第十六話 「対価」
───その直後だった。
「――っ」
頭の奥で。 何かが“弾けた”。
ズキン――ッ!!!!
脳を直接叩き割られたような激痛。
「ぁ、がっ……!!」
ルクシスの顔が一瞬で歪む。
反射的に頭を押さえ、爪を掻き立てるように髪を掴んだ。
視界が揺れる。
ぐらり、と世界そのものが傾いた。
「ぐっ……ぁ……!」
呼吸が乱れる。
耳鳴り。 吐き気。 平衡感覚の崩壊。
頭の中へ無理やり何かを流し込まれているみたいだった。
(くそ……なんで……!)
歯を食いしばる。
だが、立てない。
足に力が入らなかった。
膝が震える。
視界の端が黒く染まっていく。
塔の白い外壁が、ぐにゃりと歪んだ。
「っ……!」
何度も足へ力を込めようとする。
立て。 動け。
そう命令しても、身体は言うことを聞かなかった。
そして。
バタリ、と。
ルクシスの身体が石畳へ倒れ込む。
「ぁ……ぐ……」
頬が冷たい地面へ触れる。
意識が遠い。
呼吸すらまともにできない。
その瞬間。
「ねぇ、あのお兄さんあんな所で寝てるよ」
幼い少女の声が遠くから聞こえた。
「えっと……あれは……え……?」
今度は女性の声。
困惑。 そして、次の瞬間。
ぺたん、と。 尻もちをつく音が響いた。
周囲の空気が、一変する。
「お、おい……人が倒れてるぞ!」
「大丈夫か!?」
「おい! あんちゃん!!」
人々の声が次々と飛び交う。
慌ただしい足音。
誰かが駆け寄ってくる気配。
そして。
「おい、しっかりしろ!!」
肩を揺さぶられる。
だが、身体が動かない。
声を返すこともできない。
「見て分かんねぇのか気絶してんだよ!」
「分かってても声ぐらいかけてやるべきだろうが!!」
「いや医者を先に呼べ!!」
「誰かリベリオンの人呼んでこい!!」
怒鳴り声。 焦った声。 混乱。
周囲が騒がしくなっていく。
なのに。
ルクシスの意識は、どんどん沈んでいった。
(あぁもう……なんなんだよ……)
苛立ち混じりの思考が、ぼんやりと浮かぶ。
だが、その直後。
ぷつり、と。
意識が完全に途切れた。
───『……から……君に……』
声が聞こえる。
知らない声だった。
青年のような声。
どこか優しくて。 静かで。 それなのに、不思議と耳へ残る声。
『……じゃ……意味……』
今度は別の声。
こちらは知っている。
自分自身の声だ。
だが、会話が上手く聞き取れない。
音が途切れている。
まるで壊れた記録を無理やり再生しているみたいだった。
『……丈夫……が……に……教えて……』
ノイズ混じりの音声。
言葉が繋がらない。
内容が理解できない。
それでも。
(これは……)
ルクシスの意識が、ゆっくり浮上していく。
そして次の瞬間。
「っはぁ!!」
ルクシスは勢いよく身体を起こした。
乱れた呼吸。
肩が大きく上下する。
視界へ飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。
「……は……」
ぼやける視界。
ゆっくり瞬きを繰り返しながら周囲を見る。
白い壁。 木製の机。 簡素な棚。
そして、自分が寝かされている白いベッド。
内装は質素だが清潔感がある。
よくある宿屋の一室。 そんな印象だった。
「……ここは……」
掠れた声が漏れる。
記憶を辿ろうとした、その瞬間だった。
ズキン――ッ!!
