折り畳み傘と、濡れた右半身
学食での昼食を終え、食器を返却口に下げた僕たちは、並んでエントランスへと向かった。
自動ドアが開き、外の空気に触れようとした、その瞬間だった。
「うわっ、嘘でしょ……」
隣を歩いていた咲良が、恨めしそうに空を見上げて声を上げた。
さっきまで晴れていたはずの4月末の空は、いつの間にかどんよりとした鼠色の雲に覆われ、ザーザーと音を立てて大粒の雨を降らせていた。春特有の、気まぐれで暴力的な通り雨だ。
アスファルトが濡れる匂いが、むっと周囲に立ち込める。傘を持たない学生たちが、頭の上にファイルや鞄を掲げながら、悲鳴を上げて各学部の棟へと走っていく。
「天気予報、雨なんて言ってなかったのに。どうしよう、傘持ってないや」
咲良は困ったように眉を下げて、エントランスの屋根の下で立ち往生している。
法学部の棟は、学食から中庭を挟んですぐ向かい側だ。距離にして数十メートル、歩いて1、2分といったところだが、この土砂降りの中を走れば、間違いなく全身ずぶ濡れになる。
僕は背負っていたリュックを前に抱え直し、底の方から黒い折り畳み傘を取り出した。
「俺、一応持ってるけど」
「えっ、ほんと!? 春斗くん、神様!」
「ただ、折り畳みだから結構小さいぞ。二人は厳しいかも……」
「大丈夫! 私、ちっちゃくなるから! ね、すぐそこの法学部棟まで入れてくれない?」
咲良は両手を合わせて、上目遣いで拝むようなポーズをした。
断る理由なんて、あるはずがなかった。
「……わかったよ。ほら、入れ」
バサッ、と傘を広げる。
1人用のコンパクトな傘だ。その下へ、咲良が僕の左側から少し身を屈めるようにして潜り込んできた。
「お邪魔しまーす」
冗談めかして笑う彼女の肩が、僕の左腕にピタリと触れた。
学食で並んで座っていた30センチの距離が、一瞬にしてゼロになった。
フワリと、雨の匂いに混じって、彼女の甘いシャンプーの香りが傘の内側に充満する。
心臓が、警鐘を鳴らすように激しく脈打ち始めた。
「じゃあ、行くぞ。足元滑るから気をつけて」
「うん、お願い!」
僕たちは歩き出した。
水たまりを避けながら、二人の歩幅を合わせて中庭を横切っていく。
少しでも気を抜けば、傘の端から滴る雨粒が左側の彼女の肩を濡らしてしまう。僕は傘の柄を持つ左手を、意識的に大きく彼女の方へと傾けた。
同時に、前抱えにしているリュックを、右手でギュッと自分の胸の右側へと押し付ける。
(頼む、PCだけは無事でいてくれ……!)
情報系の学生にとって、ノートパソコンは文字通り「命」だ。講義のデータ、書きかけのコード、各種の開発環境。もしこの土砂降りで水没でもさせたら、単位どころか僕の大学生活そのものが終わる。
僕は右手でPCを死守し、左手に持った傘の中心を咲良の頭上へとスライドさせた。
その結果どうなるかは、火を見るよりも明らかだった。
「春斗くん、ごめんね。私のせいで歩きにくいでしょ」
「別に。すぐそこだし、普通だよ」
「そう? ならいいんだけど……あ、あそこの水たまり気をつけてね」
咲良は屈託なく笑いながら、僕の左腕に軽く寄り添ってくる。
傘を左に傾け、さらにリュックを右手で抱え込んでいるせいで、僕の右肩から右腕にかけては、もはや何の防御もなく容赦なく雨に打たれていた。
薄手のシャツを通り越して、肌に冷たい雨水が染み込んでくる。
でも、そんなことはどうでもよかった。
むしろ、右半身が冷たければ冷たいほど、左腕から伝わってくる彼女の体温を、より鮮明に感じることができたからだ。
永遠に続けばいいのにと思った数十メートルの道のりは、あっという間に終わってしまった。
「着いたー! 春斗くん、ほんとにありがとう!」
法学部の棟の入り口に到着し、咲良が傘から抜け出す。
彼女のブラウスは、一滴の雨にも濡れていなかった。
「よかった。じゃあ、俺も講義行くわ」
「うん、また後で『LIME』するね!……って、ええっ!?」
手を振ろうとした咲良が、僕の姿を見て目を丸くした。
「春斗くん、右半分ずぶ濡れじゃない! どうして!?」
「あー……風が強かったからかな」
「絶対違うでしょ! 私の方に傘傾けてくれてたんでしょ! ごめん、風邪引いちゃうよ!」
慌てて自分の鞄からタオルハンカチを取り出そうとする彼女を手で制し、僕はわざと軽く肩をすくめてみせた。
「平気だって。これくらい教室に入ればすぐ乾くし。ほら、講義遅れるぞ」
「うぅ……ごめんね。今度、絶対何か奢るから!」
「はいはい。じゃあな」
申し訳なさそうに何度も振り返る咲良を見送ってから、僕は踵を返し、自分の講義がある棟へと急いだ。
5分後。
情報系の教室に駆け込んだ僕は、真っ先にリュックのジッパーを開け、中身を確認した。
「よし、PCは濡れてない……」
安堵の吐息を漏らしながら、タオルで頭を拭いて席に腰を下ろす。
「お前、何ひとりで『ミッション・コンプリート』みたいな顔してんだよ。……ってか、なんで右半分だけシャワー浴びたみたいになってんの?」
隣の席でスマホをいじっていた松本が、目を丸くして僕を見た。
逆隣に座っていた古屋も、僕の不自然な濡れ方と、大切そうにリュックを撫でている姿を見て、数秒間考え込み――やがて、ニヤァと口角を吊り上げた。
「……ははぁ、なるほどな。さては例の友達と相合傘か?」
「はっ!? お前、マジか! だから右肩だけ濡れてんのか!」
図星を突かれ、僕が言葉に詰まっていると、二人は楽しそうに笑い始めた。
「うわー、青春してんなぁ! 折り畳み傘で相合傘とか、昭和の少女漫画かよ!」
「うるせえっ! たまたま向こうが傘持ってなかっただけだ! PC守るために姿勢崩してたから濡れたんだよ!」
「はいはい、身を呈して女の子を守るナイト様ですね〜。風邪引くなよ、ナイト様」
「ほんと、ごちそうさまですこと!」
からかうように肩をバンバンと叩いてくる古屋と松本。
悪態をつきながらも、僕の口元はだらしなく緩んでしまっていた。
冷え切った右半身とは裏腹に、僕の胸の奥は、どうしようもないほど熱く、満たされていた。
ゴールデンウィーク前の、小さな折り畳み傘の下。
僕たちの距離は、間違いなく、少しずつ近づいている。




