第二十九話 「暴君の詠歌」
つばを飲み込み、ルクシスはゆっくりと一歩を踏み出した。
石床を踏むたびに、靴底がわずかに鳴る。
その音だけが、やけに大きく感じる。
一歩。
また一歩。
進むたびに、心臓の鼓動が自分の耳の奥で強く響いた。
転送装置へ近づくにつれ、胸の奥が妙に締め付けられる。
(……別に、怖いわけじゃない)
そう言い聞かせる。
だが喉の奥に残る違和感は消えない。
やがて装置の前に立つ。
青く揺らめく光が、足元からゆっくりと顔へ這い上がってくる。
ルクシスは一度だけ、背後を振り返った。
そこには、さっきと同じ管理人がいた。
椅子に沈み込み、背中は折れたまま。
首だけが不自然に持ち上がり、天井をぼんやりと見つめている。
表情は変わらない。
瞬きもしているのか分からない。
壁の影が顔を半分隠しているせいで、眠っているのか起きているのかすら判別できない。
(まぁ、いいか…)
誰に言うでもなく呟いて、視線を前に戻す。
転送装置の上に立った瞬間、足元の青い光が静かに脈打つ。
最初はただの発光だった。
だが次の瞬間、それは圧を持ち始める。
「ぐっ……」
ルクシスは思わず息を詰め、片目を強く閉じた。
もう片方の視界も、すぐに青一色に塗り潰されていく。
光が強くなる。
いや、光の中に引きずり込まれていく感覚に近い。
抵抗しようとしても、身体が動かない。
意識だけが、底へ沈んでいく。
その中で、言葉が浮かぶ。
神徒。
神徒。
神徒。
意味のない反復のように、頭の奥で響き続ける。
そして――
一つの記憶が、唐突に流れ込んだ。
──『……お父さん……?』
幼い声だった。
茶色い髪の少年。
それは、ルクシス自身のはずだった。
だがその顔はあまりに幼く、今の彼とは別人のようにも見える。
視線の先には、動かないものがあった。
あらゆる部位が抉れ、目から光を失った遺体。
それが、かつて父だったものだと理解するのに時間はいらなかった。
少年はその場に立ち尽くすことしかできない。
膝が震えている。呼吸が乱れている。
それでも現実は止まらない。
──『お母さん……』
別の方向に視線が動く。
そこには、同じように動かないものがあった。
腹部を貫かれ、静かに目を閉じている遺体。
少年は口を開く。
だが声はうまく出ない。
『帰ろうよ……』
震える声が、空気に溶ける。
出来ないと分かっている。
それでも、言葉だけが勝手に出てしまう。
──『帰りたいよ……』
周囲では大人たちの声が飛び交っている。
『救急隊を……!』
『いやどう見ても助からねぇだろ!』
慌ただしい足音。
怒号。判断の遅れ。
だがその光景は、ルクシスの記憶には音だけしか残っていない。
誰がそこにいたのか、どんな顔をしていたのか。
──気づけば、そこは遺跡のような場所だった。
背後には転送装置。
つい先ほどまで青く脈打っていた光は消え、ただの無機質な台座へと戻っている。
初めて見た時と同じ、静かな沈黙を保ったままだ。
ルクシスは一度だけ振り返り、それを確認すると視線を前へ戻した。
目の前に広がっていたのは、白い世界だった。
白の大理石。
それをレンガのように整然と積み上げた巨大な壁が、円を描くように続いている。
円形の広場。
そう呼ぶのが一番近いだろう。
だが、その規則的な美しさは時間によって削られていた。
壁の隙間からは草が生え、地面にもところどころ苔が広がっている。
人の手が離れてから、どれほどの時間が経ったのか分からない。
「……たしかここは……アークレイア……」
口の中で、名前を転がすように呟く。
任務資料で見たディメンション名が、ようやく現実の風景と結びついた。
「ここにはまだ行ったことなかったな……」
独り言に近い声だった。
一歩、踏み出す。
靴底が草を踏み潰す。
乾いた音と、わずかな湿り気が混じった感触が返ってくる。
その瞬間、ようやくここが現実だという感覚が遅れて追いついた。
風がないのに、空気だけが重い。
静かすぎるのに、どこかざわついている。
ルクシスはゆっくりと息を吐いた。
そして、口角を歪める。
「もし……この任務の言う神徒があいつのことなら……」
声は低い。
先ほどまでの淡々とした調子はない。
目だけが、やけに鋭く光っていた。
背中がわずかに反る。
まるで何かに押されるように、あるいは内側から突き上げられるように。
「絶対に殺してやる」
その言葉は、静かな遺跡に落ちた。
高揚。
殺意。
決意。
どれか一つではない、混ざり合った感情が、ルクシスの背中を強く押していた。
遺跡を抜けた先、ルクシスは背丈を超える植物を両手で押し分けるようにして進んでいた。
葉は湿り気を帯びて重く、腕にまとわりつくたびにわずかな抵抗を返す。
視界は悪い。
「……全体図が見えねぇな……」
頭上を見上げても、木々が絡み合い、空すら断片的にしか見えない。
枝葉が天蓋のように覆い、光を細かく砕いて落としていた。
だが、長くは続かなかった。
やがて、森の切れ目を抜ける。
その瞬間、まず頬を撫でたのは風だった。
さっきまでの湿った空気とは違う、乾いた涼しさ。
そして視界が一気に開ける。
そこに広がっていたのは、オレンジ色の平原だった。
草も、花も、遠くに見える木々すらも、どこか夕焼けを塗り込めたような色をしている。
のどかで、静かで、妙に現実味の薄い景色。
ほんの一瞬だけ、胸の奥にあった殺意が緩む。
だがそれを自覚した瞬間、ルクシスはすぐに表情を引き締め直した。
「おっと……その前に……」
低く呟くと、空間がわずかに歪む。
収納魔法。
そこから取り出されたのは二本の剣だった。
無駄のない動きで、それぞれを鞘ごと左右の腰へ固定する。
金属がわずかに触れ合う音だけが、静かに鳴った。
「じゃあ……いくか」
その声には、もう先ほどまでの軽さはない。
感情を削ぎ落としたような、低く冷たい響きだった。
ルクシスは一歩、平原へ踏み出す。
道はない。
ただ、どこまでも続く赤と橙の世界が広がっているだけだ。
「……赤いな」
先ほどの森は緑だった。
だがここは違う。
草も花も木も、すべてが不自然なほどに赤とオレンジに染まっている。
まるで世界そのものが、別の色に塗り替えられたようだった。
「まぁ……悪くはないか……」
それ以上の思考を打ち切るように、短く呟く。
その直後だった。
ルクシスの足が止まる。
——ピクリ。
指先が、わずかに動く。
全身の皮膚が総毛立つような、不快な圧。
空気が変わった。
音が、落ちたように消える。
そして同時に、押し潰されるような魔力の奔流が肌を撫でる。
(……俺よりも大きくないか……?)
