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神殺しの英雄  作者: トネヌ
第三章 『たった一人の英雄』
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第三十八話 「狂気の操法」

──階段を、一段、また一段と上っていく。

「……はぁ」

思わず漏れたため息。

脳裏には、昼間に見かけた頬に黒い文様を刻んだ人物の姿が、まだ焼き付いて離れない。

「セインにも心配させちまったみたいだしなぁ……」

苦笑しながら頭を掻く。

明日になったらちゃんと謝ろう。

そして、いつも通り笑って働こう。

そう心の中で決める。

昨日知ったことだが、この城の使用人たちは全員住み込みで働いているらしい。

理由を聞けば、

『奴隷だった時に買われましたので』

と、糸目イドはごく当たり前のように答えた。

どうやら、この城の使用人は皆、元奴隷なのだという。

「糸目の奴隷ばっか買ってメイドにするとか……趣味が変わってんな」

小さく笑いながら階段を上り切る。

そのまま廊下を歩き、いくつもの扉を通り過ぎる。

そして、一番奥にある部屋へ入った。

最初はセインのように地下室へ住まわされるものだと思っていた。

だが、糸目イドたちが物置部屋を使うことを許可してくれたおかげで、それだけは免れた。

ギィ、と軋む音を立てる古びた扉。

室内には使われなくなった棚や木箱が積まれ、空気は少し埃っぽい。

ルクシスは隅に置かれた簡素なベッドへ腰を下ろし、窓の外へ視線を向けた。

日はすっかり沈み。

夜空には無数の星々が、静かに瞬いていた。

その時だった。

窓の外を、シュバッと黒い影が横切った。

「……あ?」

思わず目を見開く。

見間違いか?

いや、この目があれほどはっきり捉えたものを見間違えるとは思えない。

万が一を考え、立ち上がって窓際へ歩み寄る。

「鳥かぁ……?」

勢いよく窓を開け、身を乗り出すように外を見渡した。

右。

左。

屋根の上。

庭。

木々の影。

順番に目を走らせる。

だが――

誰もいない。

「……鳥も見当たらねぇな」

夜風だけが静かに吹き抜け、木の葉を揺らしていた。

「疲れてんのか……?」

小さく息を吐く。

今日はいろいろありすぎた。

見間違いくらい、あってもおかしくはない。

そう自分に言い聞かせ、ルクシスは部屋を出た。

「……ふぅ」

廊下を抜けると、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。

見上げれば雲ひとつない夜空。

星々が静かに瞬いていた。

周囲を見渡しても、人影はない。

時刻にすれば、もう午前二時を回っているだろう。

「……眠くねぇな」

部屋へ戻っても寝付けそうにない。

それどころか、さっき見た黒い影が頭から離れない。

「少し散歩していくか」

そう呟き、ルクシスは中庭へ向かって歩き出した。

──やけに大きな噴水。その周囲を彩るように手入れされた花壇が並び、赤いレンガの道の両脇には短く刈り込まれた芝が夜露を受けて静かに輝いている。

ルクシスは大きく背伸びをした。

「ちょっと寒いかな……」

白い息が夜空へ溶けていく。

噴水の横を通り過ぎようとした、その瞬間だった。

ぞくり。

寒さとは違う、背筋を這い上がる悪寒。

「……」

いた。

噴水の向こう側。

月明かりを背負うように、一人の男が立っていた。

長い黒髪。

褐色の肌。

大柄な体格。

袖が異様に長い黒い衣服。

指先から伸びる鋭い爪。

どう見ても、この城の使用人ではない。

ルクシスは息を殺し、ゆっくりと右手を背中へ回した。

収納魔法が淡く揺らぎ、二本の剣が音もなく手の中へ現れる。

男はまだ気づいていない。

それとも――気づいた上で動かないのか。

剣を腰へ備え、できる限り音を立てないように鞘から抜く。

シャリ……

月光を受け、黄金の剣身と漆黒の剣身が静かに輝いた。

男の視線は、ずっと城へ向けられている。

見つめているのは、一つの部屋。

(あの部屋は……)

覚えている。

掃除の最中、一度だけ入ったことがある部屋。

セインの父親。

この国の王の私室。

(……殺し屋か?)

