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神殺しの英雄  作者: トネヌ
第一章 『2人目の英雄』
12/45

第十二話 「君と会う時は笑顔でいたいから」

 ───眩しい。

 最初に、そう思った。

 閉じていた瞼の裏を、白い光がじわじわと焼いていく。

「……ん」

 フェルギアは小さく呻き、ゆっくりと目を開けた。

 視界へ飛び込んできたのは、どこまでも広がる青空だった。

 雲一つない晴天。

 朝の光が街全体を照らしている。

 下を見れば、昨日と変わらない日常が広がっていた。

 道端で会話する老人。  店先へ商品を並べる商人。  笑いながら走っていく子供たち。

 昨日、自分が命を懸けていたことなど知らないように、住民たちは平穏な朝を過ごしている。

「……朝……?」

 掠れた声で呟く。

 そこでようやく、フェルギアは自分がベランダで眠っていたことを思い出した。

「……見られてねぇよな……」

 若干気まずそうに眉を寄せながら、ゆっくり立ち上がる。

 その瞬間。

「っだぁ……」

 全身へ鈍い痛みが走った。

 硬い床。  無理な体勢。

 まともな場所で寝たわけじゃない。

 肩。  背中。  腰。

 身体のあちこちが軋むように痛んでいた。

(あんなところで寝落ちだなんて……不用心がすぎるな)

