第三十二話 「詰み」
昔の夢を見ていた気がした。
遠い昔。
まだ小さかった頃。
誰かに手を引かれていた。
温かい手だった気がする。
優しい声だった気がする。
それはいつの記憶だっただろうか。
「……ぅ……」
小さくうめき声が漏れる。
重かった瞼をゆっくり持ち上げる。
視界が白く滲んだ。
次の瞬間。
全身を襲う鈍い痛みに顔をしかめる。
「っ……」
痛い。
とにかく痛い。
逆に安心した。
どうやら痛覚は戻ったらしい。
肌に触れる感触へ意識を向ける。
包帯。
腕。
肩。
胸。
あちこちに巻かれている。
「……となると」
小さく呟く。
視線を上げる。
白い天井。
独特の消毒液の匂い。
整った室内。
どう考えても病院だった。
ルクシスは無理やり上半身を起こす。
背中が悲鳴を上げる。
肋骨も痛い。
腕も痛い。
全部痛い。
だが構わず窓の外へ目を向けた。
夕暮れ。
赤く染まった街並み。
沈みかけた太陽。
開け放たれた窓から涼しい風が吹き込み、包帯の隙間を撫でていく。
少しだけ心地良かった。
その時だった。
突然扉が開く。
ルクシスは一度息を吸い直し、ゆっくり振り返った。
医者だと思った。
看護師かもしれないと思った。
だが違った。
そこに立っていたのは子供だった。
小学生と中学生の中間くらい。
小柄な体。
だが服装が妙に目を引く。
黒を基調とした衣装。
所々に入った赤い装飾。
官帽を思わせる帽子。
チャイナドレス風の上着。
動きやすそうな短いズボン。
一言で表すなら――。
キョンシー。
しかし。
本当に変だったのはそこじゃない。
帽子と髪の隙間から、一枚の紙が垂れていた。
額から真下へ。
ひらりと揺れる紙。
それがちょうど顔を隠している。
鼻より上が見えない。
目も。
表情も。
何も分からない。
だから余計に不気味だった。
ルクシスは無意識に眉をひそめる。
(……誰だ?)
夕日の差し込む病室。
沈黙の中。
奇妙な格好の子供だけが、扉の前に立っていた。
医者でも看護師でもない。
知り合いでもない。
なら答えは一つ。
「……あんた、だよな」
死にかけていた自分を助けた人物。
そう口にした瞬間、子供の肩がぴくりと震えた。
そして一歩だけ後ろへ下がる。
警戒しているのかもしれない。
(……なんでだ?)
そう思いかけて、すぐに納得した。
(いや、そりゃそうか)
血まみれだった。
山から転げ落ちて。
全身傷だらけで。
服も体も赤く染まっていた。
今思い返しても完全に化け物だった。
「あぁ、いや……」
とりあえず警戒を解かせようと頭を掻こうとして。
途中で包帯に気づいて手を止める。
危うく解くところだった。
(やべ)
まだ頭が回っていないらしい。
「怖がらせるつもりはないんだ」
自分でも少し頼りないと思う声だった。
「その……ありがとな」
なんとか言葉を絞り出す。
「助けてくれて」
ほんの少しだけ笑った。
満面の笑みはやめておく。
今の状態でやったら余計怖い。
すると子供は少しだけ緊張を解いたようだった。
そして小さく口を開く。
「……どういたしまして」
柔らかな声だった。
その一言を聞いて、ルクシスはようやく肩の力を抜く。
どうやら間違いない。
本当に、自分を助けてくれた人らしい。
夕陽が病室を赤く染める。
窓から吹き込む風がカーテンを揺らした。
ほんの少しだけ。
ルクシスは、自分が生き延びたことを実感した。
(それにしても……)
分かる。
目元は横長の紙で隠れている。
だから本来なら顔立ちなんて分からないはずなのに――それでも分かってしまう。
(こいつぁ中々の美形だな……)
思わず口角が上がる。
もちろん本人には気付かれない程度に。
黒髪のショートボブ。
白い肌。
小柄な体格。
目元さえ見えないというのに妙に整った雰囲気がある。
美少女と言われればそう見えるし、イケメンと言われても納得できる。
中性的。
そんな言葉がぴったりだった。
「……」
「……」
沈黙。
見つめ合う二人。
気まずい。
非常に気まずい。
窓から吹く風だけが病室を通り抜けていく。
どうやらこの子はコミュニケーションが得意なタイプではないらしい。
視線を向けていたかと思えば、ふいに顔を下げる。
そして指先をもじもじと動かし始めた。
何か話そうとしているのか。
それとも何を話せばいいのか分からないのか。
たぶん後者だろう。
(……俺も人のこと言えねぇけど)
ルクシスは小さく息を吐いた。
こういう時は自分から話題を振るしかない。
「……名前は?」
「えっ?」
予想以上に大きな反応だった。
子供の肩がびくりと跳ねる。
まるで突然テストを始めると言われた生徒みたいな反応だ。
(……あれ?)