喉が自然と鳴る。

距離はまだある。

だが、一歩でも判断を誤れば、命はない。

ルクシスは呼吸を整え、足音を殺したまま男との距離をゆっくり詰めていった。

直後、男が口を開いた。

「じゃ──」

ルクシスの動きが止まる。

「邪魔が……入っタタタタタタタタタタ」

言葉の途中で声が壊れる。

まるで歯車が狂った機械のように、同じ音だけを繰り返し続ける。

(しゃらくさいッ!)

考えるより先に体が動いていた。

地面を蹴り、一気に間合いへ踏み込む。

黄金の剣が月明かりを裂き、男の首筋へ一直線に走る。

――だが。

首へ届く寸前で、剣はぴたりと止まった。

「……ドけ」

男がギョロリと首だけをこちらへ向ける。

囁くような、小さな声。

それなのに、その一言だけは異様なほど鮮明だった。

赤い瞳が妖しく輝く。

次の瞬間。

「っ!?」

見えない衝撃がルクシスの全身を叩きつけた。

体が宙へ浮き、そのまま数メートル吹き飛ばされる。

「うぐっ……!」

着地と同時に剣を地面へ突き立て、無理やり勢いを殺す。

土が抉れ、火花が散る。

それでも男との距離は大きく開いてしまった。

だが、そのおかげで相手の顔がはっきり見えた。

長い前髪。

赤い瞳。

普段は髪で隠しているのだろう。

そして──

頬に刻まれた黒い文様。

「……!」

間違いない。

今日、街で見かけたあの男だ。

「てめぇが……」

ギリッ。

奥歯が軋む音が夜の中庭に響いた。

「ガ……グ、ガ……」

ゴキ、ゴキゴキッ――。

首の骨が軋む音が、静まり返った空間に嫌というほど響く。

頭は下へ、横へ、そしてあり得ない角度へと不規則に揺れ、まるで糸の切れた操り人形のように動き続ける。その異様な光景を見ているだけで、吐き気が込み上げてきた。

ルクシスは眉をひそめながら、剣先をわずかに持ち上げる。

「……第二神徒は名を名乗ったぞ、お前も名乗った方がいいんじゃねぇの?」

神徒。

その存在について分かっていることはあまりにも少ない。だからこそ、どんな些細な情報でも拾っておくべきだと判断した。

すると、異形の口元がゆっくりと歪む。

「ダ……第五……神徒……狂操の……フォマル……ス……」

途切れ途切れの声。

人間の喉では到底出せないような濁った音が耳を撫でる。

「第五神徒……ね」

ルクシスはその名を小さく呟きながら剣を構え直した。

(ノアリスの時もそうだったが……神徒が律儀に名乗る理由は何なんだ……?)

挑発でもない。

誇示でもない。

まるで決められた儀式をこなすかのように、自ら名を告げる。

その意味だけが分からない。

だが考えている暇はない。

ルクシスは重心を低く落とし、一歩踏み込める姿勢を取る。

(こいつがノアリスみたいに舐めた戦い方をしてくれるとは思えねぇ)

目の前の怪物から漂う威圧感は、あの第二神徒とは種類が違う。

無機質で、底知れず、そして不気味。

正面から戦えば――勝てる未来など想像できなかった。

「……だが、ここで素直に負けて王族が皆殺しにされちゃあ……恩が返せねぇからな」

自分に言い聞かせるように呟く。

するとフォマルスは――動かなかった。

猫背のまま首だけを前へと伸ばし、長い前髪の奥からルクシスをじっと見つめ続けている。

微動だにしない。

その沈黙が、かえって恐ろしい。

(下手に近づけば……さっきみたいに吹っ飛ばされるだけだ)

額を一筋の汗が伝う。

剣を握る手に力が入る。

(どうする……)

先に動いた方が負ける。

そんな張り詰めた空気だけが、二人の間を支配していた。

――だが、その時だった。

(……なんだ……この感覚……?)

