第三話 「救う者と救われる者」
目を閉じる。
視界が黒に染まる。
痛みも、恐怖も、徐々に遠ざかっていった。
――そして。
『……我はそのような冗談は好まんぞ』
声が聞こえた。
女性の声だった。
威圧的で、冷たく、ただ聞いているだけで自然とひれ伏してしまいそうな声音。
まるで“上位の存在”そのものが語りかけてきているようだった。
『冗談ではない。それに……貴殿の言い分が分からぬというわけでもない』
もう一つの声。
こちらも女性。
だが先ほどとは違う。
柔らかく、静かで、どこか包み込むような優しさを持った声だった。
『今はやつがとる行動をみるべきかな』
『……はぁ……貴様はいつまでも結果論でものを言うじゃろうて。我も貴様だけは好きになれぬわ』
『気が合うな。我も貴殿とはそりが合わぬと考えておる』
互いに嫌っているような会話。
なのに、不思議と本気の憎悪ではない気もした。
(……なんなんだ……? この声……)
フェルギアが疑問を抱いた瞬間――。
声はぷつりと消えた。
そして直後。
ガコォォォォンッ!!
鈍い衝突音が背後から響く。
「っ……!?」
フェルギアは目を見開いた。
呼吸がある。
まだ生きている。
背中に痛みはない。
ゆっくりと瞼を開き、階段側へ視線を向ける。
そこには。
自分のすぐ近くへ転がっている、消火器。
そして、その奥には――。
「はぁっ……はぁっ……!」
肩で息をするアステラの姿があった。
青髪は乱れ、顔には汗が滲んでいる。
それでも彼女は、必死に魔物を睨みつけていた。
「ば……ばーか!! あほ!! まぬけ!!」
震える声。
きっと今まで誰かを罵倒したことなんてないのだろう。
だからこそ、その悪口は驚くほど語彙が弱かった。
だが。
その“精一杯”は、確かに魔物へ届いた。
ギィィィィァァァアアア!!
魔物が怒りの咆哮を上げる。
複眼が一斉にアステラへ向いた。
標的が変わる。
「なん……で……」
フェルギアの掠れた声が漏れる。
逃げたはずだ。
逃げろと言った。
なのに。
アステラは戻ってきた。
そして今、自分を庇って魔物の前に立っている。
魔物がアステラへ向かって脚を動かす。
その圧迫感に、アステラは「ひっ……」と小さく怯えた声を漏らした。
身体も震えている。
怖くないわけがない。
それでも彼女は逃げなかった。
唇を強く噛みしめ、ポケットへ手を突っ込む。
そして。
灰色の塊を取り出した。
「えいっ!!」
アステラは半ば悲鳴のような声を上げながら、灰色の塊を魔物へ投げつけた。
だが。
狙いは外れる。
塊は魔物の顔面ではなく、その少し手前の床へ激突した。
カンッ――。
次の瞬間。
ボフッ!!
大量の煙が一気に噴き出した。
「っ!?」
白煙が廊下一帯を包み込む。
視界が完全に真っ白になる。
魔物は突然の煙に反応し、長い脚を振り回した。
ドガッ!! バキィッ!!
周囲の壁や床が無差別に砕かれていく。
ギィィィァァァァアアア!!
怒り狂った咆哮。
だが視界を奪われているせいで、標的を見失っていた。
その時。
タッタッタッ!!
