第二十八話 「届かない声」
フェルギアの指が、ルクシスの肩に置かれたまま止まる。
「……やめとけ」
先ほどよりも低い声だった。説得というより、ほとんど警告に近い。
青いホログラムの光が、二人の顔を淡く照らしている。揺らぐ光の粒子が、紙のように薄く消えては生まれ直し、別の任務へと切り替わっていく。その中で、たった一つだけが変わらずそこに在り続けていた。
――調査任務:神徒の目撃情報場所
――前提階級:二級以上
――ディメンション:アークレイア
――任務コード:ST3578
ルクシスはその文字列から視線を外さない。
「なんでだよ、早くしないと消えるかもしれないだろ」
焦りというより、妙に理屈っぽい声だった。まるで今取らないと損をすると言わんばかりの現実的な判断。
フェルギアは一度息を吐く。
「神徒ってのはな、あの邪神を信仰してるイカれ集団だぞ」
肩を押さえる手に、ほんの少しだけ力が入る。
「しかも一人一人がバカみてぇに強いって話だ、そいつらに殺された人間は四桁はいくらしいぞ」
「……あの邪神ってのはよく分からんが」
ルクシスは肩に置かれた手を、やんわりと外した。その動作は静かで、けれど拒絶は明確だった。
「神徒の存在自体は知ってる。その強さもな」
その言葉に、フェルギアの眉が動く。
「なら――」
止めようとした言葉は、そこで途切れる。
ルクシスの指先が、まだホログラムを指したままだったからだ。迷いがない。視線も逸れない。
次の瞬間、彼はぽつりと言った。
「……言ってなかったけどさ」
空気が、少しだけ重くなる。
「俺、実はその神徒ってやつの一人に恨みがあんだよ」
「……え?」
フェルギアの声が、そのまま間抜けに落ちる。
ホログラムの光が一瞬だけ揺らいだ気がした。
ルクシスはようやく視線を外し、フェルギアを見る。淡々としているようで、どこか奥底だけが冷えている目だった。
「だからさ」
一拍置いて、静かに続ける。
「もしこの任務でそいつに会えるなら……俺は受けなきゃいけない」
その言葉が落ちた瞬間、周囲の喧騒が少し遠のいたように感じた。
フェルギアは言葉を失ったまま、ルクシスの横顔を見る。
さっきまで才能の塊だの賢者だのどこか現実味のない化け物じみた存在だったはずの男が、今だけは妙に生々しい。
理由のある目をしていた。
ただ強いから受けるんじゃない。
ただ危険だから避けるんでもない。
そこにいるから行くという、歪な必然。
フェルギアは喉を鳴らす。
「……お前、それ」
止めるべきか、聞くべきか、判断がつかない。
代わりに出たのは、少し掠れた声だった。
「死ぬ可能性とか……考えてんのか?」
ルクシスは一瞬だけ黙る。
そして、当然のように答えた。
「考えてるよ」
あまりにも軽い返答。
それが逆に重い。
「でもさ」
ルクシスはもう一度、ホログラムへ目を戻す。
揺れる青の光の中で、その輪郭だけがやけにはっきりして見えた。
「それでも行く理由がある」
短い沈黙。
フェルギアは肩から手を離す。
フェルギアの口は、半分開いたまま固まっていた。
言葉になりかけては消えていく。
止めたい。
行かせたくない。
でも、それを言う資格が自分にあるのかも分からない。
その全部が喉の奥で絡まって、ただ呼吸だけが浅く繰り返されていた。
「……お前は優しいな」
ルクシスがぽつりと呟く。
それは独り言に近かった。けれど、確かにフェルギアへ向けられた言葉だった。
「は……?」
フェルギアの声がかすれる。
驚きとも、否定ともつかない音。
ルクシスは少しだけ目を細める。
「いくら友達とはいえ、お前と出会ってまだそう長い時間は経ってない」
ホログラムの青い光が、ルクシスの横顔を淡く染める。
「なのにさ。そこまで俺を心配するんだから」
その瞬間、フェルギアの肩から力が抜けた。
怒りでも納得でもない、ただどうしようもないという形の脱力だった。
ルクシスはそれを横目で確認し、小さく息を吐く。