「っ……!」
再び頭へ激痛が走る。
ルクシスは反射的に額を押さえ、顔を歪めた。
頭の奥を直接掻き回されるような痛み。
思考が上手くまとまらない。
「ぐ……っ」
呼吸を整えるように、一度深く息を吸う。
そしてゆっくり吐き出した。
痛みは消えない。
だが、さっきよりは少しだけマシになった気がする。
ルクシスは額を押さえたまま、小さく眉を寄せた。
「……やっぱ疲れてんじゃねぇのか俺……」
自嘲気味に呟く。
だが。
夢。 突然の頭痛。 塔の前での倒れる感覚。
どう考えても、“疲れ”だけで片付けられるものではなかった。
それでも今は、そう思い込むしかなかった。
そしてルクシスがゆっくり顔を横へ向けると、窓の外には既に夜の景色が広がっていた。
真っ暗な空。
街の灯りだけが、ぽつぽつと窓の向こうで揺れている。
「……何時間寝てたんだ……?」
掠れた声で呟く。
昼だったはずだ。
少なくとも塔へ向かっていた時点では、まだ太陽は高かった。
それなのに、もう夜。
思った以上に長時間気絶していたらしい。
ルクシスが小さく眉を寄せた、その時だった。
ガチャ、と。
部屋の扉がゆっくり開く。
「あー……起きたんですか?」
入ってきたのは、一人の女性だった。
年齢は二十代前半ほど。
片手には木製のおぼん。 その上には湯気の立つ茶が乗せられている。
だが、それ以上に目を引いたのは――眠そうすぎる顔だった。
目はほとんど閉じかけており、完全に糸目状態。
歩き方も若干ふらついている。
今にもその場で寝そうだった。
「えぇ……まぁ」
ルクシスは若干困惑しながら返事をする。
女性は「んー……」と気の抜けた声を漏らしながら、ルクシスの隣にある机へ近づいた。
そして。
カタ……。
少し不安になる手つきで、おぼんごと机の上へ置く。
茶からは、ふわりと湯気が立ち上っていた。
「じゃーここ置いとくんで……飲めそうだったら飲んでください……」
喋り方まで眠そうだった。
ルクシスは思わず苦笑する。
「体調だいじょぶそですかね…?」
「完全に治ったわけではないんですが……まぁ、もう大丈夫ではあります」
「そですかぁ……」
女性はぼんやり頷いたあと、大きな欠伸を漏らした。
「じゃあ元気になったら、自分で帰ってもらっていいですよぉ……ふぁ〜……」
欠伸混じりの声。
あまりにも気の抜けた態度だった。
そしてそのまま、ふらふらした足取りで部屋を出ようとする。
「あぁ、待ってください。代金が……」
ルクシスが慌てて呼び止める。
だが女性は振り返りもせず、ひらひらと手を振った。
「別にいらないですよぉ……」
「……え?」
ルクシスの目が少し開かれる。
女性は扉へ手をかけたまま、眠たげな声で続けた。
「これは慈善事業でやってることなんでねぇ……感謝してくださいね……」
その言葉を最後に。
ギィ……とゆっくり扉を開け、女性は部屋から出ていった。
静寂が戻る。
「……」
ルクシスはしばらく閉まった扉を見つめていた。
それから、机の上の茶へ視線を落とす。
湯気はまだ立っている。
「……なんだあの人」
思わず呟いた。
だが不思議と、嫌な感じはしなかった。
ルクシスは机の上に置かれた湯気の立つ茶へ視線を向けた。
数秒だけ見つめる。
そして――飲まなかった。
理由は特にない。
強いて言うなら、今は何かを口にする気分ではなかった。
「さて……どうしようか」
ぽつりと呟く。
頭痛はまだ残っている。
鈍い痛みが頭の奥で脈打っているような感覚。
だが、動けないほどではない。
気にしようと思えば気になる。 無視しようと思えば無視できる。
そんな微妙なラインだった。
外へ出るか。
そう考えもした。
しかし窓の外は既に真っ暗だ。
見知らぬ土地。 見知らぬ街。
夜の散策を楽しめるほど、今の体調は良くない。
