第三十六話 「忌み子」
ある日、ついに買い出しの仕事を任された。
毒を盛るような人間ではない――そんな最低限の信用を、ようやく糸目イドたちも持ってくれたらしい。
(信頼されるって……こんなに嬉しいもんなんだなぁ)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
思わず頬が緩んでいると、机を挟んで向かいに座るセインが不思議そうに首を傾げた。
「……ルクシス? どうかした?」
「あぁ、いや。なんでも」
(いっけね。まだ授業中だった)
今日は午前中いっぱい算術の授業だ。
ルクシスは気持ちを切り替え、セインのノートへ指先を向ける。
「それで、この式はここを先に計算して――」
淀みなく説明を続ける。
普通なら少し速いと感じるほどのテンポだが、セインは一度聞いただけで理解してしまう。
(やっぱ教え子としては完璧なんだよな)
教えるたびにそう思わされる。
「……やけに上機嫌だね、ルクシス」
セインは小さく口元を緩めたまま、ルクシスへ視線を向ける。
その一言に、ルクシスは思わず肩をすくめた。
(たまに勘が鋭くなるよな……王眼の能力だったりするのか?)
「あー、いやぁ」
照れくさそうに頭を掻きながら笑う。
「今日はついに買い出しを任されてな。ようやく信用してもらえたんだなって思ったら、ちょっと嬉しくてさ」
「……そっか」
短い返事。
セインは再びノートへ目を落とした。
その口元には笑みが残っている。
けれど、その笑顔はどこか無理をしているようで。
どこか寂しそうで。
それに気づいた瞬間、ルクシスの笑みもすっと消えた。
「……そういえばセイン」
重くなった空気をどうにかしたかった。
だから、咄嗟に別の話題を探した。
「お前、自分の目が変だって言うけどさ。父様や兄様も同じ王眼なんだろ? それなのに、なんで自分だけ変だって思うんだ?」
――言った直後、後悔した。
(しまった……)
よりにもよって、一番触れちゃいけない話題だった。
空気を変えるどころか、自分から地雷を踏み抜いてしまった。
セインは何も言わない。
帽子と黒髪の隙間から垂れた紙だけが、小さく揺れた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……別に、家族みんな目が変だな〜って、思ってるだけだよ」
嘘だ。
その一言だけで分かった。
分かったからこそ、それ以上踏み込むことはできなかった。
「……そうか」
返せたのは、それだけだった。
セインが本当に欲しい言葉が何なのか。
ルクシスには、まだ分かりそうになかった。
───『忌み子だ』
ボクが生まれて最初に聞いた言葉は、それだった。
普通なら、生まれたばかりの記憶なんて残らない。
それなのに、あの日の声だけは、今でも耳に焼き付いて離れない。
ボクの瞳は、髪の色と違う。
父様も兄様も持つ王眼。
……同じはずだった。
でも、違った。
違ったのは――色。
父様も兄様も、王族の証である濃い金色の王眼を持っていた。
けれど、ボクだけは違う。
血を溶かしたような、真っ赤な瞳。
だから皆は言った。
『忌み子だ』
『王家に生まれるはずのない子だ』
『気味が悪い』
その言葉だけは、幼いボクの胸に、今でも棘のように刺さったままだった。
そうしてボクは、一度だけ身内に殺されそうになった。
忌み子を王族の一人として扱えば、王家の名誉に傷がつくらしい。
その考えが身勝手なのか、それとも当然なのか。
そんなことを理解できる年齢ですらなかった。
だけど、その時。
二人だけ、ボクの処刑を泣きながら止めてくれた人がいた。
幼すぎたからだろう。
顔は覚えていない。
……なのに、不思議と思い出そうとも思えなかった。
それ以降、ボクはあまり良い扱いを受けなかった。
とはいえ、人として最低限の生活は与えられていたと思う。
家族に話しかけても返事はない。
使用人に話しかけても無視される。
それでも食事は毎日運ばれてきたし、学校にも通わせてもらえた。
