第二十三話 「死にたくない人間の死ぬ覚悟」
再び二人は同時に駆け出した。
だが今度は役割が違う。
フェルギアは真正面。
ルクシスは逆。
ルクシスは地面を蹴った直後、そのまま宿の壁へ向かって跳ぶ。
ドンッ、と壁へ足裏がめり込む。
(狙いは最初から決まってる!)
壁を思い切り蹴る。
身体が弾丸みたいに加速する。
一直線。
受付人へ。
魔物もそれに気づいた。
耳の集合体みたいな顔が歪み、巨大な腕を振り上げる。
進路を塞ぐように。
叩き落とすように。
だが。
ジャラァァァッ!!
オレンジ色の鎖が空中を走る。
フェルギアが魔物の胴体へ鎖を巻き付け、そのまま全体重をかけて引く。
「……ッ!」
魔物の身体が僅かにずれる。
腕が逸れる。
ギリギリ。
本当に指一本届かない程度。
フェルギアが歯を食いしばった。
「今だっ!!」
「言われなくとも!!」
ルクシスが手を伸ばす。
もう届く。
掴める。
連れ出せる。
そう思った。
でも。
受付人は戦い慣れていない。
突然目の前に人が飛んできた。
大きな音。
巨大な魔物。
鎖。
剣。
情報が多すぎた。
受付人は反射的に。
両手を胸元へ寄せ。
一歩。
後ろへ下がった。
「――え」
ルクシスの指先が空を切る。
掴むはずだった手はない。
「ちょっ」
情けない声。
勢いは止まらない。
ルクシスはそのまま。
ズシャアアアアアッ!!
受付人の目の前を綺麗に滑走。
受け身失敗。
顔面着地。
「ぐえっ」
一瞬。
戦場なのに静かになった。
フェルギアが振り返る。
「お、おい!?」
困惑。
憤怒。
心配。
全部混ざった声だった。
ルクシスは地面に顔を埋めたまま、小さく返す。
「……ここで避けるとは思わねぇだろぉ……」
痛い。
それより。
恥ずかしい。
めちゃくちゃ格好つけた後だった。
起き上がりたくない。
できればこのまま床になりたい。
受付人も固まっていた。
目をぱちぱちさせながら。
数秒前まで命懸けで助けに来ていた男が、目の前で盛大に転んだ現実を処理できていない。
そして。
魔物だけが。
ニィィ……と笑った。
魔物の目が動く。
標的変更。
受付人でもない。
ルクシスでもない。
――フェルギア。
「あっ」
誰の声だったのか分からない。
ルクシスか。
受付人か。
多分両方だった。
フェルギアは一瞬反応が遅れた。
さっきまで拘束していた。
ルクシスの救出を成立させるため、意識を向け続けていた。
その上。
さっきの盛大な顔面ダイブ。
あまりにも予想外すぎた。
だから。
遅れた。
魔物の腕が迫る。
口。
口。
口。
無数の歯が開く。
次の瞬間。
ドゴォォォン!!
「――ッ!!」
フェルギアの身体が横へ吹き飛ぶ。
壁へ激突。
石が砕ける。
身体が沈み込む。
「……げほっ」
血。
赤い。
床へ落ちる。
「げほ……げほ……」
手をつく。
立てない。
伸ばされていた鎖が色を失っていく。
オレンジの光が薄れ。
ほどけ。
空気に溶けるように消えていった。
魔物は追撃しない。
耳でできた顔をゆっくり傾ける。
動けない。
そう判断した。
そして。
再び。
ゆっくり。
ルクシス達へ顔を向ける。
ルクシスは俯いたままだった。
数秒。
動かない。
受付人も言葉を失っている。
沈黙。
そして。
ルクシスが立ち上がった。
顔は見えない。
剣を拾う。
黄金。
黒。
二本とも握り直す。
「……畜生」
小さな声。
「もうこのまま二人とも見捨ててやろうか……」
冗談だった。
でも。
本心でもあった。
助けようとして。
失敗して。
人が傷ついた。
だったら最初から全部切り捨てた方が楽だ。
一瞬だけ。
本当にそう思った。
ルクシスは剣を肩へ乗せる。
そして壁に埋まったフェルギアを見る。
「フェルギアは……もう無理そうだな」
少し間。
「後で塩くらいは撒いといてやろう」
「勝手に殺すな…」
掠れた声。
「なんだ、生きてたのか…」
軽口だった。
だけど、その声を聞いた瞬間。
胸の奥に沈めていた考えが、嫌になるほど輪郭を持ってしまった。
──二人は助けられない。
受付人を抱えて逃げれば、フェルギアが死ぬ。
フェルギアを回収して退けば、受付人は残る。
どちらか一人。
どちらかを選べば終わる。
それだけの話。
……簡単な話のはずだった。
ルクシスの指先が、剣の柄を握る。
力が入る。
息が浅くなる。
「……」
脳裏に浮かぶ。
昨日会ったばかりの宿の受付。
さっき会ったばかりの白髪男。
どっちも他人。
名前しか知らない。
普通なら迷う必要なんてない。
なのに。
ルクシスは手首を振り上げ――
バチン。
乾いた音が響いた。
自分の額を思い切り叩く。
痛みで頭が冴える。
「……馬鹿か俺」
小さく笑う。
そんなの、考えること自体が間違ってた。
助けたいから残った。
助けたいから戦ってる。
だったら。
途中で人数減らして辻褄合わせるなんて格好悪い。
ルクシスは二本の剣を握り直した。
口角を強引に持ち上げる。
「やっぱ目指すなら――」
魔物を見る。
フェルギアを見る。
受付人を見る。
「全員生存の完全勝利ルートだよな」
その覚悟を嘲笑うように。
魔物が、口を歪めた。
その直後だった。
魔物の姿が――消えた。
「……」
ほんの一瞬。
ルクシスは思考した。
消えた?
