第三十七話 「セイン・フォン・セレスティアの自分殺し」
数年前の話。
昔の話。
忘れられない話。
教室には机と椅子が規則正しく並び、生徒たちの笑い声が飛び交っていた。
黒板には今日の授業内容が書かれ、その下にはチョークと黒板消しが無造作に置かれている。
どこからどう見ても、ごく普通の学校。
だけど。
私にとっては、一度も普通だったことなんてなかった。
「おい、ライン!」
後ろから、嫌いな声が響く。
学校で使っている偽名。
その名前で呼ばれるたび、嫌なことしか起きない。
「実は最近さぁ、俺もついに魔法覚えたんだよ!」
自慢げな声。
でも、その口元は笑っていない。
嫌味と悪意だけが滲んでいた。
男の子が私の頭へ手をかざす。
「──ミクロレーゲン」
詠唱が終わった瞬間。
「っ……!」
帽子へ向かって水が降り注いだ。
激しい雨が一点に集中したような勢いで帽子を叩きつけ、水が肩や制服へ流れ落ちていく。
「あっ……!」
反射的に椅子を蹴り、距離を取る。
教室に笑い声が広がった。
「ははっ、逃げた!」
顔は思い出せない。
記憶の中では鉛筆でぐちゃぐちゃに塗り潰されたみたいに真っ黒だ。
なのに、その笑い方だけは鮮明に覚えている。
「やめてよ……」
震える声でそう言うことしかできなかった。
「じゃあ、そのクソみたいな帽子外して土下座したらやめてやるよ!」
「それは……」
できない。
絶対に。
思わず教室を見回る。
助けを求めるように。
先生は、いない。
クラスメイトはいる。
けれど、誰一人として目を合わせようとしなかった。
聞こえていないふり。
見えていないふり。
それが、この教室の日常だった。
「それともさぁ──」
少年はニヤリと口角を吊り上げる。
「その帽子、燃やしちゃおっかなぁ?」
その笑顔が。
気持ち悪くて。
怖くて。
どうしようもなく、嫌いだった。
───私がいた。
学校へ通うようになるより、もっと前。
まだ幼くて、何も知らなかった頃の私。
……笑っていなかった。
家を歩けば、誰かと目が合う。
その瞬間、返ってくるのは笑顔じゃない。
軽蔑。
嫌悪。
憐れみ。
まるで汚いものでも見るような視線ばかりだった。
(どうして……)
何度も考えた。
何度も自分を責めた。
何度も、自分という存在を憎んだ。
でも。
違った。
私じゃない。
悪いのは――この目だ。
父様とも兄様とも違う、血のように赤い王眼。
この目があるから。
みんなは私を忌み子と呼ぶ。
みんなは私を嫌う。
だったら。
この目さえ、なくなれば。
ある日、誰もいない台所へ向かった。
小さな手で包丁を持ち上げる。
重い。
腕が震える。
刃先が揺れる。
それでも、ゆっくりと自分の顔へ近づけた。
冷たい刃先が瞳の前で止まる。
(……これで)
これでみんな、
ちゃんと私を見てくれるよね。
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
その瞬間だった。
ガシャン!!
包丁が床へ落ち、甲高い金属音が部屋中に響いた。
「……っ!」
手首を強く掴まれる。
思わず顔を上げる。
そこにいた人の顔は、見えなかった。
黒く塗り潰されていて、誰なのかも分からない。
だけど。
一つだけ。
たった一つだけ、今でも忘れられないものがあった。
頬を伝う、一筋の涙。
透明な雫が顎から零れ落ち、床へぽたりと弾ける。
その人は。
泣いていた。
私の代わりみたいに。
苦しそうに。
悲しそうに。
ただ、泣いていた。
その涙を見た瞬間。
どうしてか分からない。
私の手から、力が抜けた。
口元まで黒く塗り潰されているせいで、その人が何を言っているのかは分からなかった。
声は聞こえない。
言葉も分からない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
その人は。
私がしようとしたことを、自分のことのように悲しんでいた。
その涙を見ていたら。
気づけば、私も泣いていた。
「うっ……うぅ……」
堰を切ったように涙が溢れる。
その人の服を掴み、小さな胸に顔を押しつける。
服が涙でぐしゃぐしゃに濡れていく。
それでも、その人は離そうとはしなかった。
幼い私は泣き叫ぶ。
今まで胸の奥へ押し込めてきた全部を吐き出すように。
「なんで……!」
嗚咽で声が震える。
「なんで話してくれないのぉ!」
誰も。
父様も。
兄様も。
使用人も。
学校のみんなも。
誰も私を見てくれなかった。
「私が……私が駄目な子だったから……?」
涙で視界が滲む。
「それとも……私が……こんな目の色してるから……?」
喉が痛くなるほど叫ぶ。
「ねぇ……なんでよぉ……!」
答えは返ってこない。
返ってきたのかもしれない。
でも、その声だけはどうしても思い出せなかった。
だから今でも分からない。
あの人が、何を言ってくれたのか。
だけど。
その人は後日、一つの贈り物を持ってきてくれた。
帽子だった。
でも、普通の帽子じゃない。
内側から横に長い紙が垂れていて、ちょうど両目を隠せるようになっている。
その人は何も言わず。
そっと私の頭へ帽子を被せた。
紙が揺れ、赤い瞳が静かに隠れる。
そして――
その人は、笑った。
優しく。
安心させるように。
まるで、
「これでもう大丈夫だよ」
そう言ってくれているみたいに。
その日から、私は帽子を外さなくなった。
これは目を隠すための帽子じゃない。
私を守ってくれた人が。
私のためだけにくれた、大切な宝物。
だから今でも。