 フェルギアは小さく息を吐く。

 昨日は精神的にも肉体的にも限界だった。

 気を抜いた瞬間、そのまま意識が落ちたのだろう。

 フェルギアは部屋へ戻ると、一度だけ深くため息をついた。

 そのまま洗面台へ向かう。

 蛇口を捻ると、透明な水が勢いよく流れ出した。

 両手で掬い、そのまま顔へ叩きつける。

 パシャッ――。

 冷たい感覚が、ぼんやりしていた意識を無理やり引き戻した。

「……っ」

 フェルギアは軽く目を細める。

 近くに置かれていたタオルで顔を拭き、そのままゆっくり顔を上げた。

 鏡へ、自分の顔が映る。

 少し伸びた白髪。  隈の浮いた目元。  どこか気怠そうな表情。

 その時だった。

『疲れた顔してますもん』

「……」

 突然、脳内へ声が流れ込んできた。

 フェルギアの動きが止まる。

 静かな声。

 柔らかくて。  どこか困ったように笑う声。

「……これが疲れた顔ってことか……」

 フェルギアは小さく笑った。

 自嘲みたいな笑みだった。

 しばらく鏡を見つめたあと、フェルギアは荷物を置いていた場所へ戻る。

 白いパーカーを手に取り、袖へ腕を通した。

 慣れた感覚。

 少しだけ落ち着く。

「んじゃあ、初出勤といきますか」

 独り言みたいに呟き、そのまま玄関へ向かう。

 靴を履く。

 つま先を軽く鳴らし、踵を二度床へ打ち付けた。

 コン、コン――。

 小さな音が廊下へ響く。

 そして、扉を開けた。

 昨日と同じはずの廊下。

 なのに今日は、少しだけ明るく見えた。

 そしてフェルギアは、ゆっくりと階段を降りていく。

 ギシ、ギシ――。

 木製の階段が、小さく軋んだ音を鳴らした。

 昨夜とは違う。

 酒を酌み交わす声も。  笑い声も。  食器がぶつかる賑やかな音も聞こえない。

 宿の中は、朝特有の静けさに包まれていた。

 窓から差し込む朝日だけが、木の床を淡く照らしている。

 フェルギアはぼんやりとその光景を眺めながら、一段ずつ階段を降りていった。

 そして、そのまま受付の前まで辿り着く。

 ふと視線を向けると――昨日と同じ受付の女性が、カウンターの向こうへ立っていた。

 相変わらず、目を閉じている。

 だが今日は、昨夜よりも分かりやすかった。

 こくり。  こくり。

 船を漕ぐみたいに、頭がゆっくり揺れている。

 完全に寝ていた。

「……おつかれさん」

 フェルギアは小さく苦笑する。

 呆れ半分。  だが、不思議と嫌味のない声音だった。

 本人に聞こえるか聞こえないか程度の声量で呟くと、そのまま視線を玄関へ向ける。

 外から差し込む朝の光が、扉の隙間から細く伸びていた。

 フェルギアは一度だけ、小さく息を吸う。

 肺の奥へ冷たい朝の空気を流し込み――ゆっくり吐き出した。

 そして、そのまま歩き出す。

 ───そして。

 フェルギアは、再びリベリオン本部へ辿り着いていた。

 巨大な建物。  無機質な外壁。  朝日を反射する銀色の窓。

 昨日は緊張と疲労でまともに見る余裕もなかったが、改めて見るとかなり威圧感がある。

「うわぁ……」

 フェルギアは思わず小さく声を漏らした。

 そして次の瞬間、ふと自分の格好へ視線を落とす。

 白いパーカー。  黒いズボン。  完全に私服だった。

「あ〜……やっべ」

 フェルギアの表情が若干引きつる。

「今思ったけど、ここって私服OKなのか……?」

 昨日の光景を思い出す。

 受付職員たちはスーツ姿だった。  だが、アテネや試験者たちは私服だった気がする。

 つまり。  統一されていない。

「……まぁ、いいか……」

 フェルギアは諦めたように肩を落とした。

 今さら悩んでも仕方がない。  もし駄目なら、その時怒られるだけだ。

 そう半ば投げやりに納得しながら、フェルギアは正面扉へ手をかけた。

 自動扉が静かに左右へ開く。

 中へ入ると、昨日と変わらない受付ホールが広がっていた。

 白を基調とした内装。  磨き上げられた床。  静かな空気。

 そして受付カウンターの向こうには、昨日と同じ職員たちが立っていた。

 二人はフェルギアの姿を視認すると、小さく頭を下げる。

 その動きにつられるように、フェルギアも反射的に頭を下げ返した。

(あっ、やべ)

 下げたあとで気づく。

 完全に無意識だった。

 フェルギアは少しだけ気まずそうに頬を掻きながら、そのまま右側の受付へ足を運ぶ。

 そして机の前で立ち止まり、片手を軽く置いた。

「……では、無事登録がなされたということで、資料をお渡しします」

 受付職員は淡々とした声でそう告げる。

 そのまま机の下へ手を伸ばし、大きめの封筒を取り出した。

 どさり、と机の上へ置かれる。

 そこそこ厚い。

(おー……)

 フェルギアの目が少しだけ開く。

(今度はちゃんとチュートリアルがあるんだな……)

 昨日を思い出す。

 転生。  試験。  死にかけ。  意味不明な専門用語。

 説明不足にもほどがあった。

(また何も説明なかったら、普通に発狂してたかもしれない……)

 フェルギアは内心でそんなことを考えながら、少しだけ安心する。

 だが、その瞬間。

 ぐいっ。

「……ん?」

 封筒が、ゆっくりこちらへ押し出されてきた。

 受付職員は無表情のまま、無言で封筒を前へ進め続ける。

 ずい。  ずい。

 最終的に、封筒の角がフェルギアの腹へ軽く刺さった。

「……あぁ、すみません」

 フェルギアは苦笑しながら、慌てて封筒を受け取る。

 そのまま一歩後ろへ下がった。

 受付職員は、ようやく満足したように手を離す。

(圧が地味に強いなこの人……)