そして、迷いなく指を伸ばした。
青いホログラムの表面に、指先が触れる。
一瞬、空気が震えた。
光の粒が波紋のように広がる。
「――任務を受諾しますか?」
無機質な文字が、二人の間に浮かぶ。
YES/NO
ルクシスは一度だけ指を引いた。
ほんの数センチ。
まるで、ほんの少しだけ躊躇ったかのように。
だが次の瞬間、その指は軽く跳ねるように動いた。
クレーンゲームのアームみたいな、無駄に器用で、やけに間の抜けた動き。
――YES。
押された瞬間、ホログラムが一段だけ明るくなる。
「……あっ」
フェルギアの声が漏れた。
それは止められなかった悔しさでもあり、もう戻れない現実への反射でもあった。
光が静かに収束し、任務は成立へと切り替わる。
沈黙。
ほんの数秒なのに、やけに長い。
ルクシスはゆっくりと手を下ろした。
そしてフェルギアへ視線を向ける。
「悪いな、フェルギア」
声はいつもより少しだけ静かだった。
さっきまでの軽口も、皮肉もない。
ただ事実だけを置くような言い方。
一拍置いて、ルクシスは続ける。
「あと……俺を心配してくれて、ありがとな」
その言葉は、うまく整えられていなかった。
綺麗でもないし、格好もつかない。
それでも、確かに本音だった。
フェルギアは何も言えないまま、ルクシスを見ている。
止めるべきだったのかもしれない。
一緒に行くべきじゃなかったのかもしれない。
それでも――もう、選択は終わっていた。
青いホログラムの光が、静かに二人の影を床へ落とす。
任務コードST3578。
それはもう、情報ではなく、現実になっていた。
「お前は俺みたいなことせずに、ちゃんと段階を踏めよ」
ルクシスは軽く手を振りながら背を向けた。
ひらひらと、軽い動作。
まるで別れというより、ちょっとした寄り道にでも行くような気安さだった。
フェルギアは声を出せないまま、その背中を見ていた。
止めるべき言葉は喉の奥で絡まり、形にならない。
手を伸ばせば届きそうなのに、それをする理由が自分の中でまだ定まらなかった。
――だが。
ルクシスの足が、数歩進んだところで止まる。
そして、ゆっくりと振り返った。
「……あー、そういや言い忘れてたわ」
少しだけ大きい声。
さっきまでの軽さをそのまま残したまま、しかし妙に通る声だった。
フェルギアが反射的に顔を上げる。
ルクシスは口角を上げる。
今度は、さっきのような適当な手振りではない。
しっかりと形を持ったまま、停止した右手をこちらへ向けた。
「またな」
その一言だけ。
たったそれだけのはずなのに。
フェルギアの耳には、やけに鮮明に届いた。
周囲の雑音が一瞬だけ薄れて、声だけが浮かび上がるような感覚。
返事をする前に、ルクシスはもう背を向けていた。
そしてそのまま、歩き出す。
――ルクシスは階段を一人で折り続ける。
石造りの階段は冷たく、踏みしめるたびに乾いた音を返す。
上階の喧騒はすでに遠く、次第に世界そのものが薄くなっていくようだった。
やがて彼は地下へと入った。
床も壁も天井も、すべてが石。
人工的でありながら、どこか迷宮のような圧迫感を持つ通路。
空気は冷えているのに、妙に重い。
「こればっかりは俺の記憶力に感謝だな……」
小さく呟きながら、ルクシスは歩く。
実際のところ、転送装置室の場所を覚えていたのは偶然だった。
試験会場を探していたとき、不意に目に入った転送装置室という名前。
それがなんとなく気になって覚えたというだけ。
「任務コードは……たしかST3578だよな」
確認するようにもう一度呟く。
「うん、しっかり覚えてる」
それは安心のための言葉だった。
誰に向けるでもなく、自分の中の不安を押し込めるための確認。
そしてルクシスは足を止めることなく、目的の扉へ辿り着く。
無機質な鉄の扉。
転送装置室。
一拍置き、ルクシスは迷いなくドアノブへ手をかけた。