誰かが駆け寄る音。
直後、フェルギアの肩がぐいっと持ち上げられた。
「やった……! とりあえず成功……!」
アステラだった。
息を切らしながらも、嬉しそうに片手で小さくグーを作っている。
フェルギアは呆然と彼女を見上げた。
だがアステラはそのまま彼の腕を肩へ回し、必死に身体を支える。
「い、行きますよ先輩!」
そしてそのまま階段へ向かって走り出した。
煙の中を。
怒り狂う魔物のすぐそばを。
フェルギアは俯いたまま、小さく呟く。
「……なんでだよ……」
声が震えていた。
理解できなかった。
怖いはずだ。
逃げたいはずだ。
なのにどうして。
アステラは少しだけ振り返り、真っ直ぐに答えた。
「恩人を見殺しにするなんて……絶対できないからですよ」
「そんなの……無理だ……」
フェルギアは苦しそうに息を吐く。
「やめろ……逃げろ……」
自分なんかを抱えていたら、彼女まで死ぬ。
それが分かっていた。
だが。
アステラは眉を吊り上げた。
「……それだけは絶対聞きませんから!!」
半ばやけになったような叫び。
涙目なのに、声だけは強かった。
そして彼女は、フェルギアを支えながら階段を駆け下りていく。
後ろでは煙を切り裂くように、魔物の咆哮が響き続けていた。
だが、
アステラもまた、力のある人間ではない。
「はぁっ……はぁっ……!」
フェルギアを支えながら階段を降りるたび、彼女の身体が大きく揺れる。
一段。
また一段。
その速度はあまりにも遅かった。
フェルギア一人なら、とっくに降り切れていたかもしれない。
だが今は違う。
片脚を失った男一人分の重さが、細い身体へ重くのしかかっていた。
そして。
踊り場へ辿り着いた、その瞬間――。
白煙が晴れた。
ギチッ。
無数の複眼が、一斉にこちらを向く。
「やばっ……!」
アステラの顔が青ざめる。
だが気づいた時にはもう遅かった。
ドゴォォォォンッ!!
魔物が再び突進を始める。
「っ!!」
アステラは咄嗟に横へ飛んだ。
間一髪。
すぐ横を巨大な脚が通り抜ける。
だが。
「きゃっ!?」
バランスを崩し、そのまま床へ転倒した。
フェルギアの身体も一緒に投げ出される。
「いったた……」
アステラが顔をしかめる。
膝を打ったのだろう。
それでも。
彼女の手は止まらなかった。
すぐにフェルギアの肩を掴み、再び無理やり身体を引き起こす。
「立ってください……! 行きますよ!」
「逃げろよ……」
フェルギアが掠れた声を漏らす。
「お前のためにっ……ここまで……」
アステラのために戦った。
アステラのために恐怖に耐えた。
アステラのために片脚を失った。
それなのに。
今は彼女に守られている。
自分が助けたかった相手に、自分が足を引っ張っている。
その事実が、情けなさとなって胸を締めつけた。
「でも!」
アステラが叫ぶ。
その声に、フェルギアが顔を上げた。
「あの時、先輩が来なかったら私は死んでた!」
青い瞳が真っ直ぐフェルギアを見つめる。
「あの時、私が来なければ先輩が死んでた!」
ついさっきまで涙目だったはずなのに。
今、その声は震えていなかった。
「今、私たちが助け合って……!」
彼女は歯を食いしばる。
細い腕に力を込め、フェルギアを支えながら前を向いた。
「二人とも生き残れたら最高でしょう!?」
「…………」
フェルギアは言葉を失う。
あまりにも真っ直ぐだった。
打算も諦めもない。
ただ、“二人で生きたい”と本気で言っている。
その言葉が、胸の奥へ強く刺さった。
そして。
ギィィィィァァァアアア!!