違う。
どこへ行った。
血。
さっきの血。
床。
視界。
全部を繋げようとしてしまった。
その一瞬。
ルクシスの目の前の床に付着していた血が、生き物みたいに脈打つ。
ドクン。
「しまっ――」
遅い。
血の中から浮かび上がるように、魔物が目の前に現れていた。
ルクシスは剣を構える。
だが。
魔物は見ていなかった。
ルクシスを。
赤い無数の目。
その先。
宿の受付人。
「……え」
思考が止まる。
なんでだ。
今まで一度も気にしてなかった。
フェルギアを潰した後だって見向きもしなかった。
なのに。
魔物の巨大な腕が。
一直線に受付人へ伸びる。
受付人は動かない。
いや。
動けない。
目だけが見開かれていた。
理解した時には。
身体が勝手に動いていた。
左腕を。
受付人の前へ差し出す。
次の瞬間。
ゴギッ。
嫌な感触。
魔物の手は受付人の首ではなく、ルクシスの左腕を掴んでいた。
指が食い込む。
骨が軋む。
ミシ。
ミシミシ。
身体の中で壊れる音がした。
「ぐっ……!」
「なん……で……」
初めてだった。
受付人の声が。
あんな弱々しく聞こえたのは。
ルクシスは一瞬だけ目を見開く。
次の瞬間。
意味の分からない怒りが胸の奥から湧いた。
左腕が痛い。
骨が軋む。
息も苦しい。
なのに。
そんなことより。
今さらそんな声を出したことが腹立たしかった。
「お前っ……!」
痛みを無理やり飲み込む。
歯を食いしばって受付人を見る。
「死にたくねぇなら!!」
声が割れる。
「死なねぇように動けや!!」
祈りだった。
怒りだった。
縋りだった。
全部混ざっていた。
受付人の目が揺れる。
「いや……私は……」
「まだ言うかよ!!」
ルクシスが叫ぶ。
「死んでもいいってやつは!!」
左腕を掴まれたまま。
受付人を睨む。
「瓦礫が飛んできた時!避けるような動きしねぇだろうが!!」
受付人の肩が震える。
今度は根拠がある。
だから言い切れる。
息を吸う。
腕が痛い。
だけど止まらない。
「お前を守れる時間だって長かねぇんだよ!!」
「今言葉で言えなくたっていい!」
「態度で示せ!!」
「今!!」
「お前ができることを少しは考えろ!!」
静寂。
ルクシスの荒い呼吸だけが残る。
「でも……宿が……」
その言葉を聞いた瞬間。
ルクシスの中で、何かが切れた。
「もう宿は駄目になってるだろうが!!」
声が宿中に響く。
受付人の肩が震える。
「そんなに惜しいなら!!」
左腕が悲鳴を上げる。
痛い。
痛い。
だけど止まらない。
「後で建て直しなりすりゃいいだろ!!」
受付人が言葉を失う。
反論が出ない。
ルクシスは続ける。
「お前のいう唯一の財産も!!」
腕にさらに力が加わる。
骨が軋む。
視界が少し白む。
それでも叫ぶ。
「てめぇが生きてなきゃ意味をなさねぇだろうが!!」
受付人の手から力が抜ける。
俯く。
小さく。
消えそうな声。
「……そう……かも……しれません……」
「そうかもじゃない!」
ルクシスが吐き捨てる。
「そうでしかない!」
壊れた宿。
父の形見。
唯一の財産。
全部。
今ここで死んだら終わる。
だから。
固執する理由ごと叩き折る。
だが。
魔物は待ってくれない。
ギリ。
ギリギリ。
さらに指が食い込む。
嫌な予感。
次の瞬間。
ボギッ。
乾いた音。
左腕が。
ありえない方向に折れ曲がる。
「――うぐっ……!!」
肺から空気が抜ける。
力が抜ける。
左手から。
掴んでいた黒の剣が。
つるりと滑って床へ落ちた。
カラン。
その音だけが。
妙に静かに聞こえた。
「……くそっ……!!」
右手に残された、最後の一本。
ルクシスは歯を食いしばり、黄金の剣を無理やり振り上げる。
左腕はもう使い物にならない。
骨が砕ける音は、とっくに聞こえていた。
それでも止まれない。
剣を、魔物の顔面へ突き刺す。
ザグッ――という嫌な感触。
だが。
魔物は止まらない。
むしろ嬉しそうだった。
顔に張り付いた耳や目や口が歪み、嘲笑うようにニタニタと動く。
