第三十一話 「ありがとう」
───最初に見た時。
ただの屍かと思った。
「うえぇええ!?」
情けない悲鳴が漏れる。
思わず尻もちをついた。
視線の先。
道のど真ん中。
男が倒れていた。
仰向け。
茶髪。
赤い上着。
服はボロボロ。
ところどころ裂け、泥と血で色が変わっている。
身体にも無数の傷。
そして何より。
背中から広がる赤。
じわり。
レンガの隙間へ血が染み込んでいる。
恐る恐る周囲を見る。
少し上。
斜面。
血。
草が潰れている。
さらに上。
木の幹。
削れている。
枝が折れている。
線みたいに続いていた。
(……いや……)
視線を戻す。
男。
また斜面。
また男。
(だとしてもこうはならないでしょ……)
どう見ても落ち方がおかしい。
転げ落ちたってレベルじゃない。
崖から投げ捨てられた方がまだ納得できる。
恐る恐る四つん這いで近づく。
距離を詰める。
男の顔を見る。
茶髪。
若い。
目は閉じている。
そして。
妙に穏やかな顔だった。
苦しそうじゃない。
むしろ少し口角が上がってる。
(……そういや死ぬ瞬間って気持ちいいんだっけ……)
嫌な知識を思い出した。
やめてほしい。
急に屍説の信憑性が上がった。
でも。
だからといって放置するわけにもいかない。
こんな道端に死体。
嫌すぎる。
「……でも誰かに見つかったら……」
想像する。
自分。
死体の横。
近くにいる。
通行人。
通報。
終わり。
ガタガタ。
歯が震えた。
傍から見たら完全に犯人だった。
「いや……でも……」
悩む。
放置も嫌。
触るのも怖い。
そうして迷っている時だった。
違和感。
目が止まる。
「あれ……」
ゆっくり手を伸ばす。
震える指。
男の口元へかざす。
数秒。
風。
違う。
微か。
温かい。
息。
「……息……してる……」
思わず目が開いた。
生きてる。
なんで。
いや生きてていいんだけど。
なんでそんな顔してるんだ。
死にかけなのに。
なんでちょっと満足そうなんだ。
意味が分からない。
でも。
そんなことどうでもいい。
助けないと。
この人。
普通に死ぬ。
───「もう……なんで……こんなことぉ……!」
細い腕で男の後ろ襟を掴み、必死に後ろへ体重をかける。
ずるっ。
地面を擦る音。
少し進む。
また止まる。
そのたびに男の体から赤黒い線が地面へ伸びていく。
「重い……っ……!」
息が上がる。
肩が痛い。
足も震える。
なのに離せない。
離した瞬間、本当に死んでしまいそうだった。
ちらりと視線を落とす。
男は眠っていた。
いや、気絶している……はずだった。
なのに。
口元だけが少し上がっている。
穏やかそうに。
満足そうに。
まるで楽しい夢でも見ているみたいに。
(なんでこの人血流しながら笑ってんの……!)
理解できない。
普通こんな怪我したら苦しそうな顔になるでしょ。
痛そうな顔するでしょ。
なのにこの人――。
なんで笑えるの。
ぞわり、と背筋が冷えた。
けれど立ち止まる暇なんてない。
鼻につく鉄臭さ。
服に染み込んだ血。
近くで嗅ぐほど強くなる。
その臭いだけで、この人がどれだけ血を流したか嫌になるくらい伝わってきた。
(臭う……)
風呂入ってないとかじゃない。
泥でもない。
これは血だ。
むしろ上着が赤いんじゃない。
白い服を血で塗り潰したみたいだった。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
また引っ張る。
少し進む。
止まる。
引っ張る。
進む。
男の腕が地面に擦れる。
血がまた伸びる。
喉が詰まる。
怖い。
怖いけど。
脳内で一つの言葉だけが繰り返される。
(早く……)
間に合わなくなる。
(早く……!)
