第二十一話 「君だから助けたい」
───部屋に入り、背後で扉がガチャンと重たい音を立てる。
その音を聞いた瞬間だった。
ルクシスは一歩も動かず、その場で立ち止まった。
ゆっくりと身体を預けるように扉へ背中をつける。
そして、肺の奥に溜まっていた息を長く吐き出した。
「……ふぅ」
静かだった。
廊下の足音もない。
下の受付から声も聞こえない。
部屋の中にあるのは、自分の呼吸音だけ。
ルクシスは額へ手首を押し当てる。
「……頭痛は……ないな……」
熱もない。
脈も普通。
身体に違和感はない。
昨日みたいに突然倒れそうな気配も、今のところ感じない。
確認を終えると、そのまま部屋の中央まで歩いていく。
荷物を置くでもなく、ベッドに座るでもなく、ただ立ったまま。
少し考える。
今日一日のことを。
突然起きた頭痛。
夢の中で聞こえた声。
待合室で泣いていた女性。
妙に自分へ興味を示したクロード。
そして、何かを知っているようで、何も言わなかったあの目。
「……変なんだよな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
考えれば考えるほど、おかしなことばかりだった。
全部が別々の出来事のはずなのに、妙に繋がっている気がする。
理由は分からない。
でも、嫌な予感だけはする。
……そこで思考を止めた。
「もう風呂入って寝るか……」
これ以上考えたら、また頭が痛くなりそうだった。
疲労感も強い。
肩から少しずつ力が抜けていく。
ルクシスは軽く首を鳴らしてから、小さく笑う。
「重要なのは……明日からだしな……」
そう自分に言い聞かせる。
今日起きたことは、まだ全部分からなくていい。
答えが出ないことを考え続けるほど、器用な人間でもない。
だから今は休む。
考えるのは明日の自分に押し付ける。
そう決めて、ルクシスは浴室に向かって歩き出した。
───
「便利なんだけどなぁ……」
浴槽に浸かっているせいか、声が少しぼやけて聞こえる。
白い湯気がゆらゆらと天井へ昇っていく。
ルクシスは湯船の縁に腕を置き、ぼんやりと周囲を眺めた。
「これとかなんだよ……」
指先で近くの壁に取り付けられた機械へ触れる。
四角い箱。
数字。
ボタン。
説明文。
意味が分からない。
給湯器のリモコンだった。
アウレリアにはこんなものはない。
そもそも湯を沸かすなら火魔法か、薪を燃やすか、その程度だ。
なのにこの街は違う。
街並みはレンガ造りで中世そのもの。
服装も特別未来的じゃない。
……なのに風呂だけ妙に便利だった。
結局、風呂を沸かそうとして数分格闘した結果、意味が分からず断念。
いつも通り魔法でお湯を出した。
「街並みは中世なのに一部だけ文明進ませてるせいでわっけわからん……」
ルクシスは小さく息を吐く。
身体の力が溶けるように抜けていく。
試験。
頭痛。
宿。
全部終わって、ようやく休める。
頭を浴槽の縁へ預け、天井を見る。
「リベリオンのことすらまだよく分かってねぇって言うのにさ……」
今日だけで知らないことが増えすぎた。
目を閉じる。
少しだけ。
本当に少しだけ休もうとした。
その瞬間だった。
ピイイイイイイン!!
ピイイイイイイン!!
甲高い警報音が宿全体に響き渡る。
『魔物警報です。魔物警報です』
『一級の魔物が出現しました』
『近隣住民の皆様は、直ちに避難してください』
『繰り返します――』
ルクシスは目を開けた。
しばらく無言。
浴槽を見る。
湯気を見る。
自分の身体を見る。
「えぇ……」
小さく呟く。
そして少し考える。
風呂。
全裸。
避難。
警報。
「避難できねぇんだけど……」
ルクシスは真顔のまま天井を見上げた。
人生、タイミングというものは大事らしい。
───ルクシスは急いで服を着替える。
濡れた髪もそのまま。
腰へ鞘を先につけ、そこへ二本の剣を差し込む。
金の剣。
黒の剣。
カチリと固定される音が妙に頼もしく聞こえた。
「一級といえど……リベリオン付近なら俺の出番はなさそうだが……一応な……」
誰に言うでもなく呟く。
宿を守る人間も。
街を守る人間も。
きっともう動いている。
リベリオンなんて組織が近くにある以上、自分が飛び出していく必要なんて本来ない。
……それでも、何も持たずに外へ出る気にはなれなかった。
階段を急いで降りる。
