第十話 「月下の涙」
「…君」
突然、1番が口を開いた。
決して大きな声ではない。
むしろ静かな声だった。
だが。
まさか話しかけられると思っていなかったフェルギアは、肩をビクッと震わせる。
「な……なんだ?」
思わず声が裏返りかけた。
1番は相変わらず無表情のまま、フェルギアを見つめている。
「名前は?」
「ふぇ……フェルギア、バーンライト……」
なぜか少し噛んだ。
フェルギアは内心で舌打ちする。
(なんでこういう時に限って噛むんだよ俺……!)
だが1番は特に気にした様子もなく、小さく頷いた。
「そっか」
それだけ。
そして、そのまま視線を前へ戻してしまう。
「……」
フェルギアの眉がぴくりと動いた。
(いや名乗れよ……礼儀がなってねぇぞ)
人に名前を聞いておいて、自分は名乗らない。
どういう教育を受けたらそうなるのか。
フェルギアは心の中で全力で文句を言う。
だが、そんな空気を切るように。
アテネが小さく息を吐いた。
「…いつまでここにいるつもりなんだ?」
「…え?」
フェルギアの口から間抜けな声が漏れる。
おそらく。
今この場にいる試験者全員が、同じことを思ったのだろう。
7番はぽかんとしている。
14番も目を瞬かせていた。
20番ですら少しだけ虚を突かれた顔をしている。
おそらく1番も例外ではない。
だが今はアテネへ視線を向けているせいで、その表情だけは確認できなかった。
アテネは呆れたように続ける。
「合格発表はもう終わったと言っただろう。解散していいんだぞ」
「え……っと……あ、はい……」
フェルギアは反射的に返事をした。
納得はしている。
だが理解が追いついていない。
そんな妙な感覚だった。
だがフェルギアの返答をきっかけに、他の試験者たちもようやく現実へ戻ってきたらしい。
20番が肩を鳴らし。
14番が気まずそうに視線を逸らす。
7番は相変わらず死にそうな顔をしていた。
そして。
1番は、もう後ろの扉へ手をかけていた。
フェルギアは、先頭を歩いていく1番の背中をぼんやり見つめる。
(相変わらず行動が早いなぁ……)
迷いがない。 合格発表が終わった瞬間には、もう出口へ向かって歩き始めていた。
(見習うべきところはあるんだろうが)
フェルギアは小さく息を吐く。 そして一度深く吸い直してから、ゆっくりとその後を追った。
――通路。
再び、五人は自然と隊列のような形になる。
先頭は1番。 その後ろへ続こうとした瞬間――。
ぬっ、と大きな影が横から割り込んできた。
20番だった。
「おっと失礼」
わざとらしく肩をすくめながら、一瞬だけフェルギアへ視線を向ける。 声量も、本人にだけ聞こえる絶妙な大きさ。
だが次の瞬間には、もう前を向いていた。
その直後。
「……フッ」
鼻で笑う音だけが、やけにはっきり聞こえる。
フェルギアの眉がぴくりと動いた。
(こいつ……)
じわり、と額へ青筋が浮かぶ。
(一応、俺のほうが階級上なんだが?)
2級。 5級。
数字だけなら、自分のほうが上だ。
だからこそ余計に腹が立つ。
だがフェルギアは、なんとか感情を押し込めた。
(まぁ……? 俺のほうが上だし?)
