第三十九話 「勝利条件」
ルクシスは息を切らしながら階段を駆け下りる。
一段飛ばしで駆け抜け、周囲へ鋭く視線を走らせた。
「王が全然見当たらねぇ……もう逃げたのか……?」
王の姿も。
フォマルスの姿も。
どちらも見当たらない。
(まずい……)
居場所が分からない以上、誰を最優先で探すべきなのか判断できない。
王か。
セインか。
それとも、まだ生きている可能性に賭けてメイドたちか。
「……いや」
ルクシスは首を振る。
フォマルスの目的は王だ。
あいつが王を追っているなら、城内に残るセインたちを襲う可能性は低い。
「まぁ……王族全員皆殺しが目的って可能性もあるけどな……!」
最悪の想像を振り払い、ルクシスは城の正門へ向かって駆ける。
目の前には、外へ続く巨大な二枚扉。
「ぐっ……!」
両手と肩を押し当て、全身の力で押し込む。
ギギギギギ……。
重々しい音を立てながら、ようやく扉がわずかに開いていく。
「王は外に出る時に、わざわざ扉閉めたのかよ……!」
悪態をつきながらさらに押し込む。
やがて、自分一人が通れる程度の隙間ができた。
ルクシスは身体を横向きにし、無理やりその隙間へ滑り込む。
「よし……!」
外へ出る。
そして顔を上げた、その瞬間。
「あっ……」
思わず声が漏れた。
そこにいた。
フォマルスだ。
背を向けたまま、一歩も動かず立っている。
異様なほど静かなその姿に違和感を覚えたが――理由はすぐに分かった。
その腕には、ぐったりとした王の姿。
首元を掴まれ、意識を失っている。
目は閉じているものの、目立った外傷は見当たらない。
どうやら気絶しているだけらしい。
「捕まえ……タタタタタ……」
壊れたような声を漏らしながら、フォマルスは王の後ろ襟を掴み直す。
そのまま、まるで獲物を見せつけるように片腕で軽々と持ち上げた。
ぶらり、と王の身体が宙に浮く。
そして――。
フォマルスの口元から、異様に長い舌がゆっくりと伸びる。
ぬらり、と湿った音を立てながら、その舌先が王の頬を這うように舐めた。
まるで獲物の味を確かめる獣のような仕草だった。
その光景を目にしたルクシスの背筋を、言いようのない悪寒が駆け抜ける。
ジュルリ……。
湿った音を立てながら、フォマルスは長い舌をゆっくりと口の中へ戻した。
その口元は、どこか満足そうに歪んでいる。
やがて王の身体を少し下ろし、足先が地面へ触れた。
「返せぇぇぇぇぇぇ!!」
怒号と共に、ルクシスは黒い剣を全力で投げ放つ。
剣は凄まじい速度で空気を裂き、一直線にフォマルスの頭部へ迫る。
しかし――。
フォマルスはゆっくりと振り返ると、
ガシィッ!!
大きく開いた口で、その剣を歯だけで噛み止めた。
鋭い刃が歯と噛み合い、火花が散る。
「バケモンがぁぁぁぁぁ!!」
だが、それでいい。
剣を止めるために動きが止まった、その一瞬こそが狙いだった。
ルクシスは一気に間合いを詰める。
狙うのは王を掴んでいる腕。
剣を握り直し、迷いなく振り抜く。
ザシュッ!!
長い袖が裂ける。
さらに刃は肉へ食い込み、赤黒い血が滲み出る。
(いける……!)
確かな手応え。
腕はあと少しで斬り落ちる。
ルクシスの口角が自然と吊り上がる。
その瞬間だった。
フォマルスの空いた腕が、不気味な速度で跳ね上がる。
鋭く伸びた黒い爪。
それは下からルクシスの顔面を引き裂く軌道を描いていた。
だが、ルクシスの視線は腕だけを見ている。
「斬れる」と確信してしまった。
その一瞬の油断。
気付いた時には――。
「……っ!」
爪は、すでに顎の真下まで迫っていた。
避けられない。
それでも。
「ぐっ……!」
ルクシスの剣を振る腕は止まらなかった。
ここで止めれば王は助からない。
そして。
フォマルスの爪が顎へ触れた、その瞬間――
キィィィィィンッ!!