 フェルギアは封筒を抱えながら、なんとも言えない表情になった。

 フェルギアはそのまま受付ホールを離れ、隣の待合室へ移動した。

 自動扉が静かに開く。

 中は昨日と変わらない空間だった。

 並べられたソファー。  白い照明。  静かすぎるほど落ち着いた空気。

 フェルギアは空いているソファーへ腰を下ろすと、手に持っていた封筒を膝の上へ置いた。

 そして、そのまま中を開く。

 がさり、と紙の擦れる音。

 中から現れたのは、大量の資料だった。

「うげぇ……」

 フェルギアの顔が一瞬で引きつる。

「これ全部読まないといけないのか?」

 嫌悪感が隠しきれていなかった。

 眉は露骨に寄り。  口元も若干歪んでいる。

 だが幸い、周囲に人はいない。  少なくとも、この情けない顔を見られた様子はなかった。

(助かった……)

 フェルギアは内心で小さく安堵しながら、資料をぱらぱらとめくる。

 そして、一番前に挟まれていた紙を取り出した。

 そこには大きく、

『ようこそ、リベリオンへ』

 と書かれていた。

(まぁ……とりあえずこれから読むべきだよなぁ……)

 フェルギアは小さく息を吐きながら、視線を下へ移していく。

(なになに……)

 相変わらず文字量は狂っていた。

 一枚の紙へ無理やり押し込めたみたいに、細かな文字がびっしり並んでいる。

 読む前から目が滑りそうだった。

 だがフェルギアは眉をひそめながらも、なんとか内容を追っていく。

 そして数分後。

「……あー、なるほど」

 フェルギアは小さく呟いた。

 要約すれば、内容は単純だった。

 リベリオンでの仕事――もとい“任務”は、自分の好きなタイミングで受けられるらしい。

 任務管理所へ行き、自分にできそうな任務を選ぶ。

 ただし任務には推奨……ではなく、“前提階級”というものが存在していた。

 その階級に達していない場合、そもそも受注自体ができない。

(まぁゲームみたいな感じか)

 フェルギアはぼんやりそんな感想を抱く。

 そして続きを読む。

 任務受注後は、地下三階にある“転送装置施設”へ向かう。

 そこで管理人へ任務内容を伝え、“転送ポイント”を任務先のディメンションへ設定してもらうらしい。

 その後、転送装置を使って現地へ移動。

 どうやら、それが基本的な仕事の流れのようだった。

「……地下三階?」

 フェルギアの眉がぴくりと動く。

 紙から顔を上げ、思わず天井を見た。

「この塔、何階層あるんだよ……」

 昨日から思っていたが、この施設はどう考えても規模がおかしい。

 試験場。  地下通路。  転送装置。

 しかも地下三階が存在するということは、その上も十分ありえる。

 (困ったなぁ……)

 フェルギアは資料を片手に、深くソファーへ背中を預けた。

(情報量が多すぎて、覚えられる気がしない……)

 転送装置。  ディメンション。  任務管理所。  階級制度。

 まだ来たばかりだというのに、専門用語ばかりが増えていく。

 頭の中が、既に若干パンクしかけていた。

(というか俺、新人なんだから教育係の一人くらいつけろよな……)

 フェルギアは半目になりながら、資料をぱらりとめくる。

 完全に説明書を押し付けられただけだった。

 ゲームならまだしも、これは現実だ。  しかも命がかかる側の。

 フェルギアは大きくため息を吐き、額を軽く押さえる。

 その時だった。

 ウィン――。

 待合室の扉が静かに開く。

 フェルギアは反射的に顔を上げた。

 誰かが入ってくる。

 細い背中。  揺れる赤髪。

「あの人は……」

 フェルギアの目がわずかに細まる。

 高い位置で結ばれた赤いポニーテール。

 顔は見えない。  だが、あまりにも特徴的だった。

 後ろ姿だけでも分かる。

 アテネだった。

 フェルギアは資料を封筒へ戻し、そのまま立ち上がる。

 そして、彼女のほうへ歩み寄った。

「アテネさん」

「……?」

 アテネがゆっくり振り返る。

 赤い瞳がフェルギアを映した。

「あぁ……君か」

 そのまま、小さく微笑む。

 柔らかな笑みだった。

 だが。

(……違う)