「……よし」
小さく息を吐き、
そして扉を開いた。
中は、妙に広く感じた。
いや、正確に言えば広くはない。
むしろ構造だけ見れば、ただの一室だ。
それなのに、ルクシスの目にはどこか“空白”が広がっているように見えた。
理由は単純だった。
――あまりにも、必要最低限しか存在していない。
一番奥。
そこに転送装置らしき土台がある。
円形の基礎構造の中心が淡く青く光っており、光は一定のリズムもなく、ただ“そこに在る”という事実だけを主張していた。
機械的でありながら、どこか神秘的。
技術と異常の境界線に、無理やり押し込まれたような違和感。
ルクシスは一瞬だけ足を止める。
「……なるほどな」
意味のない呟き。
理解したわけではない。ただ、そう言うしかない空気だった。
そして視線を横へずらす。
そこには、大きな屋台のような構造物があった。
金属製の机。
その奥に、人。
管理人らしき存在。
だが第一印象は人間らしさではなかった。
目の下のクマがひどい。
皮膚はやや青白く、光の届かない場所にずっといたような顔。
そして何より、視線が死んでいる。
天井を見ている。
ただ、見ている。
何も追っていない目で、真っ暗な天井を固定したまま動かない。
「不気味だなぁ……」
ルクシスは口の中だけで呟いた。
声には出さない。
ここは静かすぎる。
音が少しでも大きければ、部屋全体がそれを拾い、管理人にそのまま届いてしまいそうだった。
ルクシスは慎重に歩を進める。
屋台のような机の内側を覗き込む。
中はさらに異様だった。
天井から吊るされた小さな明かりが一つ。
しかしその光は弱すぎて、照明というより“存在しているだけの装飾”に近い。
ほとんど意味をなしていない。
影の方が支配的だった。
管理人の横には、何台ものコンピューターが積み重なっている。
規則性はない。ただ増設された結果の山。
その前にはキーボード。
後ろには鉄製の引き出しが、限界まで詰め込まれている。
ぎっちりと。
無理やり押し込んだせいで、少し歪んでさえ見えた。
「え、えーと……」
管理人は、まるで首だけが重力に負けたみたいにガクンと頭を落とした。
そのままの姿勢で、ルクシスを見上げる。
死人じみた目つき。
焦点が合っているのかも怪しい。
「任務コードを言ってくだっせぇ」
ボソボソとした声。
聞き取れないほどではないが、妙に語尾が崩れている。
それが余計に不気味さを増していた。
「……ST3578」
ルクシスは一応、はっきりと、少しゆっくりめに答えた。
管理人は「あー……」と、肺の底から漏れるような声を出す。
そして――机の下に、ズルリと潜り込んだ。
ルクシスが思わず小さく身を引く。
次の瞬間。
カチャカチャカチャカチャ。
スイッチを切り替える音。
配線を叩く音。
どこか狂ったような機械音が連続する。
「……器用だなこの人」
思わず本音が漏れる。
背筋を折ったまま。
椅子の裏側から頭だけ出した状態で。
それでも普通に作業が進んでいるのが、逆に怖い。
やがて管理人は顔を上げた。
そしてキーボードを打ちながら、横のモニターを覗き込む。
目はやっぱり虚ろなまま。
だが手だけが異様に正確だった。
数秒後。
管理人は無言で転送装置へ視線を向ける。
首だけがぐいっと伸びる。
そのまま、装置を凝視したまま数秒。
――ブゥン。
青い光が一瞬強く脈動した。
そしてすぐ収まる。
しかし先ほどよりも明らかに密度の違う光。
「あー、…大丈夫そっすね…」
管理人は椅子を勢いよく後ろにずらした。
ガタン、と大きな音。
そのまま気の抜けた声で続ける。
「ご武運を〜」
あまりにも薄い。
応援しているという概念だけを形にしたような声だった。
ルクシスは一瞬だけ沈黙し――
「……どうも」
小さく返す。
そして、青く揺れる転送装置へと足を向けた。
光が、呼吸のように脈打っている。
まるで「来い」と言っているようだった。