甲高い金属音が辺りへ響き渡る。
まるで鋼鉄に刃を叩きつけたような衝撃。
フォマルスの身体が驚いたように大きく仰け反った。
「効かねぇんだよ!!」
ルクシスは叫びながら最後まで剣を振り抜く。
ズバァァッ!!
フォマルスの腕が肩口から切り飛び、宙を舞った。
王の身体が重力に従って崩れ落ちる。
ルクシスはすかさず王の腕を掴み、その勢いのまま大きく後方へ跳び退いた。
土煙が舞い上がる。
王を庇うように前へ立ち、ルクシスは荒い息を吐いた。
フォマルスは大きく仰け反った反動で口を開き、
ガランッ。
噛み止めていた黒い剣が地面へ転がった。
切り落とされた腕の断面からは、ぽた……ぽた……と血が滴り落ちる。
それでも。
フォマルスは傷など存在しないかのように、ただ黙ってルクシスを見つめ続けていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
ルクシスの呼吸は乱れている。
全身から汗が滝のように流れ、肩は激しく上下していた。
(王は取り返した……!)
肩越しに王が後ろへ倒れていることを確認する。
(今はこっちが有利だ……! 相手は攻めるしかねぇはず……!)
黒い剣を構え直し、重心を低く落とす。
いつでも飛び出せるように。
いつでも迎え撃てるように。
「こっちだって…勝つ気でいるんだ」
口元に無理やり笑みを浮かべる。
「舐めてたら…普通に負けちまうぞ?」
声は震えていた。
恐怖も疲労も隠し切れてはいない。
それでも挑発する。
ほんの少しでも相手の判断を鈍らせられれば、それで十分だった。
フォマルスは小さく口を動かす。
「ルク……シス……」
その身体が小刻みに震え始める。
「殺す……不……可……不可……」
まるで壊れた機械が同じ命令を繰り返しているようだった。
首がぎこちなく持ち上がり、視線がゆっくりと空へ向く。
(なんだ……?)
ルクシスは剣を握る手に力を込める。
攻撃が来る。
そう身構えた、その時だった。
「……カ」
「は?」
ほんの一文字だけ。
今までとは違う、妙にはっきりとした声。
そして。
「変更ダ」
その瞬間だった。
ドンッ!!
フォマルスは地面を砕く勢いで前傾姿勢になり、一直線に駆け出す。
狙いは――ルクシスではない。
その横をすり抜け、城の中へと突っ込んでいく。
「おい!くそっ、またそれかよ!」
ルクシスも反射的に走り出そうとする。
だが。
足は動かなかった。
「……っ」
後ろには、気絶したままの王。
もしここで王を置いていけば。
それがフォマルスの誘導だったとしたら。
セインたちを囮にして、自分を王から引き離す作戦だったとしたら。
フォマルスはいつでも引き返し、この王を奪い返せる。
だが――。
追わなければ。
城内にいるセインたちが殺される。
王を守るか。
仲間を助けるか。
どちらか一方しか選べない。
「……どうすればいい」
握った剣が、わずかに震えた。
「……行ってくれ」
「……はぁ?」
聞き間違いかと思った。
視線を落とすと、王は薄く目を開けていた。
意識はまだ朦朧としているはずなのに、その瞳だけは真っ直ぐルクシスを見つめている。
「私……よりも……貴方には、もっと大切な人間がいるように見えるぞ……」
その口調に、王と平民という隔たりはなかった。
ただ、一人の大人が、一人の青年へ言葉を掛けているだけだった。
「いや……でも……!」
ルクシスは言葉に詰まる。
王を置いていく。
そんな判断が正しいとは思えない。
「……セインの……」
その名を聞いた瞬間。
脳裏に、鮮明な声が蘇る。
『そして……勝手ながら、こちらのルクシス・サーベンダーという者を、私の従者にさせていただきます。』
あの日。
自分を従者だと言い切ったセインの声。
「……従者なんだろう?」
王は静かに微笑んだ。
その一言が、迷いを断ち切る。
「…………」
ルクシスはゆっくりと息を吐き、大きく吸い込む。
握った剣を強く握り直した。
「……後で死んだとしても、恨まないでくださいよ!」
そう言い残すと、ルクシスは王へ背を向ける。
ドンッ!!