一瞬だけ首を傾げる。
そんなに答えにくい質問だっただろうか。
もしかして名前がない?
いや、そんなわけ――
そこでルクシスは気付いた。
(あ)
普通は先に自分が名乗るものだ。
いきなり名前を聞かれても困る。
「あぁ、悪い」
苦笑しながら肩をすくめる。
「俺はルクシス」
一度胸に手を当てる。
「ルクシス・サーベンダーだ」
すると子供は少し安心したように肩の力を抜いた。
「あ……ええと……」
札の向こうで視線が揺れる。
言うか迷っているようにも見えた。
そして小さく口を開く。
「セイン……フォン・セレスティア……」
「……あ?」
思わず変な声が出た。
セインがびくりと肩を震わせる。
(いや待て)
(なんだその名前)
聞き間違いじゃなければ、
それはまるで――
(王族みたいな名前じゃねぇか)
貴族どころではない。
どこか格式高い血筋を連想させる響きだった。
だが今はそんなことを追及する場面ではない。
そもそも初対面だ。
いきなり根掘り葉掘り聞くのも違う。
「……そうか」
ルクシスは余計な考えを振り払う。
そして少しだけ笑った。
「よろしくな、セイン」
そう言うと、セインは一瞬だけ固まった。
まるでそんな言葉を向けられるとは思っていなかったかのように。
そして数秒遅れて、
「……うん」
小さく頷いた。
その声はどこか嬉しそうだった。
一応、セインという名前だ。
なら男なのだろう。
……たぶん。
正直自信はない。
目元は隠れているし、声も中性的だ。
体格も小柄。
今の情報だけで性別を断定しろと言われても無理がある。
そんなことを考えている間にも、セインは指先をもじもじと動かしていた。
何か言いたそうだ。
けれど言葉が出てこない。
そんな様子だった。
(仕方ない)
ルクシスは小さく息を吐く。
(ここは大人の俺がリードしてやらなくてはな)
「じゃあこうしよう」
ルクシスは人差し指を一本立てた。
セインが顔を上げる。
「俺がお前に一番気になってることを聞く」
そして自分を指差した。
「だからお前も俺に一番気になってることを聞け」
我ながら完璧な提案だった。
会話も続く。
お互いのことも知れる。
一石二鳥。
脳内のルクシスが拍手している。
「……うん」
セインも小さく頷いた。
心なしか少し嬉しそうだ。
よし。
交渉成立。
「じゃあ聞くぞ」
セインがこちらを向く。
紙に隠された顔。
見えているのは口元だけ。
やはり少し不思議な光景だった。
「お前って、なんで目元を隠してるんだ?」
言った直後。
もしかして聞いちゃ駄目なやつだったかもしれない、と少しだけ思った。
家庭の事情かもしれない。
触れてほしくない過去かもしれない。
だが、自分からこのルールを提案した以上、今さら引っ込めるわけにもいかない。
セインはしばらく黙り込んだ。
そして小さく唇を動かす。
「……ボクの目……変だから……」
消え入りそうな声だった。
その答えを聞いた瞬間。
ルクシスは確信した。
(嘘つけ)
即座だった。
(絶対綺麗な目してるだろ)
根拠はない。
だがなんとなく分かる。
この手のやつは大体そうだ。
隠している理由が「醜いから」ではなく、「目立つから」だったりする。
ルクシスの勘がそう告げていた。
そしてその瞬間。
脳内のやることリストに新しい項目が追加される。
――セインの素顔を見る。
自身の目がコンプレックス。
たったそれだけの言葉だった。
だが、それを口にした時の声はあまりにも弱々しかった。
触れてほしくない話題なのだろう。
それくらいは分かる。
だからルクシスも深追いはしなかった。
「……で?」
話を切り替えるように口を開く。
「お前の質問は?」
するとセインは少し考えるように俯いたあと、小さく顔を上げた。
「じゃあ……」
少しだけ首を傾げる。
「なんで、あんな状態だったの……?」
ルクシスの顔が固まった。
当然の質問だった。
むしろ聞かれない方がおかしい。
だが問題は答えだ。
(やっべぇ……)
脳内で警鐘が鳴る。
