第十三話 「不器用な優しさ」
───巨大な森。
空を覆うほど高く伸びた木々が、どこまでも続いている。
葉の隙間から零れる木漏れ日。 風が吹くたび、枝葉がさらさらと擦れ合い、静かな音色を奏でていた。
その森の中央付近。
まるで世界から切り取られたみたいに、ぽっかりと木々が途切れている場所がある。
そこだけは、花畑だった。
白。 青。 黄色。 色とりどりの花々が一面へ咲き誇り、風に揺れている。
甘く柔らかな花の香りが、空気へ溶け込んでいた。
そして、その花畑の隣。
小さな木造の家が建っている。
壁も屋根も木でできた、素朴な家。 だが丁寧に手入れされているのが一目で分かる。
家のテラスには、小さな丸机と椅子が置かれていた。
そこへ腰掛けているのは、一人の男。
柔らかな茶髪。 穏やかな顔立ち。 そして、エメラルドグリーンの瞳。
男は机へ置かれたカップを手に取ると、静かに口をつけた。
一口。
その瞬間。
「……俺、紅茶淹れるの下手だな……」
ぽつり、と。
男は困ったように眉を下げた。
頬を人差し指で掻き、小さくため息をつく。
どうやら渋みが強すぎたらしい。
カップの中を覗き込みながら、男は苦笑する。
「素人にしても酷いレベルだ」
香りは悪くない。
だが、味が微妙だった。
妙に濃い。 舌へ変な苦味が残る。
とはいえ。
せっかく淹れたものを残すのは論外だった。
男は覚悟を決めたように再びカップを持ち上げ、そのまま最後まで飲み切る。
「……にが」
小さく顔をしかめながら、空になったカップを受け皿へ戻した。
カチャリ、と静かな音が鳴る。
「クノーシャに教えてもらってから挑戦すべきだったな」
どこか反省したように呟く。
どうやら自己流で淹れた結果、盛大に失敗したらしい。
男は椅子へ深く背を預け、そのまま空を見上げた。
青空。
ゆっくりと流れていく白い雲。
エメラルドグリーンの瞳へ、その景色が静かに映り込む。
森の風が吹いた。
花畑が揺れる。 茶髪もふわりと靡いた。
「……今から教えてもらいに行けばいいか」
ふと、そんな言葉が漏れる。
思い立ったらすぐ行動。
そんな性格なのだろう。
男は椅子の肘掛けと机へ軽く手をつき、ゆっくり立ち上がった。
そのまま両腕を上へ伸ばす。
「ん〜っ……」
背筋が伸びる。
骨が小さく鳴った。
暖かな陽射し。 穏やかな風。 静かな森。
その空気は、まるで時間そのものがゆっくり流れているみたいだった。
「あのことも相談しときたいしな」
ぽつり、と。
男は独り言みたいに呟く。
その声音には、わずかな迷いが混じっていた。
エメラルドグリーンの瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
だが次の瞬間には、いつもの穏やかな表情へ戻っていた。
男はゆっくり歩き出す。
テラスを降り。 花畑の横を通り抜け。 そのまま森の中へ。
木々の隙間から差し込む木漏れ日が、地面へまだら模様を描いている。
土の匂い。 葉の擦れる音。 遠くで鳴く鳥の声。
静かな森だった。
男は慣れた足取りで進んでいく。
何度も通った道。
そのせいだろう。 地面は周囲よりも踏み固められており、自然と“道”になっていた。
靴裏が土を踏むたび、ざっ、ざっ、と乾いた音が鳴る。
その時。
風が吹いた。
枝葉が大きく揺れ、森全体がざわめく。
まるで木々同士が、何かを囁き合っているみたいだった。
「……そういや最近、ここらで魔物出なくなったなぁ……」
男は空を見上げながら呟く。
「ありがたくはあるんだが……なんか逆に寂しくなってきてしまった」
少し苦笑する。
普通なら、魔物が出ないことを喜ぶべきなのだろう。
危険は減る。 平和になる。 それが一番だ。
なのに。
どこか物足りなさを感じてしまっている自分がいた。
「……俺、もしかして戦闘狂なのか……?」
真剣に悩み始める。
歩きながら腕を組み、うーむと唸る。
一人でぶつぶつ考えているうちに、いつの間にか森を抜けていた。
視界が開ける。
目の前には、横へ一直線に伸びた道。
簡素な土道だった。
一応、人が通る場所だとは分かる。
だが、それだけ。
整備されているとは到底言えない。
地面は不規則にひび割れ、ところどころ雑草が顔を出している。
長い間、まともに手入れされていないことが一目で分かった。
男は立ち止まり、左右を見渡す。
そして迷いなく左へ曲がった。
靴音が、からりと乾いた道へ響く。