ルクシスは小さく眉をひそめる。

頭がじわりと揺れるような感覚。

軽い立ちくらみにも似た不快感が、脳の奥をゆっくりと侵食していく。

(気のせい……じゃねぇ)

時間が経つほど、その違和感は確実に強くなっている。

まるで何かに精神を削られているようだった。

(短期戦にしなきゃ……負けるな、これは)

長期戦は不利。

そう判断したルクシスは、一度全身から余計な力を抜き――次の瞬間、一気に力を込め直した。

ドンッ!!

爆発音にも似た轟音と共に地面を蹴る。

石畳が砕け、ルクシスの姿が一瞬で消えた。

次の瞬間には、フォマルスの真横へ回り込んでいる。

しかし――。

フォマルスも即座に首を捻り、その異様な速さでルクシスへと振り向いた。

「同じ失敗はしない!」

ルクシスは片足を深く踏み込み、片腕を大きく振りかぶる。

狙うのは首でも胴でもない。

前髪に隠れた両目。

一太刀で視界ごと切り裂く。

鋭い斬撃が一直線に走る――はずだった。

だが。

ガシィッ!!

「……っ!?」

フォマルスは、剣が目元へ届く寸前。

何の躊躇もなく、その刃を素手で掴み止めた。

「嘘だろ、お前……!」

口元には乾いた笑みが浮かぶ。

しかし頬を伝う汗だけは、その余裕が演技であることを物語っていた。

フォマルスの表情は変わらない。

まるで痛覚という概念が存在しないかのような無表情。

ギリ……ギリギリ……。

刃が肉を裂き、握った掌から黒ずんだ血がぽたぽたと滴り落ちる。

それでも離さない。

むしろ、さらに強く握り締めてくる。

そのままフォマルスは空いている片手をゆっくりと持ち上げ、ルクシスの顔へ伸ばした。

危険だと本能が叫ぶ。

ルクシスは迷わず剣から手を離し、その場を大きく飛び退いた。

直後、フォマルスの手が空を切る。

「くそっ……片手で剣止めるのはなしだろ……!」

悪態をつきながら着地するルクシス。

一方、フォマルスは奪った黒い剣をしばらく眺めると、興味を失ったように――

ガラン。

無造作に地面へ投げ捨てた。

金属音が静寂の中に響く。

その仕草はまるで、「武器など必要ない」と言わんばかりだった。

ルクシスの背中を、嫌な汗が一筋流れ落ちる。

「ジ……時間……ジカ……ジジジ……カカカカカ……」

壊れた機械のような声を漏らしながら、フォマルスはゆっくりと首を回す。

そして、不気味な動きで城の奥――王室のある方向へ顔を向けた。

「……っ!」

ルクシスの表情が変わる。

「逃げる気かよ!」

叫ぶと同時に地面を蹴る。

だが、その一歩は遅かった。

フォマルスは猫背のまま深く前傾姿勢になると、

ドンッ!!

地面を砕く勢いで踏み込み、その姿を一瞬で掻き消した。

「まずい……!」

ルクシスは舌打ちし、投げ捨てられた黒い剣を拾い上げる。

そのまま踵を返し、全速力で城へ駆け戻った。

薄暗い城内。

人気のない廊下を、ルクシスは息を切らしながら駆け抜ける。

石床を蹴る足音だけが、城内に激しく反響していた。

「このままじゃ……間に合わねぇ……!」

頬を汗が伝う。

胸の奥では焦燥だけが膨れ上がっていく。

(ここで殺されたら……俺は恩を仇で返すことになる……!)