かといって、このまま宿へ居座るのも気が引けた。
金を払っていない。
むしろ倒れていたところを助けてもらった側だ。
普通に考えれば、体調が回復した時点で出て行くのが礼儀だろう。
「うーむ……」
ルクシスは後頭部を掻きながら唸る。
ベッドへ腰掛けたまま天井を見上げる。
「マナー的にはもう出てった方がいいんだろうが……」
ぽつり。
「この宿で夜が明けるまで待つってのが一番楽なんだよなぁ……」
非常に魅力的だった。
柔らかいベッド。
屋根のある部屋。
安全な空間。
今から宿を出て夜の街を彷徨う理由がどこにもない。
だが。
それとこれとは話が別だ。
ルクシスは腕を組み、真剣な表情で悩み続けた。
数秒。
十数秒。
そして。
「よし」
結論が出た。
「寝るか」
あまりにも雑だった。
だが本人は至って真面目である。
理由も単純だった。
ただでさえ頭が痛い。
これ以上面倒なことを考えたくない。
それだけだった。
「明日の俺がなんとかするだろ……」
丸投げだった。
未来の自分への信頼なのか責任転嫁なのか分からない。
ルクシスは小さく欠伸を漏らす。
そして身体を横たえた。
柔らかな枕へ頭を預ける。
ふかり、と沈み込む感触。
先程まで感じていた緊張が、少しだけ緩んだ。
窓の外では夜風が吹いている。
遠くから聞こえる街の喧騒も、今はどこか心地よかった。
ルクシスはゆっくり瞼を閉じる。
意識が沈んでいく。
そして。
再び夢の世界へ落ちるように――静かに眠りについた。
───『……シス…………器……』
声が聞こえる。
深く沈んだ意識の底。
暗闇しかない世界の中で、その声だけが鮮明だった。
女性の声。
どこか威厳を感じる。
まるで長い年月を生きてきた王のような。
あるいは神話の中の存在のような。
そんな不思議な響きを持つ声だった。
『……次は……必ず……』
途切れ途切れ。
ノイズが混じっている。
まるで誰かが無理やり通信を繋ごうとしているみたいだった。
(……なんだ……?)
ルクシスは意識の中で眉をひそめる。
聞かなければならない気がした。
この声は重要だ。
そんな直感があった。
だから。
聞き取ろうとした。
もう少しだけ。
あと少しだけ――。
その瞬間だった。
───チュン、チュン。
小鳥のさえずりが響く。
「……ん……」
ルクシスの瞼がゆっくりと開いた。
窓から差し込む朝日。
柔らかな光が部屋を照らしている。
どうやら朝になってしまったらしい。
「……」
数秒だけ天井を見つめる。
そして昨夜の夢を思い返そうとした。
だが。
上手く思い出せない。
覚えているのは断片だけ。
女性の声。
威厳のある口調。
それだけだった。
「……頭痛は……ないな」
ルクシスは自分の額へ手を当てる。
昨夜まで残っていた鈍い痛み。
だが今は何も感じない。
試しに頭を軽く振ってみる。
問題なし。
気分も悪くない。
むしろ久々にしっかり眠れたような感覚すらあった。
「ふぁ……」
小さく欠伸を漏らしながら身体を起こす。
そのまま両腕を天井へ向けて伸ばした。
背骨がぽきぽきと鳴る。
「……ふぅ」
長く息を吐く。
そしてベッドから降りた。
「行くか」
短く呟く。
まだリベリオンへ辿り着いていない。
昨日は塔の前まで行ったところで倒れてしまった。
今日こそは。
そう思いながら扉へ向かう。
ギィ、と扉を開く。
木製の廊下。
朝特有の静かな空気。
床板を踏むたびに、コツ、コツと軽い音が響いた。
どうやら部屋は一階だったらしい。
少し歩くだけで玄関が見えてくる。
そこで。
「あぁ……そうだ」
ルクシスの足が止まった。
昨夜のことを思い出す。
倒れていた自分を助けてくれた宿。
金は取らないと言われた。
だが。
「流石にこれぐらいはな…」
小さく呟く。
次の瞬間。
何もなかったはずの手の中へ、一つの財布が現れた。