 フェルギアは眉をわずかに寄せた。

 笑っている。  ちゃんと笑っているはずなのに。

 どこか、無理をしているように見えた。

「どうかしたのか?」

 アテネが首を傾げる。

 フェルギアは数秒迷ったあと、静かに口を開いた。

「……疲れてます?」

「……え?」

 一瞬だけ。

 アテネの表情が止まる。

「元気がなさそうですけど……」

 フェルギアは真っ直ぐ彼女を見る。

 するとアテネは、小さく視線を逸らした。

「あー……悪い」

 困ったように苦笑する。

「どうやら悪夢を見て、気分が下がっているのが露骨に出てしまっているようだな」

 そして肩をすくめた。

「情けないところを見せてしまって、申し訳ない」

「……アテネさん」

「?」

 アテネが再び視線を戻す。

 フェルギアは静かな声で言った。

「俺は、“疲れてるのか”って聞いたんです」

「……」

「夢を見て、疲れはしません」

 その瞬間。

 アテネの瞳がわずかに揺れた。

「あ……」

 口元が小さく引きつる。

 図星を突かれた人間の顔だった。

 誤魔化しに失敗した。  そんな表情。

 フェルギアは、ゆっくりと言葉を続ける。

「今のあなたは……」

 一度だけ、自分の胸元へ視線を落とした。

 昨日。

 鏡の中で見た、自分の顔を思い出す。

 隈。  気怠さ。  無理やり取り繕った表情。

 そして再び、アテネを見る。

「俺と同じ顔をしています」

「何が……言いたいんだ?」

 アテネの声は静かだった。

 だが、その奥にはわずかな警戒が滲んでいる。

 赤い瞳が、真っ直ぐフェルギアを見つめていた。

 フェルギアは数秒だけ言葉を探すように視線を泳がせ、それからゆっくり口を開く。

「出会って二十四時間も経ってない俺が言うのも変ですけど……」

 一度、小さく息を吸う。

「苦しいなら、言葉にしたほうがいいですよ」

 待合室が静まり返る。

 アテネは何も言わなかった。

 ただ、じっとフェルギアを見ている。

 その沈黙が妙に長く感じられた。

 やがて。

「……それは無理だな」

 ぽつり、と。

 アテネが小さく呟く。

 その声音は穏やかだった。

 だが逆に、その静かさが妙に重かった。

「……どうしてですか?」

 フェルギアが眉を寄せる。

 するとアテネは、ほんのわずかに目を伏せた。

「それは……逃げる理由になる」

「……」

 フェルギアの表情が止まる。

 だが、アテネはそれ以上何も言わなかった。

 くるり、と踵を返す。

 赤いポニーテールがふわりと揺れ、そのまま通路のほうへ歩き出した。

「待ってくださいよ!」

 フェルギアは反射的に声を上げる。

 そして咄嗟に手を伸ばし、アテネの肩へ触れた。

 ぴたり、と。

 アテネの足が止まる。

 静かな空気。

 数秒遅れて、彼女はゆっくり振り返った。

「……どうして心配する?」

 アテネの表情は穏やかだった。

 怒ってはいない。

 だが、その笑みにはどこか諦めたような色が混じっていた。

「あまりこう言いたくはないが……」

 小さく苦笑する。

「君に心配されるほど、私は弱い人間じゃないぞ」

「違うでしょ」

 フェルギアの声が低くなる。

 先ほどまでの柔らかさが消えていた。

 アテネの瞳がわずかに揺れる。

 フェルギアは、肩へ置いた手を離さないまま続けた。

「あんたは今――」

 真っ直ぐ、彼女を見る。

「俺に心配されるくらい、弱ってるように見えるって言ってるんですよ」

「……」

 一瞬。

 アテネの呼吸が止まったように見えた。

 そして数秒後。

「はぁ……」

 小さく息を吐く。

 そのまま、困ったように笑った。

「君には……敵わないな」

 自嘲混じりの苦笑だった。

 アテネはゆっくり視線を逸らし、静かな声で続ける。