(幼女ぶっ殺しまくってたら上空に吹っ飛ばされて、なんとか落下を凌いだあと山を転がり落ちましたなんて言えねぇ……)
絶対言えない。
説明した瞬間、変人か危険人物のどちらか認定される。
下手すると両方だ。
ルクシスは舌を噛む。
頬を一筋の汗が伝った。
必要なのは簡潔な説明。
分かりやすく。
辻褄が合っていて。
なおかつ怪しまれない内容。
難易度は激高だった。
「えっと……」
必死に頭を回す。
「猪にどつかれて……」
言った。
言ってしまった。
「……?」
セインが首を傾げる。
「ここらに猪はいないけど……」
即死だった。
(なんでだよ)
脳内のルクシスが地面を叩きながら絶叫する。
「じゃ、じゃあ猪っぽいやつってことになるな~……」
苦しい。
ものすごく苦しい。
「そいつに……どつかれて……」
声もしどろもどろになる。
自分で言っていて怪しい。
怪しさしかない。
どう聞いても嘘だ。
ルクシスは内心で終わったと思った。
だが。
「そっか……」
セインは納得した。
普通に納得した。
疑いもせず。
追及もせず。
あっさりと。
ルクシスは思わず固まる。
(えっ)
本当に?
(嬉しいけど逆に心配になるな……)
こんな説明で納得してしまう辺り、あまりにも純粋すぎる。
もし悪人に騙されたらどうするんだ。
いや。
むしろ今騙しているのは自分だった。
少しだけ罪悪感が湧く。
「というか……それだけの怪我負って……平気なの……?」
セインの声が少しだけ小さくなる。
心配しているのだろう。
その気持ちは十分伝わってきた。
「あー……えっと……」
ルクシスは頬を掻こうとして、包帯に阻まれて途中で手を止めた。
話題を変えたい。
このまま怪我の話を続けられると色々まずい。
神徒のこともあるし、落下した経緯も説明できない。
だから――。
「……ここって、どこだ?」
セインがきょとんとする。
帽子と髪の間から垂れた紙が揺れた。
「……?」
数秒の沈黙。
そして不思議そうな声。
「ここは……セレスティアだけど……」
(ですよねー)
ルクシスは力なく天井を仰いだ。
予想通りだった。
国名だけ言われても何も分からない。
むしろ余計に分からない。
「……知らない場所だな……」
ぽつりと呟く。
セインが少し首を傾げた。
「えっと……なんにも知らないの?」
心配の色がさらに濃くなる。
ルクシスは苦笑した。
年下にここまで心配される人生になるとは思わなかった。
「あぁ……そうなんだよ」
窓の外へ視線を向ける。
赤く染まり始めた街並み。
見たこともない建築。
見たこともない人々。
見たこともない空気。
全部が初めてだった。
「全く知らねぇ」
正直に言った。
「どうしたもんかなぁ……」
するとセインが少し黙る。
ルクシスも黙る。
部屋に風の音だけが流れる。
気まずい。
ものすごく気まずい。
ルクシスは横目でセインを見る。
セインは考え込んでいた。
だからルクシスはちらちらと視線を送る。
助けてくれ。
という無言の圧力である。
(しっかしセレスティアか……)
ルクシスは腕を組む。
(セインの名前と被ってんじゃねぇか……)
セイン・フォン・セレスティア。
国名がそのまま入っている。
学校とかあったら絶対いじられるやつだ。
少しだけ同情した。
「……記憶喪失なの?」
不意に飛んできた言葉に、ルクシスは現実へ引き戻される。
「んー……」
少し考える。
記憶喪失。
確かに便利な言葉だ。
説明も楽になる。
全部嘘というわけでもない。
「そうだな」
肩を竦める。
「記憶喪失に近い……というか記憶喪失だと思う」
セインが静かに耳を傾ける。
「せいぜい覚えてるのなんて言葉とか技術とか、その辺だけだからな」
「そっか……」
セインが小さく俯いた。
口元の動きだけ見ても、何か考えているのが分かった。
少し沈黙。
やがて決意したように顔を上げる。
「え、ええとね」
両手を少し動かしながら話し始めた。
「セレスティアは……アークレイアで一番おっきい国でね……」
「へぇ」
「転送っていう技術がある国で……」
(は?)