───「お願いっ……します……」
震える手で金貨を机の上に置く。
カラン、と小さな音。
肩で息をする。
肺が焼けるみたいに熱い。
隣には、カウンターへ背中を預けるようにして座らされた男。
いや、座らせたというより――倒れないよう無理やり寄りかからせただけだ。
服は血まみれ。
床にはここまで引きずってきた赤い線。
正直、最悪だった。
病院の床を汚した。
説明もできない。
事情聴取されるかもしれない。
でも。
そんなことより。
この人を放置する方がもっと嫌だった。
受付人が金貨と男を交互に見る。
そして少し困ったように眉を下げた。
「えぇと……」
その反応は分かる。
こっちだって困ってる。
むしろなんでこんなことになったのか聞きたいくらいだった。
頭の中で状況を整理する。
まず道端で血まみれの男を見つけた。
死体かと思った。
でも生きてた。
だから運んだ。
引きずった。
転ばせた。
血が増えた。
泣きそうになった。
そして病院まで連れてきた。
……終わり。
説明として終わってる。
絶対怪しい。
「あの……ボクじゃなくて……この人を……」
途中で言葉が切れる。
息が上がる。
受付人は数秒考えてから頷いた。
「ええと……とりあえず優先して治療させていただきますね」
その瞬間。
受付人が奥へ下がる。
すぐに何人かの声。
足音。
扉が開く音。
気づけば白衣姿の医者たちが担架を持って飛び出してきた。
早い。
早すぎる。
「失礼しますねー」
そう言いながら男の体を持ち上げる。
「よいしょ」
息ぴったり。
担架に乗せる。
固定。
確認。
発進。
ものの十秒。
さっきまで隣にいた男はもう奥へ運ばれていた。
勢いがありすぎて風まで起きた気がした。
「……」
ぽかん。
口が開く。
少し遅れて思う。
(……手際がいい……のかな……?)
いや分からない。
比較対象がない。
でも。
少なくとも。
自分よりは百倍頼りになりそうだった。
そこでようやく肩の力が抜けた。
そして。
限界だった。
その場にぺたんと座り込んだ。
ため込んでいた息をゆっくり吐き出す。
肩が下がる。
力が抜ける。
そこでようやく気づいた。
右手。
男の後ろ襟を掴んでいた手。
乾きかけた血が指の隙間や手のひらにべったりと残っている。
「……あ」
思わず顔をしかめた。
鉄みたいな臭い。
まだ少し湿っている感触。
指を軽く動かすだけで嫌な感覚が皮膚にまとわりつく。
(洗わなきゃ……)
ふらふらと立ち上がる。
病院を出る。
赤色の街並み。
夕焼けじゃない。
元から赤い石、赤い壁、赤い景色。
その中をぼんやり歩く。
人目につかない裏路地へ入り、足を止める。
もう一度右手を見る。
赤い。
血。
誰かの。
「う……」
少しだけ嫌悪感が湧いた。
左手を右手の上へかざす。
小さく詠唱。
次の瞬間。
左手の手のひらに青い魔法陣が浮かび上がる。
円が回転し、中心から透明な水が流れ出した。
蛇口みたいに。
水が血を流していく。
赤が薄まる。
地面へ落ちる。
数秒後。
魔法陣が消える。
水も止まる。
濡れた服をぱっぱっと払う。
少しだけ落ち着いた。
……はずだった。
歩きながら考える。
(あの男の人……)
山から転げ落ちた。
それは分かる。
服が破ける。
怪我する。
そこまでは普通。
でも。
血の臭い。
あれだけは変だった。
多すぎた。
本人の血だけであんな臭いになる?
普通死ぬ。
いや。
もう死んでてもおかしくない量だった。
歩く。
考える。
止まる。
数十秒後。
脳内で結論が出る。
「……まさか」
目が見開く。
(誰かと殺し合ってた…!?)
辻褄は合う。
山。
血。
ボロボロ。
異常な量。
全部説明できる。
……いや待って。
じゃあ。
なんで追撃されてない?
なんで放置?
そこだけ変。
でも。
もし。
もしだ。
あの人が襲った側だったら?
起きた瞬間。
病院の人襲ったりしたら?