学校で使うノートや文房具は買ってもらえなかったけど、母様の遺産が遺言通り三割だけボクに渡されたから、自分で買うことはできた。
部屋だって地下にある空き部屋を勝手に自分の部屋にしても家族は文句を言わなかった。
母様のことは、あまり覚えていない。
だけど短い時間でも、忌み子だったボクを、本当に愛してくれていた。
そんな気がする。
……なのに。
幼かったボクは、何一つ返してあげられなかった。
今でも、それだけは後悔している。
せめて一言。
「ありがとう」
その言葉だけでも、伝えたかった。
だからボクは、それ以来――
誰かに何かをしてもらった時は、必ず感謝を伝えるようにしているんだ。
───
「うへぇ……」
困った。
ちゃんと糸目イドたちから買い出し用の資金は預かっている。
……だが。
「兄ちゃん、買うの? 買わないの?」
三十代くらいの男がぐいっと顔を寄せてくる。
時は少しだけ遡る。
数分前。
「とゅるとゅっとゅっとゅ〜……」
鼻歌なのか何なのか分からない音を口ずさみながら、ルクシスは街を歩いていた。
見渡す限り、赤。
建物も、屋根も、花壇も、街路樹も。
とにかく赤い。
街の規模で言えばカリュシアンとそう変わらない。
だが色彩だけはまるで別世界だった。
(目が痛くなってきた……)
(配色って概念ねぇのか、この国)
そんな文句を、この街を造った人物へ直接言ってやりたくなった、その時だった。
「ぁだっ」
肩がぶつかる。
「あぁん?」
振り返ると、いかにもなチンピラが睨みつけてきた。
「すみません、不注意で──」
「あーっ! 腕いってぇぇ!!」
大げさな悲鳴。
周囲の視線が一斉に集まる。
(ちくっしょなんでこんな時に…!)
「これあかんわぁ!あかんやつやわぁ!」
どう見ても、さっきまで普通に動いていた腕だった。
「ええと……じゃあ治療薬を買ってきますね」
我ながら悪くない提案だと思った。
しかし、
「いいよいいよ〜俺が買いに行くからさぁ」
そう言いながら、痛いはずの腕でルクシスの肩をぽんと叩く。
「金さえくれればなぁ」
(こいつ…)
「……はい」
ルクシスは小さく息を吐き、糸目イドから預かった資金袋を開く。
中から半分ほどを取り出し、チンピラへ差し出した。
周囲には野次馬の視線。
ここで揉めれば、自分だけの問題では済まない。
セレスティア家の従者が街中で騒ぎを起こした――そんな噂でも立てば、迷惑をかけることになる。
(……我慢だ)
「助かるわ〜」
欠片ほども感謝のこもっていない声。
男は金を受け取ると、機嫌良さそうに背を向けた。
「儲かった儲かった〜」
(聞こえてるっての……)
拳を握る。
それでも追いかけることはしなかった。
今のルクシスに許された反抗は、心の中で悪態をつくだけだった。
───
(やっちまったよなぁ……)
当然、資金が半分も減れば予定通りの買い物などできるはずがない。
自分の財布から足りない分を補おうともした。
それでも、ほんの少しだけ届かなかった。
「兄ちゃん、早くしてくれよ」
店主の三十代ほどの男が、面倒くさそうに手をひらひらさせる。
「他の客が来なくなんだろ」
ルクシスは並べられた商品と手元の金を見比べ、小さく頭を抱えた。
「…はい」
隣から、小さな手が伸びてきた。
机の上に置かれたルクシスの金の横へ、数枚の銅貨が静かに並べられる。
これで、ぴったりだった。
「……えっ」
思わずその手を見る。
そして、その腕をたどるように視線を上げる。
そこにいたのは――
「セイン……?」
「あいよ」
店主は特に気にも留めず、机の上の金をまとめて受け取る。
こうして買い物は無事に終わった。
「お前……なんで……」
「ルクシス、この街のこと全然知らないし」
セインは少しだけ笑う。
「大丈夫かなぁって、心配になっただけ」
まるで当たり前のことを言うような口調だった。
そう言うと、くるりと踵を返す。
「じゃあね」
赤い街並みの中へ、小さな背中が早足で遠ざかっていく。
「…………」
声が出なかった。
あんなに「頼るな」と言っていた相手に、
また助けられた。
しかも今回は、
自分が気づかないところで。