「そうだよ。私は疲れてる」

 否定しなかった。

 誤魔化しもしない。

 その言葉だけで、どこか張り詰めていた空気が少しだけ緩む。

 だが次の瞬間。

「でも、それは君も同じなんだろう?」

「……」

 フェルギアの口が閉ざされる。

 言葉が出なかった。

 昨日のことを思い出す。

 死にかけた。  泣いた。  ベランダでそのまま眠った。

 疲れていないわけがない。

 そんなフェルギアを見ながら、アテネは小さく目を細めた。

「君も疲れているのなら――」

 その笑みは、どこか優しかった。

 だからこそ、余計に苦しそうだった。

「わざわざ私の心配なんてしなくていい」

「……しますよ」

 フェルギアは、迷いなく言った。

 静かな通路。  白い壁へ、その声だけが小さく反響する。

「するに決まってるじゃないですか」

 アテネが、わずかに目を見開く。

「……」

 返事はない。  だがフェルギアは、その沈黙ごと押し切るように続けた。

「あんたは、“心配してほしい”って顔してるんですよ」

 その言葉に、アテネの肩がぴくりと揺れる。

 フェルギアは真っ直ぐ彼女を見つめた。

 赤いポニーテール。  凛とした立ち姿。  誰よりも強く、誰よりも堂々としているように見える少女。

 ――なのに。

 その奥にある“何か”だけが、ずっと壊れそうだった。

「俺、ずっと思ってたんです」

 脳裏へ浮かぶ。

 黒いロボットとの戦闘。  あの圧倒的な力。  ヒーローのようにピンチな人間を救った姿。

 けれど。

 戦いを終えた直後の、あの顔だけは。

 どうしても、“自信のある顔”には見えなかった。

「あんたはいつも……誰かに気にしてほしいって顔してた」

「……っ」

 アテネの睫毛が小さく震える。

 フェルギアは言葉を止めなかった。

「最初に試験会場で叫んだ時もそうだ」

 静まり返った空間へ響いた、鋭い声。

 冷たくて。  厳しくて。  近寄りがたい声だった。

 けれど今なら分かる。

 あれは威圧じゃない。

 “見てほしい”という悲鳴だった。

「その喋り方も……」

 一歩、アテネへ近づく。

「……あの強さも」

 視線がぶつかる。

「表情も」

 フェルギアの声が低くなる。

「全部、“誰かに見てほしかった”からじゃないんですか?」

 通路へ沈黙が落ちた。

 アテネは何も言わない。

 ただ、唇だけが小さく震えていた。

 やがて。

「……妄想だろ、そんなの……」

 絞り出すような声だった。

 否定。  けれど、その声には力がない。

 フェルギアは即座に返す。

「本当に妄想なら」

 アテネの肩へ置かれた手へ、少しだけ力を込める。

「あんたは、もう俺の手を振り払ってるはずだ」

「……っ」

 アテネの瞳が揺れた。

 その赤い瞳の奥で、何かが軋む。

 フェルギアは、まっすぐ彼女を見据えた。

 逃がさないように。  目を逸らさせないように。

「なんでそこまで、自分を殺すようなことしたんですか」

 その瞬間。

 アテネの肩から、ふっと力が抜けた。

 まるで、ずっと張り詰めていた糸が少しだけ緩んだみたいに。

 フェルギアは静かに続ける。

「あんたは、強くなくても」

 声が、少しだけ柔らかくなる。

「どれだけ普通でも……あんたは魅力的な女性なはずだ」

「……っ」

 アテネの呼吸が止まる。

 その言葉を。

 “アテネ”として向けられた言葉を。

 彼女は、どれだけぶりに聞いただろうか。

 だが次の瞬間。

 アテネは苦しそうに顔を歪め、小さく呟いた。

「私は……」

 声が震える。

「あの子になれない……」

「……あの子?」

 フェルギアの眉が寄る。

 アテネは俯いたまま、唇を噛んでいた。

 赤い前髪が揺れ、表情へ影を落とす。