「……相変わらず何もないな……」
男は周囲を見回した。
「花すら生えてないし」
視界へ映るのは、雑草ばかり。
緑。 そして土の黄土色。
それ以外の色が、ほとんど存在しない。
先ほどまでいた花畑との差が激しすぎて、余計に寂しく見える。
「うーむ……」
男は顎へ手を当てる。
「隣町でそこらの花の種でも買って、ばら撒いたりしてみようか」
悪くない案だと思った。
この道を使う人間は少ない。
だからこそ、少しくらい好きにしても問題ないだろう。
男は脳内の予定帳へ、“花の種を買う”と書き込む。
だが。
数秒後。
(……いや、めんどくさいな)
予定帳の文字が、すん、と消滅した。
男は何事もなかったかのように歩き続ける。
風が吹く。
乾いた道の上を、小さな砂埃がさらさらと転がっていった。
そして。
男は、不意に足を止めた。
ざっ、と草を踏む音が止む。
「………」
ゆっくり顔を上げる。
視界いっぱいへ広がる青空。 流れていく白い雲。 暖かな陽射し。
森の中とは違う、開けた空気。
男は数秒それを眺めたあと、小さく笑った。
「……天気もいいしな……遠回りしていくか」
誰へ言うでもなく呟く。
完全に、自分への言い訳だった。
本当は、ただなんとなく寄り道したくなっただけ。
けれど、それを素直に認めるのも妙に負けた気がして。
男は“天気がいいから”という理由を無理やり生やした。
そして、そのまま道を外れる。
乾いた土道から逸れ、緑の地面を踏みしめた。
草が靴へ擦れる。
しゃり、しゃり、と柔らかな音。
「……転生した以降だったかな……」
男はぼんやり呟く。
「自分の行動を、変に感じるようになったの」
理屈じゃない。
もっと感覚的なものだった。
昔なら選ばなかった行動を、無意識に取っている時がある。
故に説明しろと言われても困る。
だから結局。
(まぁ、いっか)
いつも通り適当に流していた。
男は草原を歩き続ける。
相変わらず花は見えない。
だが、雑草の高さだけは少し上がってきていた。
膝下ほどまで伸びた草が、風に揺れている。
「……こうも雑草だけ成長してると、不自然に感じてくるな」
男は周囲を見回した。
緑ばかり。
生命力だけは異様に強い。
なのに、花だけが存在しない。
男はほんの少しだけ目を細める。
そして、歩く速度を落とした。
ざっ。
ざっ。
一歩ずつ慎重に進む。
風が吹く。
伸びた雑草が、大きく波打った。
その光景をぼんやり眺めながら歩き続け――。
───気づけば。
男は、一軒の屋敷の前へ立っていた。
立派な屋敷だった。
巨大、とまではいかない。
だが、一目で“普通の家ではない”と分かるほどの存在感がある。
外壁も柱も、赤みを帯びた木材で作られていた。
夕焼けを閉じ込めたみたいな色合い。
年月を感じさせるのに、不思議と古臭さはない。
むしろ、丁寧に手入れされ続けているからこその美しさがあった。
男は屋敷を見上げながら呟く。
「……何時間歩いたんだろうな」
遠回りのつもりだった。
だが、途中から完全に散歩を楽しんでいた気がする。
男は苦笑しながら再び歩き出した。
ゆっくりと。
屋敷の正面へ向かって。
そして、目の前にある大きな二枚扉へ手を伸ばす。
木の感触。
ほんの少しだけ冷たい。
男の指先が、静かに扉へ触れた。
重厚な二枚扉が、ぎぃ……と低い音を立てながらゆっくり開いていく。
屋敷の中へ足を踏み入れた瞬間、男は思わず動きを止めた。
視界の中央には、真っ赤なカーペットが真っ直ぐ奥まで伸びている。 深紅――というより、血を思わせるほど鮮やかな赤。
だが、その表面には汚れ一つ存在しなかった。
埃もない。 靴跡すらない。
まるで毎日丁寧に手入れされているみたいに、美しく整えられている。
男は無意識に自分の靴裏を見た。
「……踏むのちょっと躊躇うな……」
苦笑混じりに呟く。
場違い感が凄い。 森を歩いてきた直後の靴で踏んでいい床には思えなかった。
だが、入口で永遠に立ち尽くしているわけにもいかない。
男は軽く息を吐き、意を決したようにカーペットへ足を乗せた。
ふかり、と。 柔らかな感触が足裏へ返ってくる。
その感覚に少しだけ目を細めながら、男はゆっくり周囲を見回した。
高い天井。 赤みを帯びた木材で統一された内装。 壁へ飾られた装飾品や絵画も、どこか統一感がある。
豪華だ。
けれど嫌味な豪奢さではない。
どこか落ち着いた温かみがあった。