背筋を伝う感覚が、はっきりと異常を告げていた。
咄嗟に周囲を見渡す。
草花。平原。風。
敵影はない。
だが、不快感の正体は案外すぐに見つかった。
少し離れた場所。
一人の少女が歩いていた。
幼い。
小学生くらいの背丈。
透き通るような白い肌。
光を受けて淡く揺れる白髪。
年相応の、装飾の多い少女らしい服。
その少女は、鼻歌でも歌っているみたいに軽やかに歩いていた。
くるり。
また一回転。
草を踏みながら、楽しそうに平原を進んでいく。
平和だった。
そこだけ切り取れば。
でも。
一つだけ、おかしかった。
右の頬。
そこに刻まれていた。
黒い文様。
刺青とも違う。傷とも違う。
線が絡み合い、意味を持つように刻まれた異様な模様。
見た瞬間。
心臓が止まった。
記憶が勝手に引きずり出される。
血。
遺体。
泣き声。
茶色い髪。
『帰ろうよ』
脳が拒絶する。
なのに、忘れたことなんて一度もなかった。
「くっ……!」
次の瞬間。
ルクシスは動いていた。
腰の剣を引き抜く。
鞘走る音。
地面を蹴る。
風を裂く。
数秒。
それだけで少女の背後へ回り込む。
剣先を向ける。
止まる。
少女が足を止めた。
「ありゃ?」
くるり。
上半身だけ回す。
首を傾ける。
白い瞳。
そこに驚きはない。
警戒もない。
まるで道端で声をかけられたみたいな反応だった。
少女は笑う。
「なーんでそんなに怒ってるの?」
ルクシスは答える。
迷いなく。
一秒も考えず。
「……お前が、神徒だからだ」
空気が変わる。
少女は目を丸くした。
そして。
口角を大きく上げた。
「あっはは!」
楽しそうだった。
心底。
「よく知ってるねぇ、お兄さん」
その声は明るい。
無邪気。
なのに。
その瞬間。
ルクシスは確信した。
目の前にいるこれは。
子供なんかじゃない。
少女は不思議そうに首を傾げた。
それから頬へ細い指先を当て、うーん、と唸る。
「そーいや、じこしょーかいしないとヴェリディウスがおこるんだっけ……」
まるで面倒な校則でも思い出したような口調だった。
そして、仕方ないなぁと言いたげに小さく肩を落とす。
次の瞬間。
少女は両手でスカートの裾をつまんだ。
横へ広げる。
片足を後ろへ引く。
古い演劇みたいな、やけに完成された礼。
白髪がさらりと揺れる。
「はじめまして」
幼い声。
楽しそうな笑顔。
「私は第二神徒、暴詠のノアリス」
一拍。
少女はゆっくり顔を上げる。
白い瞳がまっすぐこちらを見る。
口元だけが歪む。
「……といいます」
風が吹いた。
赤い草が揺れる。
ルクシスの剣先が、わずかに震える。
違う。
恐怖じゃない。
抑えているだけだ。
声を。
衝動を。
記憶を。
ルクシスは握る手に力を込める。
爪が食い込む。
無理やり口を開く。
「お前……の……仲間に……」
声が途切れる。
苛立ちで喉が詰まる。
でも止まらない。
「金髪に……黒髪が入った男はいるか……?」
ノアリスは目をぱちぱちさせた。
それから、あっさり答える。
「ん〜、いたと思うよ!」
軽い。
あまりにも軽い。
指先を時計の針みたいに左右へ揺らす。
考える。
「たしか名前は〜」
そこまでだった。
ルクシスはもう聞いていなかった。
地面を蹴る。
景色が置いていかれる。
風が裂ける。
数十メートル。
一瞬。
もうノアリスの目の前。
いや。
懐の内側。
剣を握る。
振る。
ノアリスは見えていた。
見えていたはずだった。
白い瞳は、最後までルクシスを捉えていた。
なのに。
動かなかった。
避けない。
構えない。
ただ。
短く口を動かした。
何か言った。
聞こえない。
次の瞬間。
金色の軌跡が走る。
斬撃。
空気が遅れて割れる。
そして。
少女の首が、宙を舞った。
白髪がふわりと広がる。
身体が遅れて崩れる。
赤い草原へ、小さな影が倒れる。
静寂。
ルクシスは止まらない。
剣を構えたまま、息も乱さず前を見る。
斬った感触。
あった。
硬さ。
抵抗。
肉を断つ感覚。
全部、本物だった。
なのに。
胸の奥。
嫌な予感だけが消えなかった。