収納魔法。
慣れた動作で財布を開く。
そして中から金貨を数枚取り出した。
カラン。
カラン。
静かな受付カウンターへ置く。
朝早いからか、人影は見当たらない。
例の眠そうな女性もまだ寝ているのかもしれない。
ルクシスは置いた金貨を見下ろしながら頷いた。
「うん……多分足りるだろ」
かなり適当だった。
宿代の相場など知らない。
だが足りないよりは多い方がいい。
そんな雑な理論である。
それでも少しだけ満足そうに頷くと、ルクシスは財布をしまい、再び玄関へ向かって歩き出した。
今日こそ。
リベリオンへ辿り着くために。
───外へ出ると、柔らかな陽光が街を包み込んでいた。
石畳の道は陽射しを反射して白く輝き、建物の壁には穏やかな影が落ちている。
昨日も同じ景色を見たはずだった。
だが、なぜか今日は少しだけ眩しく感じる。
ルクシスは片手を額の上へかざしながら空を見上げた。
どこまでも青い空。
雲がゆっくりと流れている。
「えーと……塔は……」
周囲を見渡す。
すると探すまでもなかった。
街のどこからでも見えるほど巨大な塔が、堂々と天へ向かって伸びている。
レンガ造りの街並みの中央。
異物のように存在するその建造物は、嫌でも視界へ飛び込んでくる。
「よし……あれだな」
小さく頷き、歩き出す。
昨日は頭痛やら気絶やらで散々だった。
今は頭も軽い。
身体も問題なく動く。
それだけで十分だった。
石畳を踏みながら進んでいく。
だが歩いているうちに、ふと違和感を覚えた。
「……ん?」
ルクシスは辺りを見回す。
人が少ない。
もちろん誰もいないわけではない。
商人らしき男が荷車を引いているし、道端では子供たちが遊んでいる。
だが昨日見た時より明らかに人通りが少なかった。
「昼……ってことなのか?」
ぽつりと呟く。
そして次の瞬間。
ルクシスの動きが止まった。
「……あ」
今になって気付いた。
昨日倒れたのは昼頃だったはずだ。
そこから宿で目覚めた時には夜。
そしてそのまま寝た。
つまり――。
「俺……昼まで寝てたのか?」
沈黙。
数秒後。
「まじかぁ……」
思わず脱力した声が漏れる。
頭を抱えたくなる衝動に駆られた。
普通なら半日以上寝込んだことになる。
だが同時に納得もしてしまう。
あの頭痛だ。
身体が休息を求めていたのだろう。
「ってかよくそれで頭痛治ったな……」
呆れたように笑う。
肩を竦めながら空を見上げる。
まるで他人事みたいだった。
だが実際、今は驚くほど体調がいい。
昨日まで頭の奥へ張り付いていた鈍い痛みも消えている。
それならもう気にしても仕方ない。
「まぁ……結果オーライか」
そう結論付けると、ルクシスは再び歩き始めた。
陽光の差し込む街路を抜ける。
巨大な塔は近付くたびに存在感を増していく。
まるで街そのものを見下ろしているかのようだった。
その威圧感に圧倒されながらも、ルクシスは足を止めない。
そして――。
塔の正面へ辿り着く。
近くで見ると、やはり異常なほど大きい。
見上げるだけで首が痛くなりそうだった。
「……」
一瞬だけ無言になる。
昨日はここへ来る寸前で倒れた。
あと数歩だった。
本当にあと少しだったのだ。
だからこそ。
ルクシスは額を軽く指で叩きながら苦笑した。
「また頭痛で倒れるなんて真似はやめてくれよな」
誰へ言うでもない独り言。
自分自身への確認だった。
もちろん返事などない。
だが不思議と少しだけ安心できた。
ルクシスは深く息を吸う。
そして巨大な扉を見上げた。
ここがリベリオンなのか。
本当に自分の求める答えがあるのか。
まだ分からない。
それでも――。
進まないわけにはいかない。
「さて……」
口角をわずかに上げる。
期待と不安が入り混じった表情。
そしてルクシスは、大きな塔の中へと足を踏み入れた。