脳内で無理やりマウントを取ることで、どうにか精神の平穏を保つ。
そんなことを考えながら、何気なく後ろを振り返った。
真っ先に目へ入ったのは――14番。
包帯を頭へ巻いたまま、不機嫌そうな顔で歩いている。
眉間には皺。 口元はへの字。 露骨に機嫌が悪い。
そして、フェルギアと目が合った瞬間。
「ふんっ」
14番は勢いよく顔を背けた。
長い黒髪がふわりと揺れる。
(当たり前っちゃ当たり前だがまだ怒ってんのか……)
フェルギアは引きつった笑みを浮かべる。
さらにその後ろ。
7番が、ふらふらとした足取りで歩いていた。
顔色は真っ青。 目の下には濃い隈。 今にも倒れそうなほど弱りきっている。
「……合わせなきゃ……周りに……うぅ……」
ぶつぶつと何かを呟いているが、内容はよく聞き取れない。
怖い。
しかも時々、小さく肩を震わせていた。
(精神ダメージが一番でかそうだな……)
フェルギアはなんとも言えない表情になる。
そして最後に前へ視線を戻した。
先頭を歩く1番。 その後ろを歩く20番。
誰も会話しない。
ただ足音だけが、静かな通路へ響いていた。
───気づけば。
フェルギアは待合室のソファーへ腰掛けたまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
「……」
白い天井。 規則正しく並ぶ照明。 静かな空気。
まるで、さっきまで命懸けの戦いをしていたのが嘘みたいだった。
(あれ……俺、何してたんだっけ)
頭の中が少しぼやけている。
記憶が曖昧だ。
だが、別に体調が悪いわけではなさそうだった。 熱もない。 吐き気もない。
ただ、脳だけが変に疲れている感覚。
フェルギアは小さく息を吐きながら、再び天井を見る。
すると、照明の光がやけに眩しかった。
「うわ……」
思わず目を細め、自分の手を額の上へ乗せる。 指の隙間から漏れる光が、じわりと瞳へ刺さった。
その直後だった。
『フェルギア・バーンライト様。フェルギア・バーンライト様。受付までお越しください』
待合室へアナウンスが響く。
フェルギアは数秒遅れて反応した。
「……そうだ」
ゆっくりと上体を起こす。
「慰謝料……」
小さく呟きながら、重たい身体を持ち上げるように立ち上がった。
そして、そのまま受付へ向かって歩き出す。
受付の女性職員は、フェルギアの姿を見ると軽く頭を下げた。
そのまま机の下へ手を伸ばし、一枚の封筒を取り出す。
白い封筒。 少し厚みがある。
「……申し訳ありませんでした」
「え?」
フェルギアが間の抜けた声を漏らす。
だが受付は視線を逸らしたまま、すぐ封筒を差し出した。
「どうぞ、お受け取りください」
どこかぎこちない。 というより――少しでも早く会話を終わらせたいようにも見えた。
フェルギアは困惑しながらも、それを片手で受け取る。
「どうも……」
それだけ返し、そのまま受付を離れた。
自動扉が静かに開く。
外へ出た瞬間、ひんやりした夜風が頬を撫でた。
「……おぉ」
いつの間にか、もう夜だった。
空は暗い。 街灯だけが、ぽつぽつと道を照らしている。
昼間より人通りも少ない。
静かだ。
だが、その代わり。
家々の窓から漏れる灯りが、妙に温かく感じた。
カーテン越しの光。 食事の匂い。 誰かの笑い声。
そこら中から“人の気配”が伝わってくる。
(なんか……温かいな)
フェルギアはぼんやりと思う。
昼より人気を感じるのは、単純に夜だからなのか。
それとも――昼間、外にいた人間よりも。 夜に家へ帰っている人間のほうが多いからなのか。
そこまでは分からなかった。
ただ。
自分には帰る家がない、という事実だけは――嫌に実感できた。
一歩。
また一歩。
フェルギアが歩くたび、コツ、コツ、と靴音が夜の街へ響いていく。
昼間より静かだからだろうか。 自分の足音が、妙にはっきり聞こえた。
変な感覚だった。
だが、不思議と嫌ではない。
「夜帰りなんて当たり前だったのに……」
フェルギアは夜空を見上げながら、小さくぼやく。
「なんで今更、変に感じるんだろうなぁ……」
前世では、夜遅くの帰宅など珍しくもなかった。
コンビニの明かり。 車の音。 スマホを見る人間。
そんな景色が普通だったはずなのに。
今は、夜そのものがどこか新鮮に感じる。
そんなことを考えながら歩いていると――。
「……ん?」
フェルギアの視線が、ある建物で止まった。
他の家より、ひと回り大きい。
木造の二階建て。 窓から暖かな光が漏れている。
視線を上へ向けると、扉の上には看板が掲げられていた。
少し歪んだ、手書き感のある文字。
フェルギアはそれを見上げ、小さく呟く。
「……宿」
数秒、立ち止まる。
そして、そのまま扉を押し開けた。
カラン――。
小さなベル音が鳴る。
中は、よくあるタイプの宿だった。
木の床。 暖色の照明。 奥から聞こえる人の笑い声。