 その姿が、あまりにも痛々しくて。

 フェルギアの胸の奥が、じわりと熱くなった。

「……あの子って、誰なんですか」

 返事はない。

 沈黙。

 だがフェルギアは止まらなかった。

「俺は!」

 思わず声が強くなる。

 通路へ鋭く響いた。

「俺は、あんたと話してるんだ!」

 アテネの肩が大きく震える。

 フェルギアは息を荒くしながら叫んだ。

「アテネ・フォーツライン!!」

 静寂。

 空気が止まる。

 フェルギアの呼吸だけが、やけに大きく聞こえていた。

「……っ、はぁ……」

 熱くなった頭を冷ますように、一度深く息を吸う。

 そして。

 今まで肩へ置いていた手を、ゆっくり外した。

 指先から、彼女の体温が離れていく。

 だが。

 それでもフェルギアの瞳だけは、真っ直ぐアテネを見つめ続けていた。

「……すみません」

 フェルギアは、小さく息を吐いた。

 さっきまでの熱を押し込めるように、視線を少しだけ逸らす。

「取り乱しました」

 静かな謝罪。

 通路には、二人の呼吸音だけが残っていた。

 アテネは俯いたまま動かない。

 赤い髪が頬へ落ち、表情を隠している。

 やがて。

「……なんで……」

 掠れた声が漏れた。

「そんな事を……言う……?」

 その声は弱々しかった。

 まるで、自分でも理解できない感情へ戸惑っているみたいに。

 フェルギアは数秒黙り込む。

 そして、ゆっくり口を開いた。

「……俺は」

 一度だけ、アテネを見る。

 赤い瞳。  震える肩。  無理やり保っているような立ち姿。

 その全部を見てから、フェルギアは静かに続けた。

「アテネさんのこと、かっこいいと思いました」

「……」

「尊敬に値する人です」

 その言葉に、アテネの指先がぴくりと動く。

 フェルギアは苦笑した。

「でも」

 少しだけ声が柔らかくなる。

「今のあなたの顔は……好きじゃない」

「……どう……して……」

 消えそうな声だった。

 フェルギアは困ったように眉を下げる。

「どうしてでしょうね」

 小さく笑う。

 だがその笑みは、どこか寂しそうだった。

「強いて言うなら……」

 そこで、一瞬だけ空を見上げた。

 まるで遠い記憶を探すみたいに。

「俺、好きな人がいたんです」

 アテネの肩が小さく揺れる。

「……いた?」

「えぇ」

 フェルギアは頷いた。

「もう……いないんですけど」

 その瞬間。

 通路の空気が少しだけ静かになる。

 フェルギアの横顔は穏やかだった。

 けれど、その瞳の奥には。  消えない痛みみたいなものが、静かに沈んでいた。

「……それでも」

 フェルギアは続ける。

「彼女は、俺に“好きだ”って言ってくれました」

「……惚気話かよ……」

 アテネが小さく呟く。

 だが声は震えていた。

 冗談めかそうとしているのに、うまくできていない。

 フェルギアは少しだけ笑った。

「そうですよ」

 あっさり認める。

「……だから、決めたんです」

「……?」

 アテネがゆっくり顔を上げる。

 フェルギアは真っ直ぐ彼女を見た。

「もう一度会う時は」

 一拍。

「笑顔でいようって」

「……っ」

 アテネの瞳が揺れる。

 フェルギアは少し視線を逸らし、後頭部を掻いた。

「まぁ……それをアテネさんにもしてほしい、っていうのは違うんですけど」

 照れ隠しみたいな苦笑。

 だが次の瞬間、その表情が少し真剣になる。

「でも」

 フェルギアは静かに言った。

「あなたに、今のその顔は……似合わない」

「……あ」

 アテネの唇が微かに開く。

 その瞬間。

 フェルギアは突然、自分の両手を顔の前へ持ち上げた。

 そして――。

 人差し指で、自分の口角をぐいっと無理やり持ち上げる。