背後で魔物が咆哮を上げる。
壁へ激突していた巨体が再び体勢を立て直し、アステラたちへ向かって走り出した。
「っ……!」
アステラは歯を食いしばる。
フェルギアを支えたまま、必死に階段を降りる。
一歩。
また一歩。
脚はもう限界だった。
それでも止まれない。
そして――。
二人はついに一階へ辿り着いた。
そのまま会社の外へ飛び出す。
冷たい外気が肌を打った。
「はぁっ……! せ、先輩……外ですよ……! あとっ……もう少し……!」
アステラは自分自身を鼓舞するように叫ぶ。
苦しそうに息をしながらも、口角を少しだけ上げた。
助かる。
逃げ切れる。
そんな希望が、ほんの少しだけ見えた。
(この……展開は……)
フェルギアはぼんやりと思う。
頭が回らない。
血を流しすぎているせいか、視界も霞んできていた。
「……」
「もう……いつまでしょぼくれてるんです……か……」
アステラの言葉が、途中で止まる。
彼女の視線が、ゆっくり下へ落ちていった。
そして。
「……えっ」
フェルギアの“欠けた身体”を、ようやく認識する。
片脚がない。
膝から下が消えている。
大量の血。
引きずった跡。
今まで恐怖と必死さで気づかなかった現実が、一気にアステラへ押し寄せた。
(先輩の片脚が)
(なんで)
(私が)
(私のせいなの)
(先輩が私のために)
(私のためなのか)
(先輩は自分を)
(私のために)
(なんで)
(それでも私のことを)
(自分のことは)
(先輩じゃない)
(私はなんで)
(なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで……)
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
重すぎた。
いきなり理解するには。
受け止めるには。
アステラの動きが止まる。
呼吸も。
思考も。
全部。
その瞬間だった。
ドォォォォンッ!!
会社の壁を砕きながら、魔物が外へ飛び出した。
「っ!?」
アステラが振り返る。
魔物は高く跳躍し――。
二人の背後へ着地した。
地面が陥没する。
衝撃でアステラの身体が揺れた。
複眼が、すぐ目の前で二人を映していた。
あまりにも近い。
逃げる暇など、もうない。
魔物がゆっくりと脚を持ち上げる。
死。
その文字が、二人の脳裏へ鮮明に浮かんだ。
硬直していたアステラは、その衝撃に耐えきれなかった。
「あうっ……!」
地面へ転ぶ。
手を擦りむき、息が詰まる。
それでも彼女は必死に上半身を起こした。
「っ……!」
そして顔を上げる。
目の前には――。
巨大な脚を振り上げる魔物の姿。
無数の複眼が、冷たく二人を見下ろしていた。
脚の先端からは、べっとりと赤黒い血が垂れている。
ぽたり。
その血が、アステラの頬へ落ちた。
「……!」
冷たい感触。
鉄臭い匂い。
このあと何が起こるのか。
そんなもの、考えなくても分かる。
魔物は振り下ろす。
そして二人とも死ぬ。
だから。
アステラは、今出せる全力でフェルギアの身体を押した。
「――っ!!」
フェルギアの身体が地面を滑る。
少し離れた場所へ転がり、そのまま突っ伏した。
そして。
直後。
ザクッ。
嫌な音が響いた。
あまりにも、生々しい音だった。
「…………」
フェルギアの身体が止まる。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
歯を震わせながら後ろを向いた。
そこにいたのは――。
背中から腹まで貫かれ、地面へ倒れているアステラだった。
魔物の脚が、彼女の身体を串刺しにしている。
赤い血が地面へ広がっていく。
「ぁ……」
フェルギアの喉から、掠れた音が漏れる。
アステラは涙を流していた。
痛みか。
恐怖か。
それとも別の感情か。
震える瞳で、それでもフェルギアへ顔を向ける。
そして。
ゆっくりと口を動かした。
『逃げて』
声は聞こえない。
だが意味は、はっきりと分かった。
「……っ」
フェルギアの瞳が見開かれる。
頭が真っ白になる。
胸の奥がぐしゃぐしゃに潰される。
そして次の瞬間。
「ああああ……!!」
叫んだ。
「ああああああああああああああああああああああ!!」
悲鳴。
絶叫。
さっき片脚を失った時と同じような、壊れた声。
だが。
決定的に違うものがあった。
あの時は恐怖だった。
死への絶望だった。
今、この胸を満たしているのは――。
どうしようもないほどの怒りと、喪失感だった。




