの……?」
「ああ。緑髪で、赤い瞳をしてる最高に変なやつ」
「でも俺は、そんな最高に変なやつを最高に信じてる。それぐらい、大切な相手だ」
「……そっか……羨ましいな……」
ぽつりと漏らす。
するとルクシスは照れくさそうに頭を掻いた。
「羨ましいってな……」
少し笑って。
「俺は今言った奴と同じくらい、お前のことを好いてるぞ?」
「え……?」
息が詰まった。
どういう意味か、聞きたかった。
だけど、その問いを口にする前に、大勢の足音が夜道に響いた。
石畳を踏みしめる音。
振り返る。
そこには父様と兄様、そして大勢のメイドたちがいた。
父様は、いつもと変わらない厳しい表情。
だけど。
兄様だけは違った。
「セイン!」
駆ける。
そして勢いよくボクを抱きしめた。
「……さーてと…俺は剣を取りに行かなくちゃな〜……」
ルクシスが気を遣ってその場を離れていく。
きっと、空気を読んだのだろう。
でも。
ボクにはまだ聞きたいことがあった。
『同じくらい好いてる』
その言葉の意味を。
だけど。
泣きながらボクを抱きしめる兄様を前に、体は動かなかった。
「セイン……大丈夫? 怪我はない?」
震えた声。
涙。
この温もり。
――初めてじゃない。
あの日。
台所で。
ボクが自分の目を包丁で潰そうとした時。
ボクの代わりに泣いてくれた人。
靄がかかっていた記憶が、ゆっくりと晴れていく。
そうだ。
兄様だった。
ボクが学校へ通えたのも。
毎日食事を食べられたのも。
この赤い瞳を失わずに済んだのも。
全部。
兄様が、誰にも見えないところで守ってくれていたからだった。
「兄……様……」
震える手で、兄様の背中へそっと腕を回す。
忘れていた自分が憎いのか。
思い出せたことが嬉しいのか。
もう、自分でも分からなかった。
ただ一つだけ。
兄様の腕は、驚くほど温かかった。
あの時。
ボクの処刑を止めてくれたのは、母様と兄様だった。
ボクを愛してくれたのも。
最後まで味方でいてくれたのも。
母様と、兄様だった。
母様には、もう伝えられない。
ずっと言えなかった言葉。
でも。
兄様はいる。
今も、こうして生きている。
なら。
今、伝えなきゃいけない。
「兄様……」
そっと兄様の腕から離れる。
涙で滲む視界の向こうに、優しく笑おうとしてくれている兄様が見えた。
「ありがとう……ございます」
震える声で。
それでも、はっきりと。
「心配してくれて」
笑って伝えた。
その瞬間、兄様は堪えきれていない涙をもう隠さなかった。
ボクも、止まらなかった。
もう一度。
今度は互いの想いを確かめるように、強く抱きしめ合う。
温かかった。
忘れていた家族の温もりが、そこにはあった。
こうして思い出せたのは。
こうして、この腕の中に戻ってこられたのは。
全部。
ルクシスが、ボクを生かしてくれたからだった。
──また、ボクは彼に、お礼を言わなきゃいけなくなった。