まるで言っているみたいだった。
──結局、お前も何も守れない。
ルクシスは荒い呼吸のまま、視線だけ横へ動かした。
受付人。
彼女はその場に立ち尽くしていた。
足元。
ルクシスが落とした黒い剣。
それを見つめたまま、動かない。
いや。
動けない。
ルクシスは奥歯を噛む。
「……走れよ……」
弱かった。
自分でも情けなくなるくらい。
届いていない。
だから。
腹の底から声を絞り出す。
「走れやッ!!」
宿がどうとか。
財産がどうとか。
そんな話じゃない。
今、生きるか死ぬかだ。
怒号が宿全体を揺らした。
その瞬間。
受付人の肩がびくりと震えた。
そして。
一歩。
踏み出した。
だが、足が絡まる。
そのまま転倒。
床へ手をつく。
「……っ……」
涙が滲む。
痛い。
怖い。
情けない。
なのに。
身体は止まらなかった。
四つん這いになりながら。
這うように。
ルクシスはそれを見て、小さく笑った。
「……それでいい」
魔物がゆっくり顔を近づける。
赤い目。
耳の擦れる音。
口から漏れる笑い声。
近い。
気持ち悪い。
でも。
笑った。
守れた。
そう思った。
その直後。
「──やああああああああッ!!」
悲鳴だった。
怒号だった。
泣き声だった。
ルクシスは目を見開く。
振り返る。
そこにいた。
受付人。
逃げたはずの彼女。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。
両手で。
自分には重すぎる黒い剣を抱えていた。
掌は切れて血が滲んでいる。
腕は震えている。
今にも剣を落としそうだ。
それでも。
止まらない。
受付人は震える腕を無理やり持ち上げた。
黒い剣。
重い。
冷たい。
こんなもの握ったことなんてない。
手の皮はすでに擦れて血が滲んでいる。
怖い。
逃げたい。
足も震えている。
それでも。
止まれなかった。
「……ぁぁ……!!」
声にならない息。
そして。
叫ぶ。
「お前……なんで……!」
ルクシスのほうを見る。
左腕を掴まれている。
折れている。
それなのに。
笑っていた。
意味が分からない。
なんでそんな顔ができる。
なんで知らない自分なんかのために。
だから。
受付人は歯を食いしばった。
涙を浮かべたまま叫ぶ。
「死にたくはなくても!!」
剣を握る。
両手で。
身体全部で。
「死ぬ覚悟くらいはしてんですよッ!!」
踏み込む。
剣を振る。
綺麗な剣術じゃない。
技術なんてない。
ただ。
全力で。
叩きつける。
「あああああああああああッ!!」
ズバァッ――
生々しい音。
肉とも違う。
石とも違う。
粘ついた嫌な感触。
次の瞬間。
魔物の顔面についていた巨大な目が、ぐちゃりと地面へ落ちた。
静止。
そして。
魔物の笑みが消える。
赤い目が見開かれる。
理解できない。
そんな顔だった。
直後。
絶叫。
耳障りな咆哮が宿全体を揺らす。
腕が暴れる。
空気を裂く。
受付人の身体が弾かれる。
「――ッ!」
軽い。
あまりにも軽く吹き飛び。
床を何度も転がりながら、壊れた入口まで叩きつけられた。
剣が手から離れる。
痛い。
息ができない。
視界が揺れる。
それでも。
目だけは閉じなかった。
ルクシスを見る。
その瞬間。
ルクシスは魔物から手を離した。
折れた左腕をぶら下げたまま。
右手を振る。
淡い光。
杖。
虹色の結晶。
金色のリング。
ルクシスは無言で魔物の目があった場所へ先端を押し当てた。
魔物が気づく。
遅い。
ルクシスは睨みつけた。
さっきまでの余裕も笑いもない。
「……うるっせぇんだよ!」
杖が光る。
魔法陣が展開する。
空気が震える。
「──リヒト・エクスプロージョン!!」
一瞬。
魔物の身体の内側に、光が灯る。
腹。
胸。
首。
全身。
ひび割れるように光が走る。
そして。
世界が白く染まった。
――ドゴォォォォォォォンッ!!
爆発。
轟音。
衝撃。
宿の窓が砕ける。
夜空に巨大な光柱が立ち上る。
そして。
爆風の中。
ルクシスだけが立っていた。