ルクシスの思考が止まった。
転送。
聞き間違いじゃない。
間違いなく聞いた。
(転送って……あの転送装置か?)
脳裏に浮かぶ。
地下。
青く光る装置。
死にそうな管理人。
無駄に眩しい光。
全部思い出した。
(リベリオンの設備じゃなかったのか……)
少し驚く。
てっきりリベリオン独自の技術だと思っていた。
だが違うらしい。
「で……でもね」
セインが続ける。
「今はちょっと壊れてる?みたいで……」
「……は?」
今度は声に出た。
セインがびくっと肩を震わせる。
「え、えっと……」
「壊れてる?」
「う、うん……」
ルクシスの顔が引きつった。
記憶が再生される。
『あー、……』
猫背。
『…大丈夫そっすね……』
死んだ魚みたいな目。
『ご武運を〜……』
やる気ゼロ。
記憶停止。
数秒。
沈黙。
そして。
(え?)
ルクシスの眉がぴくりと動く。
(大丈夫ってそういう意味だったん?)
正常に動作してるか確認してたの?
あれ。
もしかして。
あの管理人。
思ったよりちゃんと仕事してた?
「…………」
複雑だった。
ものすごく複雑だった。
「なんていうか……」
セインが言葉を選ぶように口を開く。
「他のディメンションからアークレイアに来ることはできるけど……」
少し間。
「アークレイアから他のディメンションには行けないって状態らしくて……」
「は!?」
思わず上半身が前に出た。
ベッドが軋む。
「えっ」
セインがびくりと肩を震わせる。
反射的に一歩後退した。
しまった。
ルクシスは慌てて表情を取り繕う。
「あ……なんでもない」
無理があった。
自分でもそう思う。
だが幸いにもセインは深く追及しなかった。
「そ……そっか……」
むしろ納得してくれた。
優しい。
優しすぎる。
少し心配になるくらいには。
部屋に沈黙が落ちる。
窓から吹き込む風だけがカーテンを揺らしていた。
ルクシスは天井を見る。
整理する。
状況を整理する。
まず。
今いる場所はアークレイア。
そしてこの国はセレスティア。
しかもアークレイア最大の国家。
ここまではいい。
問題はその次だ。
転送装置が壊れている。
正確には。
外から来ることはできる。
だが外へは出られない。
つまり――
「帰れねぇじゃねぇか……」
思わず本音が漏れた。
「……?」
セインが首を傾げる。
ルクシスは慌てて誤魔化した。
「いや独り言」
「そっか……」
また信じた。
大丈夫かこいつ。
騙されて壺とか買わされないか。
少し心配になった。
だが今は他人を心配している場合ではない。
もっと大きな問題がある。
ルクシスは顔を覆った。
「……どうやって過ごせばいいんだ……」
切実だった。
ものすごく切実だった。
神徒。
復讐。
転送装置。
そんなものより優先順位が高い。
生活費だ。
そういえばアテネから渡された封筒があった。
数日くらいはなんとかなるぐらいの金額が入っていたはずだ。
だが――
宿だ。
置いてきた。
どうせ使わないと思って。
完全に判断ミスだった。
今の手持ちは財布だけ。
残金を思い出す。
数日。
節約して二日。
いや。
待て。
ルクシスの表情が固まる。
治療費。
病院。
包帯。
ベッド。
医者。
「……」
嫌な汗が流れた。
「……もしかして俺」
小さく呟く。
「もう金ない?」