段差を踏み抜きそうな勢いで駆け下りる。
しかし――妙だった。
静かすぎる。
宿泊客の悲鳴もない。
荷物をまとめる音もない。
避難しようと慌てる足音もない。
あるのは。
自分の足音だけ。
トントントントン――と、速いリズムで響き続ける。
「……?」
嫌な違和感が首筋を撫でた。
一階へ辿り着く。
そのまま出口へ向かおうとして――足が止まった。
人影。
受付。
そこに、いた。
「えっと……」
受付人だった。
昨日と変わらない場所。
昨日と変わらない姿勢。
まるで警報なんて鳴っていないみたいに、静かに立っている。
逃げる準備すらしていない。
その異常さに、ルクシスはすぐ言葉が出なかった。
受付人はゆっくり顔を上げる。
「逃げませんよ」
静かな声だった。
諦めなのか。
達観なのか。
呆れなのか。
感情が読めない。
ルクシスは少し眉を寄せる。
「理由を聞いても?」
受付人は少し考えてから、小さく笑った。
「理由……ですか」
一瞬だけ視線が宿の壁へ向く。
「強いて言うなら……これは私の父が残した唯一の財産、ですから」
その声には、ようやく感情があった。
寂しさ。
執着。
未練。
全部混ざったような声。
ルクシスは数秒黙る。
それから、ぽつりと聞いた。
「だから……死ぬ時は一緒だと?」
言ってから少し思う。
踏み込みすぎたかもしれない。
でも。
そう聞こえてしまった。
受付人は少し目を見開く。
それから。
困ったように笑った。
「……そう聞こえましたか」
「でも……それもいいかもしれませんね」
「……は?」
思わず指先がぴくりと動いた。
聞き間違いかと思った。
受付人は変わらない。
静かなまま。
まるで天気の話でもするみたいな顔だった。
「さっきも言った通り……この宿は私の父が残した唯一の財産」
受付人は周囲を見渡す。
古びた床。
静かなロビー。
誰も座っていないソファー。
「そして……私の唯一の財産でもあるんです」
言い聞かせるような声だった。
誰かにじゃない。
自分自身に。
「唯一って……」
そこでルクシスの言葉が止まる。
なんて返せばいい。
財産なんて人それぞれだ。
家族かもしれない。
友人かもしれない。
夢かもしれない。
宿しか残らなかった人間に、軽々しく否定なんかできない。
受付人は静かに続ける。
「だから……この宿を失ったら、私にはなにも残りません」
一拍。
そして少しだけ首を傾けた。
「それよりも……いいんですか? 行かなくて」
直後だった。
ドゴォォォォォン!!
巨大な爆発音。
地面が跳ねた。
宿全体が悲鳴を上げるみたいに揺れる。
棚の小物が落ち、ガタガタと音を立てる。
「ぐっ……!」
ルクシスは咄嗟に近くのソファーへ手をつき、身体を支える。
壁の奥から軋む音。
窓ガラスが震える。
近い。
思った以上に近い。
受付人は――動かない。
「いけるわけないでしょ……」
ルクシスは顔を上げる。
呼吸が少し荒い。
「今ここで置いていって、あんたに死なれたら夢見が悪くなるんすよ」
冗談めかした言い方だった。
でも目は笑っていない。
受付人は少しだけ目を細める。
「今行ってすぐ倒してしまえば……宿も私も無事だと思いますが」
ルクシスの眉が動く。
次の瞬間。
「さっきの音で分かったでしょ!!」
声が響く。
静かだった宿が、一瞬だけ凍った。
「魔物は近くにいるんすよ!!」
一歩踏み出す。
「今戦いに行ったって、あなたが無事でいる保証なんか微塵もないでしょ!!」
息が荒い。
苛立ち。
焦り。
理解できない感覚。
全部混ざる。
なんでそんな平気そうなんだ。
なんでそんな諦めた顔してる。
なんで、自分の命を宿と同じ棚に置ける。
受付人は少し黙った。
それから静かに聞いた。
「……どうして、そこまで言うんですか?」
ルクシスは答えに詰まる。
知り合って一日も経ってない。
名前すら知らない。
それなのに。
なんでこんなに必死なんだろう。
「それは……」
喉まで出かかった言葉が、そこで止まった。
なんて言えばいい。
可哀想だから助けたい?
そんな薄っぺらい言葉は嫌だった。
正義感?
そんな大層なものじゃない。
じゃあ、なんだ。
自分でも分からない。
ただ――納得してほしかった。
自分が助けようとしていることを。
無駄だと切り捨てないでほしかった。
「……俺は……あんたを……」
言葉が出ない。
直後。
――ドゴォォォンッ!!