地面を強く蹴り、その身体は弾丸のような勢いで城内へ飛び込んだ。
王は遠ざかっていく背中を静かに見送り、小さく目を閉じる。
「……頼んだぞ」
その呟きは風に溶け、ルクシスの耳に届くことはなかった。
───
「はぁ……はぁ……!」
肺が焼けるように痛む。
呼吸を整える暇すらない。
黒い剣は王のそばへ落ちたままだ。
だが、取りに戻る余裕などなかった。
今は一秒でも早く、フォマルスへ追いつかなければならない。
ルクシスは荒れ果てた城内を全力で駆け抜ける。
石畳を蹴るたび、靴音が廊下へ激しく響いた。
破壊された扉。
壁に残る無数の傷跡。
殺害の痕跡が、フォマルスの進路を物語っている。
突き当たりまで走ると、横へ折れ、勢いそのまま階段を駆け下りた。
「……あいつは!」
最後の段を飛び越え、着地と同時に左右を見渡す。
だが――。
フォマルスの姿は、どこにもない。
「まだ来ていないのか……? いや……」
すぐにその考えを打ち消す。
フォマルスは、自分より数秒早く城内へ飛び込んだ。
あの異常な脚力なら。
(もう……着いてる……!)
最悪の予感が、胸を締め付ける。
廊下に並ぶ松明の小さな炎が、ルクシスの疾走で生まれた風に揺れた。
その先には、蹴破られた扉がいくつも転がっている。
フォマルスは迷うことなく、この道を進んだ。
ルクシスも壊れた扉を飛び越え、一直線にセインの部屋へ向かう。
そして――。
視界の先に、一枚の扉が映った。
「……っ!」
セインの部屋へ続く扉。
だが、その扉はもう原形を留めていなかった。
木片が周囲へ散乱し、まるで最初から扉など存在しなかったかのように、入口は無残に開け放たれている。
「もうかよ……!」
嫌な想像が頭をよぎる。
遅かったのか。
間に合わなかったのか。
考えるな。
今は確認するしかない。
ルクシスは歯を食いしばり、そのまま部屋へ飛び込んだ。
「セイン!!」
部屋の奥。
フォマルスの背中、そのさらに向こう。
壁にもたれ掛かるように座り込んだセインの姿があった。
顔は青ざめ、肩は小刻みに震えている。
「るっ……くしす……」
か細く、今にも消えそうな声。
その一言だけで、ルクシスは間に合ったのだと理解した。
だが。
ゴキッ――ゴキゴキッ。
フォマルスの首が嫌な音を立てながら勢いよく縦に百八十度回転する。
身体はセインへ向けたまま。
顔だけがルクシスを見据えていた。
「ルク……シス……」
その口元が、ゆっくりと吊り上がる。
ニィィィ……。
人間とは思えない、不気味な笑み。
次の瞬間。
ゴキンッ!
首を鳴らすと同時に、フォマルスは鋭い爪をセインの喉元へ突き出した。
「やらせるかよ!!」
ルクシスが床を蹴る。
今までのどの踏み込みよりも強く。
ドォンッ!!
石畳が砕け、破片が後方の壁へ勢いよく叩きつけられる。
一瞬で間合いを詰めたルクシスは、黄金の剣を横薙ぎに振るった。
キィィィィンッ!!
甲高い衝突音が部屋中へ響く。
フォマルスの爪は、セインの首へ届く寸前で黄金の刃に弾き止められた。
火花が散る。
ギリ……ギギギギ……。
爪と剣が押し合い、嫌な音を立て続ける。
フォマルスは笑みを崩さない。
そのまま顔だけをゆっくりと近づけ、鼻先が触れそうな距離までルクシスへ迫る。
「セイン! 逃げろ!」
ルクシスはフォマルスから一瞬たりとも目を逸らさず叫んだ。
その声で我に返ったセインは、震える足に力を込める。
何とか立ち上がると、一度だけルクシスを見た。
その瞳には恐怖と、不安と、そして強い罪悪感が滲んでいる。
唇を噛み締め、小さく首を振る。
「……死なないでよ!」
涙を堪えるように叫び、部屋の出口へ向かって走り出した。
その進路は――
先ほどルクシスが斬り落とした、フォマルスの腕のすぐ横。
その瞬間。
フォマルスの笑みが、ぴたりと止まる。
首だけが、セインの方へ向いた。
セインも本能的に危険を察したのか、走りながらフォマルスへ振り向く。
――それが、いけなかった。
フォマルスは切り落とされた腕の断面を、ゆっくりとセインへ向ける。
次の瞬間。
ぐちゅっ……ぐちゃ、ぐちゃぐちゃっ。
肉が蠢く。
骨が軋む。
裂けた断面から筋肉が這い出し、血管が絡み合い、褐色の腕が瞬く間に再生していく。
その異様な光景に、ルクシスの目が見開かれた。
(再生できたのかよお前……!)