「こういう顔のほうが、絶対いいです」

「……は?」

 あまりにも唐突すぎて、アテネが間の抜けた声を漏らした。

 フェルギアはそのまま、ぎこちない笑顔を作り続ける。

「知ってます?」

 口角を引っ張られたまま喋るせいで、若干発音がおかしい。

「女性って……笑ってる顔が、一番似合うんですよ」

 その言葉に。

 アテネは、ぽかんとした顔で固まった。

 数秒。

 沈黙。

 そして――。

「……っ、ふ……」

 小さく。

 本当に小さく。

 アテネの口元が、わずかに緩んだ。

 フェルギアは、そっと指を下ろした。

 無理やり作っていた笑顔が崩れる。

 だがその表情は、先ほどまでより少しだけ柔らかかった。

「……あなたの笑う顔が見たい」

 静かな声。

 通路の空気へ、ゆっくり溶けていく。

 アテネの睫毛が小さく揺れた。

 フェルギアは少し照れくさそうに視線を逸らしながら続ける。

「だからでしょうかね」

 苦笑する。

「少しだけですけど……俺は、“素”のアテネさんを見てみたいと思いましたよ」

「……っ」

 アテネの唇が、わずかに震える。

 何かを言おうとして。  けれど言葉にならない。

 フェルギアは、それ以上追及しなかった。

 ただ。

 ぎこちない作り笑いだけをなんとか維持したまま、ゆっくり背を向ける。

 白いパーカーが、ふわりと揺れた。

 そして、そのまま歩き出す。

 静かな通路。

 足音だけが、一定のリズムで遠ざかっていく。

(……俺……根暗なはずなんだけどなぁ……)

 フェルギアは内心で頭を抱えていた。

 さっき自分がアテネに向けた態度を思い返し、じわじわと羞恥が込み上げてくる。

(あーもうなんか言いたいことがごちゃごちゃで意味わかんねぇじゃねぇか!)

 脳内の自分が床を転げ回っていた。

(やっぱ人差し指笑顔はキモかったよなあ…)

 顔が熱い。

 今更になって、自分の発言の破壊力を理解してしまった。

 フェルギアは早歩き気味に出口へ向かう。

 そのままリベリオンの自動扉を抜け、外へ出た。

 ひんやりした空気が頬を撫でる。

「……はぁ〜……」

 思わず深呼吸。

 肺の奥まで空気を入れ替えるように、ゆっくり息を吐いた。

(どうしちまったんだか……)

 空を見上げる。

 青空だった。

 雲がゆっくり流れている。

 フェルギアは頭を掻きながら歩き始めた。

(人がいなかったからよかったけど……)

 さっきの光景を思い返す。

 通路で。  アテネへ向かって。  感情任せに叫んでいた自分。

 数秒後。

(先輩に向かって呼び捨てで叫ぶとか頭おかしいだろ…)

 真顔になった。

(もし人いたら完全に黒歴史だったな……)

 胃が痛くなる。

(“アテネ・フォーツライン!!”じゃねぇんだよ俺……)

 脳内の自分が再び転げ回る。

 恥ずかしい。  死ぬほど恥ずかしい。

 フェルギアは顔を覆いたくなる衝動を堪えながら、小さく咳払いした。

(気を付けよ……マジで……)

 そうやって。

 不安と緊張を誤魔化すみたいに、心の中でぶつぶつと呟き続ける。

 だが。

 その足取りは、昨日よりほんの少しだけ軽かった。

 誰かを救えるかもしれないと。  誰かへ手を伸ばせるかもしれないと。

 そんな感情が、ほんの僅かに胸へ灯っていたから。

 ――これは。

 フェルギア・バーンライト。

 “二人目の英雄”が歩き始める。

 その始まりの物語。

これで第一章は終了です。

本来なら初任務編とか色々書けたとは思うんですが、ちょっと個人的に先が気になる終わり方にできる気がしなかったのでここで終わりにさせてもらいました。

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