ただ立ち尽くしていると、
「兄ちゃん、いつまでそこにいんだよ」
店主の呆れた声が飛ぶ。
「あ……あぁ」
そこでようやく体が動いた。
まるで時間だけが止まっていて、
今になってようやく解放されたような気分だった。
──(……また助けられた)
両腕で抱えた紙袋の重みが、妙に胸へとのしかかる。
(これで三度目だ……まったく)
助ける側でいたいはずなのに、気づけば助けられてばかりいる。
しかも相手は、自分よりずっと年下の少年だ。
情けなさに、小さく苦笑が漏れた。
赤い街並みをゆっくり歩く。
買った食材が紙袋の中で小さく音を立て、夕暮れの風が頬を撫でていく。
その時だった。
人混みの向こう。
ほんの一瞬だけ見えた、一人の人影。
頬に刻まれた、黒い文様。
――その瞬間。
全身の血が一気に冷えた。
『第二神徒、暴詠のノアリス』
『いるよ! 確か名前は〜』
『どっかいって』
脳裏に焼き付いた声が、耳元で何度も何度も反響する。
「くっ……!」
紙袋を握る手に力が入り、紙がぐしゃりと潰れた。
次の瞬間には駆け出していた。
「す、すみません!」
人混みを強引にかき分ける。
肩がぶつかろうが、怒鳴られようが気にならない。
視線はただ一つ。
あの文様だけを追い続ける。
だが――
「……は?」
人影は、消えていた。
大通りを見渡す。
いない。
裏路地へ飛び込む。
いない。
細い路地を何本も駆け回り、建物の陰まで覗き込む。
それでも。
黒い文様はどこにもなかった。
「畜生ッ!」
拳が石壁を叩く。
鈍い音が路地に響き、拳に痛みが走る。
荒く息を吐くたび、汗が頬を伝って落ちる。
心臓だけが、まだあの時と同じ速さで鳴り続けていた。
(……見間違いだったのか?)
そう思おうとしても、脳は否定する。
あの黒い文様だけは、見間違えるはずがない。
神徒への恐怖は、今もなおルクシスの心に深く刻み込まれていた。
──結局、そのまま城へ戻ることになった。
案の定、糸目イド達には息を切らし、汗だくになった姿を不審がられた。
だが、
『人混みに慣れていないもので……』
苦笑交じりにそう言うと、彼女達は顔を見合わせながらも、それ以上は追及してこなかった。
(……助かった)
胸を撫で下ろす。
ようやく得られた信頼を、こんなことで失いたくはなかった。
──セインの部屋へ戻る。
地下特有のひんやりとした空気が火照った体をゆっくり冷ましていく。
石壁に囲まれた質素な部屋は、今ではどこか落ち着く場所になっていた。
部屋にいたセインが、本から顔を上げる。
「……お疲れ様」
たったそれだけ。
それだけの言葉なのに、胸の奥へ静かに染み込んできた。
「……疲れた?」
心配そうに、小さく首を傾げる。
紙で隠された目元は見えない。
それでも、その声だけで表情が想像できてしまう。
「……」
返事ができなかった。
(疲れてるよ。)
(俺は……ずっと。)
そう言おうとした。
ノアリスと遭遇してから今まで、張り詰めていたものを全部吐き出してしまいたかった。
けれど。
喉まで出かかった言葉は、そのまま飲み込まれる。
それを口にした瞬間、自分が壊れてしまう気がした。
それに――
どこか、嘘になる気もした。
疲れている。
でも、本当に疲れているだけなのか。
恐怖なのか、怒りなのか、嫌悪なのか。
自分でも分からなかった。
だから、ルクシスは小さく笑う。
壁へ背中を預け、いつも通りの穏やかな表情を作って。
「……大丈夫だよ。別に」
「……そっか」
セインはそれ以上、何も聞かなかった。
今日、ルクシスが何をしていたのか。
どうして予定より帰りが遅くなったのか。
街で何があったのか。
気にならないはずがない。
それでも、踏み込まない。
聞けば傷つくかもしれないと分かっているからなのか。
それとも、ただ信じてくれているだけなのか。
理由は分からない。
だが、その優しさだけは、痛いほど伝わってきた。
(……本当に、いい子だな)
そんなことを思いながら、ルクシスは静かに息を吐いた。
胸の奥で渦巻く不安だけは、まだ消えそうになかった。