再生したばかりの腕が、何の躊躇もなく横薙ぎに振り抜かれる。
狙いは首ではない。
セインの帽子と髪の隙間から垂れ下がっていた、一枚の紙。
ザキンッ!!
鋭い音と共に、紙が真っ二つに裂ける。
「あっ――」
漏れた声は。
セインだったのか。
ルクシスだったのか。
誰にも分からなかった。
切り裂かれた紙が、ひらひらと床へ舞い落ちる。
同時に。
隠されていたセインの瞳が露わになった。
――血を流したように鮮やかな、赤い瞳。
紙を断ち切られた衝撃で、セインはその場へ尻もちをつく。
官帽風の帽子が床を転がり、黒髪の跳ねた毛先が小さく揺れた。
セインは俯いたまま動かない。
肩が震えている。
赤い瞳もまた、小刻みに揺れていた。
フォマルスの動きが止まる。
「赤い……目……」
その声には、初めて明確な反応が混じっていた。
「オ前……ガガガガガガガガ……!」
壊れたように叫び始める。
その標的は、もうルクシスではなかった。
ルクシスを押さえていた腕を外し、両手を広げながら一直線にセインへ飛びかかる。
「ひっ……!」
セインは恐怖に耐え切れず、ぎゅっと目を閉じた。
――直後。
ズシィッ!!
肉を貫く鈍い音が部屋に響く。
「……え…?」
恐る恐る目を開けたセインの視界に映ったのは。
自分ではない。
フォマルスの鋭い爪に腕を貫かれた、ルクシスの姿だった。
「ぐっ……」
激痛に顔を歪めながらも、ルクシスは笑う。
「最近……同じことあったばっかなのにな……」
だが、今回は違う。
貫かれたのは黄金の剣を握る利き腕ではない。
まだ戦える。
フォマルスは腕を引き抜こうともせず、怒りに震える声を上げる。
「邪魔……するナ!!」
空いた片手が、今度はルクシスの顔面目掛けて伸びる。
「そりゃこっちのセリフだ!」
ルクシスは黄金の剣を構え、その一撃を真正面から受け止めた。
キィィィンッ!!
再び鋼と爪が激しくぶつかり合い、火花が部屋いっぱいに散り広がった。
フォマルスが、ゆっくりとルクシスの顔を覗き込むように近づいてくる。
まるで獲物の最期を確認する捕食者のように。
(まずい……!)
ルクシスの脳裏に、先ほどの光景が蘇る。
吹き飛ばされた、あの攻撃。
来る。
そう確信した瞬間だった。
「うがあああああああ!!」
ルクシスは貫かれた腕を、無理やり引き抜いた。
肉が裂ける嫌な音とともに、鮮血が噴き出す。
「ぐっ……!」
痛みに顔を歪めながらも、そのままフォマルスの顎へ手のひらを叩きつける。
強引に、無理やり、頭を上へ反らせた。
フォマルスの視線が外れる。
その一瞬の隙。
腕の穴から血が止まらず吹き出し、ルクシスの頬を赤く染めていく。
「ルクシス……」
か細い声。
セインだった。
「……逃げ……ろよ……」
震えた声で、それでも必死に言葉を絞り出す。
ルクシスは顎を食いしばったまま腕を伸ばし続ける。
わずかでも力を緩めれば、フォマルスの視線が再びこちらに戻る。
その瞬間――さっきの吹き飛ばしが来る。
「でも……それじゃ……!」
セインの声が揺れる。
勝てない。
そう言いたいのが分かった。
「んなもん……わかってる……!」
ルクシスは即座に吐き捨てるように返す。
「だったら……どうして……!」
逃げないのか。
その問いに。
ルクシスは血を吐くように笑った。
「そんな理由で逃げるほど……俺は弱くねぇってことだよ!!」
ブシュッ……!!
腕の傷口からさらに血が噴き出す。
その血が、ルクシスの頬にまで飛び散った。
だがその顔は、苦痛に歪みながらも――どこか狂気じみた笑みに変わっていた。
この戦いの勝利条件は、フォマルスを倒すことじゃない。
守ること。
生き残らせること。
セインを。
王を。
「……生かして…帰すことだ!!」