酒でも飲んでいるのだろうか。 かすかに料理の匂いも漂ってくる。
フェルギアは少し肩の力を抜いた。
そして正面。
受付カウンターの向こうには、女性の受付人が立っていた。
両手を前で組み、目を閉じている。
「……あの」
フェルギアが声をかける。
だが――反応がない。
「……あの〜?」
今度は顔の前で手をひらひら振ってみる。
それでも反応ゼロ。
「……あの!」
少しだけ声を張った、その瞬間。
「はっ……!? ね、寝てません!」
受付人が勢いよく目を見開いた。
めちゃくちゃ焦っている。
背筋までピンと伸びていた。
「……」
フェルギアは数秒黙る。
糸目の受付人に無視されていたわけではなかったらしい。
ちゃんと寝ていただけだった。
フェルギアは少し安心しながら、呆れたように口を開く。
「聞いてないし……」
受付人の女性は、一度だけ小さく咳払いをした。
そして今度は、先ほどまでの慌てた様子が嘘みたいに落ち着いた声で話し始める。
「ご宿泊でしょうか?」
「えぇ、はい」
フェルギアが頷く。
すると彼女は、どこか納得したように小さく目を細めた。
「……そうですよね」
「は?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
フェルギアはきょとんとした顔で受付人を見る。
すると彼女は、柔らかい笑みを浮かべながら言った。
「疲れた顔してますもん。何かありましたか?」
「疲れ……ては……いますね」
フェルギアは曖昧に視線を逸らす。
試験。 戦闘。 死にかけ。 謝罪。 合格。
一日で起きたこととは思えない。
そんなフェルギアの反応を見て、受付人はふっと微笑んだ。
「では……本日はごゆっくりとお過ごしください」
「……ありがとうございます……?」
結局、何が言いたいのかはよく分からなかった。
だから返事も自然と曖昧になる。
フェルギアは苦笑しながら封筒を開き、中から金を取り出して机へ置いた。
受付人は慣れた手つきで鍵を差し出す。
「二階、突き当たりのお部屋になります」
「どうも」
鍵を受け取り、そのまま階段へ向かう。
ギシ、ギシ、と木の階段が小さく鳴った。
(疲れた顔ねぇ……)
フェルギアは自嘲気味に笑う。
自分ではそこまで自覚がなかった。
だが、他人から見れば相当酷い顔をしていたのかもしれない。
そんなことを考えながら階段を上がり、突き当たりの部屋へ辿り着く。
鍵を差し込み、回す。
カチャリ。
扉を開けると、中は暗かった。
明かりはついていない。
静かだ。
下の階の笑い声も、ここまで来るとかなり遠い。
(……なんか安心するな)
フェルギアは小さく息を吐きながら部屋へ入った。
そのまま肩にかけていたパーカーを脱ぐ。
すると、その時。
「ん?」
部屋の奥に、ベランダがあることへ気づいた。
ガラス戸の向こう。 夜風でカーテンがわずかに揺れている。
フェルギアはなんとなく近づき、そのまま外へ出てみた。
ひんやりした空気が頬を撫でる。
「……綺麗だ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
夜空は深い青色だった。
月明かりまで、どこか青く見える。
幻想的だった。
そして、その色を見た瞬間。
フェルギアの脳裏へ、ある人物の姿が浮かぶ。
青い髪。
静かな瞳。
あの夜。
――彼女と、重なった。
その直後だった。
――ぽたり。
「……?」
ベランダの柵へ、何かが落ちた。
フェルギアはゆっくり視線を下げる。
透明な液体。
小さな水滴。
そして。
ぽたり。 ぽたり。
次から次へと落ちてくる。
「……雨?」
一瞬そう思った。
だが違う。
周囲は濡れていない。
落ちているのは、自分のすぐ近くだけ。
そこでようやく気づく。
それは――自分の顔から落ちていた。
「あれ……俺……」
フェルギアは呆然と呟く。
そっと頬へ手を当てた。
指先が濡れる。
「……泣いてる……?」
自分でも、意味が分からなかった。
悲しいのか。 怖かったのか。 安心したのか。
感情がぐちゃぐちゃで、自分でも整理できない。
次の瞬間。
ふっと、全身から力が抜けた。
「っ……」
膝が崩れる。
そのままベランダの床へ膝をついた。
冷たい感触。
そして今度は、ぽたぽたと水滴が膝へ落ちていく。
「……なんで……だっけ……俺……は、……」
言葉にならない。
頭の中に浮かぶ感情が、多すぎた。
死んだこと。
転生したこと。
アステラ。
試験。
恐怖。
助かったこと。
全部が混ざって、ぐちゃぐちゃになっている。
フェルギアは両手で顔を覆った。
ぐしゃぐしゃに涙を拭う。
だが止まらない。
次から次へと溢れてくる。
声は出なかった。
叫びも、嗚咽もない。
ただ静かに涙だけが流れ続ける。
その静かな涙が――どうしようもなく辛くて、苦しかった。