私は、この帽子を外せない。
数少ない。
本当に数少ない。
私がセインとして扱われた記憶だった。
それ以降。
皆から向けられる軽蔑の眼差しは、少しだけ減った気がした。
少なくとも父様は、必要な会話くらいなら返事をしてくれるようになった。
短くても。
冷たくても。
それでも、無視されるよりはずっと嬉しかった。
兄様は……どうだったんだろう。
思い出そうとしても、記憶がぼやけている。
いつ、どんな言葉をかけられたのか。
何をしてもらったのか。
何一つ思い出せなかった。
使用人達は相変わらず私を避けていた。
話しかけても返事はない。
それでも、ご飯だけは毎日ちゃんと運んできてくれた。
全部。
全部、この帽子のおかげだと思っていた。
この帽子が私を守ってくれる。
この帽子があるから、みんなは少しだけ私を人として扱ってくれる。
そんな気がしていた。
だから。
帽子をくれた人への感謝を忘れた日は、一日もない。
母様へ「ありがとう」を言えなかった後悔。
だからこそ、誰かにもらった優しさだけは絶対に忘れない。
それが私の約束だった。
だから――
この帽子だけは。
絶対に失いたくなかった。
失いたく……なかったのに。
「おい」
学校。
同い年くらいの男子が、私の前へ立つ。
嫌な予感がした。
逃げようとした、その瞬間。
「それ、貸せよ」
帽子が乱暴に掴まれる。
「っ!」
頭が軽くなる。
「あ……!」
「ちょ、ちょっと!」
必死に手を伸ばす。
でも。
腕が短い。
届かない。
男子は帽子を高々と掲げ、大笑いした。
「あっははは! 見ろよこいつ!」
紙が揺れ。
隠されていた赤い瞳が教室中へ晒される。
「赤い目してんぞ!」
「魔物じゃん!」
「きめー!」
教室中から笑い声が響く。
さっきまで何もしていなかった子達まで、一緒になって笑っていた。
「魔物は殺せー!」
誰かが箒で叩いた。
「っ……!」
背中に鈍い衝撃が走る。
続いて木刀。
肩。
腕。
脚。
何度も。
何度も。
何度も。
地面へ倒れる。
それでも帽子だけは取り返したくて立ち上がろうとする。
「まだ立つぞ!」
ドンッ!
また木刀が振り下ろされる。
視界が揺れる。
床へ倒れる。
それでも。
「返して……」
震える手を伸ばす。
「その帽子だけは……!」
それだけは。
恩人がくれた。
私を救ってくれた。
たった一つの宝物だから。
でも、私は無力だった。
帽子へと手を伸ばすたび、背中に鈍い衝撃が走る。
視界が揺れ、足元がふらつく。
それでも、届かせようと腕を伸ばし続けた。
……そして。
指先が空を掴んだ瞬間。
ぷつり、と。
糸が切れたように、意識が闇へ沈んだ。
───目を覚ました時には、もう誰もいなかった。
教室は静まり返り、床には数本の箒だけが転がっている。
そして。
私の視線は、一つの物で止まった。
帽子。
だけど、違った。
帽子の内側から垂れていた紙は、跡形もなく引き裂かれ、周囲には細かな破片だけが散らばっていた。
「……ぁ」
震える腕を伸ばす。
指先がようやく帽子に届き、爪で引っかくように引き寄せる。
帽子そのものは硬い素材だったおかげで壊れてはいない。
代わりに、泥と足跡だけが無数についていた。
私は帽子を胸に抱き寄せ、その縁へ額を押し当てる。
「……ごめん、なさい……」
声は震え、涙が帽子を濡らしていく。
この日、私は。
たった一つの宝物を、失った。
私をセインにしてくれた宝物を。
そして思い知った。
私は──
たった一つの宝物さえ、守れないくらい弱い人間なんだ、と。
だから――私は、私を殺すことにした。
元々よく外へ出ていた自分を殺した。
一人称が『私』だった自分を殺した。
赤い瞳を持つ、自分を殺した。
そうして生まれたのが、『ボク』だった。
学校には、もう二度と行かなかった。
直した帽子を深く被り、地下の部屋へ閉じこもる。
そして、元々嫌いだったはずの本を、ひたすら読み続けた。
父様も、使用人たちも、ボクを見ようとはしない。
だから嫌いだった。
嫌いだからこそ、思った。
ボクが、あの人たちみたいになれれば。
それがきっと、『普通』なんだと。
でもボクは弱いままだった。
父様の前では、怒られることを恐れ毎度『私』を使ってしまった。
弱い自分を殺したかった。
失いそうになった時、ちゃんと立ち向かえる自分でありたかった。
嫌いな目を持つ自分を殺したかった。
父様や兄様と同じ色の瞳を持つ自分でありたかった。
ただ――
ボクは、みんなと同じように。
『普通の人間』として、見てもらいたかった。
だから、嬉しかった。
『その……ありがとな』
その人は少しだけ笑って、照れくさそうに目を逸らした。
穏やかな笑みだった。
ボクの過去も。
この目のことも。
何一つ知らないからこそ向けられた、自然な笑顔。
笑ってくれて。
ありがとう、と言ってくれて。
それは本当に、当たり前のことだった。
……でも、ボクにとっては。
その『当たり前』が、ずっと欲しかった。
その時、初めて思えた。
ボクも、普通の人間になれたのかもしれない。
だから返さなくちゃ、と思った。
ボクに『当たり前』をくれた、この人に。
一生をかけても返しきれないくらいの恩を。
この人は知らない。
ボクが忌み子だということも。
赤い目を持って生まれたことも。
知れば、他の人たちみたいに軽蔑するのだろう。
……それでも、いい。
その時が来るまでは。
せめて、それまでの間だけは。
ボクはセインとして、この人と接したい。
この人はきっと――
今まで出会った誰よりも、優しい人だから。