「……そういや久しぶりだったな……ここ来るの……」
男はぽつりと呟く。
口にしてから、自分でも少し驚いた。
本当に“今更”だった。
もっと早く来てもよかったはずなのに。 なんだかんだ理由をつけて、ずっと先延ばしにしていた気がする。
「土産でも持ってくるべきだったか……?」
一瞬そんな考えが頭をよぎる。
だが次の瞬間、すぐに首を横へ振った。
「……いや、あいつ絶対気にしねぇな」
むしろ「そんな気遣いするタイプだったのか」と笑われる気すらする。
男は小さく肩を竦め、そのまま奥へ歩き出した。
広い屋敷の中へ、コツ……コツ……と靴音が響く。
静かだった。
妙なほどに。
男は近くの階段へ辿り着くと、そのままゆっくり上り始める。
木製の階段は軋み一つ鳴らない。 丁寧に手入れされているのだろう。
だが。
「……静かすぎるな」
男の眉が僅かに寄る。
視線を左右へ向ける。
廊下。 扉。 壁際の花瓶。
だが、人の気配がまるでない。
聞こえるのは、自分の足音だけだった。
「……あいつ、メイド数人雇ってなかったっけ……?」
頭をぽりぽりと掻きながら記憶を探る。
確か以前来た時は、使用人らしき人影を何度か見た覚えがある。
けれど。
「……あー……いや、元からこんな感じだったか?」
階段を上りながら、徐々に思い出していく。
そもそもこの屋敷は、人がいても妙に静かだった。
生活感が薄いというか。 広いくせに、どこか空虚なのだ。
男は苦笑する。
「住んでるやつの性格が出てんのかねぇ……」
呟いているうちに、いつの間にか階段を登り切っていた。
男は足を止め、二階の廊下をゆっくり見渡す。
右。 左。
長く伸びた廊下には、等間隔に扉が並んでいる。 窓から差し込む昼の光が床へ淡く広がっていた。
静かだ。
屋敷全体が、まるで眠っているみたいだった。
男は迷う様子もなく、そのまま中央の廊下を歩き出す。
途中、一枚の扉が視界へ入る。
だが足は止めない。
視線すら向けず、そのまま通り過ぎていく。
そして。
廊下の突き当たり。
他の部屋より一回り大きな、重厚な両開きの扉が姿を現した。
男はその前で静かに歩みを止める。
「……留守じゃないことを祈る」
小さく呟きながら、扉へ手をかけた。
ぎぃ……。
重たい音を立てながら、ゆっくりと扉が開いていく。
そして。
最初に視界へ映ったのは、一人の女性だった。
深い緑色の髪。 宝石みたいに鮮やかな赤い瞳。
年齢は若く見える。 だが、その雰囲気には妙な落ち着きと知性があった。
彼女は窓際近くの椅子へ腰掛けている。
机の上には、白いティーカップ。 立ち上る湯気が、部屋の静けさをより際立たせていた。
女性は男の姿を見ると、ふっと口元を緩める。
「……久しぶりだね」
柔らかな声だった。
どこか人をからかうような響きも混ざっている。
男は肩を竦めながら答えた。
「おう、久しぶり」
短いやり取り。
だが、それだけで互いの距離感が分かる。
気を遣わない。 遠慮もしない。
そんな関係だった。
男は部屋へ入り、そのまま女性の正面に置かれた横長のソファーへ腰を下ろした。
ふかり、と柔らかな感触が身体を包む。
すると女性は、机へ頬杖をつきながら楽しそうに目を細めた。
「それで……今日はどんな厄介事を持ってきたんだい? ルクシス君」
「前提がおかしいだろ」
男──ルクシスは即座に眉を寄せる。
だが数秒後、諦めたみたいにため息を吐いた。
「……否定はしないけども」
「やっぱり」
女性がくすりと笑う。
赤い瞳が、どこか面白がるように細められていた。
「君がボクに会いに来る時って、大体そうだからね」
「仮にそうだったとしても、クノーシャ自体は別に戦ったりしないだろ」
ルクシスが半眼になる。
すると女性──クノーシャは、わざとらしく胸元へ手を当てた。
「そりゃあボクはか弱い女の子だからね」
「か弱い女の子が賢者になんかなるかよ」
即答だった。
間髪入れないツッコミに、クノーシャの肩が僅かに揺れる。
「賢者になること自体に強さはいらないだろう?」
「魔法使える時点で強さになるから、その理論もう破綻してる気するけどな」
「ふふっ」
クノーシャは楽しそうに笑った。
その笑みは、まるで子供が気に入った玩具を見つけた時みたいに無邪気だった。
そして彼女は一度だけティーカップへ視線を落とし――。
「……とりあえず、少し待ちたまえ」
そう言って、ゆっくり立ち上がる。
さらり、と緑髪が揺れた。