歯を食いしばり、さらに速度を上げようとした、その時。

足が、不意に止まる。

「…………」

視線の先。

床へ倒れ伏していたのは、あの糸目のメイドだった。

身体の下には真っ赤な血溜まりが広がり、冷たい床をゆっくりと染めている。

確認するまでもない。

もう息はなかった。

「……くそっ!」

拳を強く握り締める。

立ち止まっている時間はない。

ルクシスは亡骸を飛び越え、再び王室へ向かって駆け出した。

(この速さなら……セインの父を殺すことなんて一瞬だ……!)

嫌な想像が頭から離れない。

階段を一気に駆け上がる。

そして王室の前へ辿り着くと、

バァン!!

勢いよく扉を蹴り開けた。

「フォマルスは――!」

いた。

王のすぐ隣に。

その手は今にも命を奪わんとしている。

間一髪だった。

フォマルスはゆっくりと振り返り、ルクシスへ視線を向ける。

そして――。

口元だけを、不自然に吊り上げた。

「何……笑ってんだよ!!」

怒号にも近い叫びを上げ、ルクシスは一直線に突っ込む。

黒い剣がフォマルスの腹部を狙って振り抜かれる。

ガシッ!

またしても、その刃は素手で受け止められた。

「それは見たっての!」

ルクシスは剣を掴まれたことなど構わず、踏み込んだ勢いのまま片脚を振り抜く。

ドゴォッ!!

重い蹴りがフォマルスの胴を捉え、その身体を大きく吹き飛ばした。

壁へ激突する音を背に、ルクシスはすぐさま王へ駆け寄る。

「おい! 起きろ!」

肩を激しく揺さぶる。

王は小さくうめき声を漏らすと、重たい瞼をゆっくりと開いた。

「敵襲だ! 逃げねぇと死ぬぞ!!」

敬語を使っている余裕などなかった。

ルクシスの切羽詰まった声を聞いた王は、一瞬だけ辺りを見回す。

状況を理解したのだろう。

何も問い返さずベッドから飛び降り、険しい表情のまま部屋を飛び出していった。

「……よし」

小さく息を吐く。

そして剣を構え直し、フォマルスへ視線を向けた。

「これで、お前の目的はもう簡単には果たせねぇぞ?」

声がわずかに震える。

本当は恐怖で心臓が暴れ回っている。

それでも相手に悟られないよう、必死に余裕のある口調を作った。

フォマルスはその場から動かない。

ただ、ゆっくりと口を開く。

「おオ前……」

その口角が、先ほどまでとは逆にゆっくりと下がっていく。

「ルク……シス……」

「……なんで…知ってる?」

ルクシスの眉がぴくりと動く。

初対面のはずだ。

それなのに、こいつは迷いなく自分の名前を呼んだ。

「ルク……シス……あアいつ……の……」

「……はぁ?」

意味が分からない。

問い返した瞬間だった。

ゴキッ。ゴキゴキゴキッ!!

フォマルスの首が勢いよく四方八方へ折れ曲がる。

人間なら即死している角度まで捻じ曲がり、それでもなお止まらない。

「おオ……前……」

そして――

首が真上を向いた、その瞬間。

ぴたり、と全身の動きが止まった。

まるで何かの声を聞いたかのように。

数秒の沈黙。

やがて、壊れた機械のような声が漏れる。

「殺……す……不可……殺……ススススス……」

次の瞬間。

フォマルスは勢いよく扉の方へ身体を向けると、

ドンッ!!

床を砕きながら一直線に突進した。

「てめっ……!」

ルクシスは反応が一瞬遅れる。

フォマルスは、自分との戦闘を完全に切り捨てた。

狙いは最初から王だけ。

(まだ追いつける……!)

王は戦える人間ではない。

今から追えば十分間に合う。

ルクシスはすぐさま踵を返し、フォマルスの後を全力で追いかけた。

「まずは俺を殺してから行けよ!!」

怒鳴り声が廊下に響く。

しかし――。

フォマルスは一度も振り返らなかった。

まるでルクシスという存在が、最初から視界に入っていないかのように。

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