先ほどより遥かに大きな爆音。
空気そのものが震え、宿全体が大きく軋む。
天井からぱらぱらと細かな埃が落ち、窓ガラスが悲鳴みたいに震えた。
受付人は揺れにも動じず、ただ静かに入口へ目を向ける。
「……もうそろそろですかね」
その声は驚くほど穏やかだった。
諦めきった人間の声。
それから彼女はゆっくりルクシスへ視線を戻した。
少しだけ困ったように笑う。
「あと……」
一拍置いて。
「人助けするのは勝手ですけど……相手は選んだほうがいいですよ」
「……あ?」
胸の奥で。
なにかが切れた。
「私は自分の意思でここから出ようとは思いません」
淡々と。
まるで今日の天気でも話すみたいに。
「ですから……私よりも、ほかの方を助けに行くほうが有意義ですよ」
沈黙。
その言葉が頭の中で反響する。
有意義。
その一言が、妙に耳障りだった。
ルクシスは俯く。
肩がわずかに上下する。
そして。
――ドスン。
一歩。
床を踏み鳴らした。
「……ふざけんなよ」
低い声。
自分でも驚くくらい感情が乗っていた。
受付人の肩がぴくりと揺れる。
ルクシスは顔を上げる。
エメラルドグリーンの瞳が真っ直ぐ相手を射抜く。
「そんなもん……」
もう一歩。
「わかってて言ってるに決まってんだろ!!」
声が宿全体に響く。
「言わなきゃわかんねぇのかよ!!」
ルクシスは一歩踏み込む。
拳を握り、まっすぐ受付人を睨みつけた。
「俺はほかの誰かより――」
一度、息を吸う。
逃げ場を作らないように。
誤魔化さないように。
「……あんたを助けたいと思ったから、ここに残ってんだ!!」
宿の中が静まり返る。
受付人は目を少し見開く。
けれど、その表情はすぐに元に戻った。
「……そうですか」
小さくため息。
どこか面倒そうに。
諦め切った人間特有の、感情の抜けた顔。
「何度言ったら分かるんですか?」
ゆっくり顔を上げる。
「私は、ここから出たくないんです」
「っ……! てめぇ……!」
ルクシスの眉が跳ねる。
もう言葉じゃ届かない。
そう思った。
納得なんていらない。
嫌われてもいい。
助けたあとで殴られようが、二度と会わなくなろうが知ったことじゃない。
――無理やりでも連れ出す。
ルクシスはそのまま足を踏み出した。
受付人へ向かって。
その細い腕へ向かって。
手を伸ばす。
その瞬間だった。
――ドガァァァァァァァンッ!!!
世界が揺れた。
宿全体が軋み、窓ガラスが悲鳴みたいな音を立てる。
直後。
入口方向から黒煙が雪崩れ込む。
熱風。
砕けたレンガ。
焼けた匂い。
「――ッ!!」
反射的にルクシスは手を引っ込めた。
そのまま近くのテーブルへ腕を叩きつけるように体勢を低くする。
ガタン、と机が大きく揺れる。
受付人の服が風圧でばさりと揺れた。
ルクシスは目を細め、煙の先を見る。
「……くそっ……なんだよ……!」
黒煙の向こう。
何かいる。
――ギラリ。
赤い光。
最初は火かと思った。
だが違う。
煙の向こうから、確かにこちらを見返していた。
赤い、目。
じっと。
まばたきすらせず。
ルクシスは無意識に息を止める。
数秒。
いや、体感ではもっと長かった。
やがて黒煙がゆっくり薄れていく。
そして、その全貌が現れた。
「……なんだよ……それ……」
背丈は成人男性の二倍ほど。
だが問題はそこじゃない。
顔。
――耳だった。
巨大な耳。
その中央に、不自然に貼り付けたみたいな目。
身体。
――無数の目。
腕。
――口。
脚。
――鼻。
人間の部位を誰かが悪意だけで組み上げたような姿。
境界も曖昧で、皮膚と皮膚の隙間が脈打つように動いている。
耳と目と口。
全部が別々に蠢いていた。
そして。
腕になっている巨大な口が裂ける。
笑った。
笑っている。
ルクシス達を見ながら。
馬鹿にするみたいに。
嘲笑うみたいに。
「……もうこの宿は駄目ですね」
後ろから受付人の声。
諦めた声。
それを聞いた瞬間。
ルクシスの眉が跳ねた。
「言ってる場合かよ!!」
剣を抜く。
金属音が宿の中を走る。
次の瞬間。
床を砕く勢いで地面を蹴った。
視界が流れる。
一瞬で魔物の懐。
ルクシスは腰を捻り、全身を使って剣を振り抜く。
――ザンッ!!
腹を大きく切り裂く。
肉を裂いた感触。
手応えはあった。
確実に入った。
だが。
魔物は止まらない。
切断面から赤が出る。
目。
身体中の目が。
全部。
ゆっくり細くなった。
笑っていた。
「……は?」
次の瞬間。
腕になっていた口が開く。
――グチャ。
嫌な音。
そこから舌のように伸びる腕。
ルクシスへ。
「痛覚ねぇのかよ、くそっ!!」
即座に判断。
深追いしない。
地面を強く蹴り、後方へ跳ぶ。
伸びた腕がさっきまでいた場所を薙ぐ。
――ドゴォォン!!
壁が砕ける。
宿が悲鳴を上げる。
着地。
剣を構える。
汗が一筋流れる。
ルクシスは目を細めた。
「……こうもおぞましいのは久しぶりだな…」
魔物は答えない。
ただ。
無数の目だけが。
笑っていた。