受付の人。
医者。
担架の人。
みんな危ない。
顔色が変わった。
「い、急がないと……!」
駆け出す。
死ぬ人を減らすためにやったことなのに。
もしここで誰か死んだら。
全部、自分のせいになる気がした。
───急いで病院へ戻る。
入口をくぐる。
その勢いのまま受付へ駆け寄る。
「ぁ、あのっ……男の……人……!」
息切れ。
言葉が出ない。
まずい。
名前を知らない。
説明できない。
受付人が少し首を傾げたあと、すぐに察したように頷いた。
「……さっき運ばれた方でしたら、203号室ですよ」
「!」
伝わった。
なんで分かったのかは知らない。
でも助かった。
流石だった。
「ありがとうっ……ございます……!」
頭を下げる。
そのまま急いで奥へ向かう。
……急いでるつもりだった。
でも体が限界だった。
引きずって運んだ疲労。
緊張。
全部まとめて今きた。
机に手をつく。
進む。
離す。
またつく。
階段では手すり。
二階に着いたら壁。
完全に病人みたいだった。
(201……)
違う。
扉を通り過ぎる。
(202……)
違う。
まだ。
そして。
(203……)
あった。
足が止まる。
扉。
静か。
中から音は聞こえない。
思わず胸へ手を当てる。
心臓。
速い。
深呼吸。
吸う。
吐く。
もう一回。
目をいつもより少し大きく開く。
覚悟。
(どうか……)
ごくり。
(いきなり襲って来ませんように……!)
冷静に考えたらおかしい。
殺し合いしてたかもしれない男。
血まみれ。
起きたら危険かもしれない。
そんな相手の部屋へ。
一人で。
丸腰で。
行く。
馬鹿だ。
少し考えれば分かる。
なのに。
なぜか。
その「少し考える」ができなかった。
もし。
もし起きた瞬間誰か襲ったら。
止められなかったら。
それがずっと頭に残って離れなかった。
だから。
小さく拳を握る。
震える指で。
203号室のドアノブへ手を伸ばした。
扉を開く。
息を止める。
――でも。
そこにあったのは。
恐怖でも。
敵意でも。
ましてや殺意なんかでもなかった。
白い壁。
木でできた床。
開いた窓。
赤く染まる部屋。
そして。
窓際のベッド。
そこに、一人の男がいた。
上半身だけ起こして外を眺めている。
布団に隠れて下半身は見えない。
服は病院のものらしい簡素な服へ変わっていた。
額。
腕。
ところどころ白い包帯でぐるぐる巻きになっている。
痛々しい。
なのに。
男は妙に落ち着いていた。
風が吹く。
赤い夕日。
その光に照らされて、男がゆっくりこちらを向く。
エメラルドグリーンの瞳。
赤く染まる茶髪。
整った顔立ち。
拍子抜けした。
全然違う。
想像していたのはもっとこう。
目つきが鋭くて。
笑いながら人を刺しそうで。
起きた瞬間暴れるような。
そんな人だった。
でも違う。
普通だった。
むしろ少し疲れて見えた。
男は少し目を細める。
こちらを見る。
そして静かに口を開いた。
「……あんた、だよな」
その瞬間。
反射的に一歩下がる。
まだ怖かった。
警戒が抜けない。
すると男が少し困ったように笑った。
「あぁ、いや」
視線が泳ぐ。
申し訳なさそうに頭を掻こうとして、包帯に気づいて途中で止まる。
「怖がらせるつもりはないんだ」
少し弱った声。
気まずそうな声。
「その……ありがとな」
目を逸らす。
少しだけ笑う。
「助けてくれて」
……なんで分かったんだろう。
まだ一言も話してない。
説明もしてない。
なのに。
どうして。
不思議だった。
でも。
今の表情を見た瞬間。
なんとなく分かった。
この人も。
ちゃんと人間だった。
化け物じゃない。
殺人鬼じゃない。
傷だらけで。
少し疲れてて。
礼を言える人だった。
穏やかな瞳がこちらを見る。
その視線に押されるみたいに。
自然と口が動いた。
「……どういたしまして」