長いローブの裾が床を撫でる。
その仕草一つ一つが妙に優雅で、まるで舞台劇の登場人物みたいだった。
そしてクノーシャは、そのまま部屋の隣にある扉へ向かって歩いていく。
ローブの裾が揺れ、扉が静かに開かれた。
彼女は振り返ることもなく、そのまま中へ入っていく。
ぱたん、と小さく扉が閉じた。
「……」
部屋へ静寂が戻る。
ルクシスはソファーへ深く身体を預けながら、ぼんやり天井を見上げた。
広い部屋だった。
本棚。 机。 積み上がった書類。 窓辺へ置かれた観葉植物。
生活感はある。 だが同時に、“研究室”みたいな空気も漂っていた。
数十秒後。
カチャ、カチャカチャ――。
奥の部屋から、高い金属音が連続で聞こえてくる。
食器の触れ合う音だ。
その音を聞きながら、ルクシスはふっと苦笑する。
(……相変わらずだな)
妙に落ち着く音だった。
やがて扉が再び開き、クノーシャが部屋へ戻ってくる。
両手には木製のおぼん。
その上には二つのティーカップが乗せられていた。
中には既に琥珀色の液体が注がれており、ほわりと白い湯気が立ち上っている。
ふわり、と。 優しい香りが部屋へ広がった。
クノーシャはルクシスの前まで来ると、慣れた手つきでカップを机へ置く。
「どうぞ」
静かな声だった。
ルクシスはカップを見下ろしながら、若干警戒したように眉をひそめる。
「……変なの入ってないだろうな?」
「失礼なことを言うね」
クノーシャは呆れたようにため息を吐きながら言い返す。
そのまま自分の椅子へ腰を下ろし、足を組んだ。
赤い瞳がじとっと細められる。
「君相手に粗茶を出したりはしない」
「……本当か?」
まだ疑っている。
ルクシスの視線は完全に“前科持ちを見る目”だった。
クノーシャのこめかみがぴくりと動く。
「本当も本当だ」
そして次の瞬間。
「というか前に雑草茶を出した君が言うんじゃない」
「でも結構いけただろ?」
悪びれもなく返すルクシス。
クノーシャは数秒黙ったあと、深々とため息を吐いた。
「味の問題じゃないよ……全く」
呆れた声。
だが、その表情には僅かに笑みが浮かんでいた。
ルクシスは肩を竦めながら、恐る恐るカップへ手を伸ばす。
そして香りを確かめるように鼻を近づけ――。
「……お」
少しだけ目を見開いた。
今度は本当にまともらしい。
クノーシャは呆れ半分、感心半分みたいな顔でルクシスを見つめる。
「……本気で疑ってたのかい?」
赤い瞳がじとっと細められていた。
ルクシスはカップを持ったまま、真顔で頷く。
「いや……前にお前、本当に毒を分解できるのか試したい〜とか言って毒入りの茶飲ませてきたじゃん」
「でも実際は成功したんだ。被害はないだろう?」
「心が削られたんだわ」
即答だった。
ルクシスの眉間には深い皺。 思い出しただけで疲れたみたいな顔をしている。
「あと結果論やめろ」
「はいはい」
クノーシャは軽く肩を竦めた。
まるで悪びれていない。
どころか少し面白がってすらいる。
彼女はティーカップを持ち上げ、静かに一口飲む。
湯気が赤い瞳の前でゆらりと揺れた。
「それで? 今日の用件はまだかい?」
「あぁそうそう」
ルクシスはカップを机へ戻しながら、小さく息を吐く。
「用件は……そうだな。建前で言うなら、紅茶の淹れ方を教えてもらいたい」
その瞬間。
クノーシャの眉がぴくりと動いた。
「なんで建前が必要になるんだい?」
「久しぶりに会った友人に、いきなり相談事持ち込むの躊躇っただけだ」
ルクシスは視線を逸らしながら答える。
どこか気まずそうだった。
するとクノーシャは数秒間ぽかんとしたあと――ふっと小さく笑った。
「……君のそういうところを見ると、やっぱり不器用だなって思えてくるよ」
「は? なんでだよ」
ルクシスが眉を寄せる。
本気で分かっていない顔だった。
クノーシャは呆れたように肩を落とし、頬杖をついた。
「もとい、ボクは最初から“話す順番”を入れ替えた程度で反応が変わるような人間じゃないってことくらい、知ってるだろ?」
静かな声だった。
だがその言葉には、“長い付き合い”だからこその理解が滲んでいる。
ルクシスは一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「……」
そして数秒後、誤魔化すみたいに鼻を掻いた。
「……知ってても、やってあげる優しさっていうのがあるんだよ」




