アルバイト探しと、不意打ちの招待状
右半身の冷たさがすっかり引いた、4月末の金曜日の夜。
僕は築20年のアパートのベッドに仰向けに寝転がりながら、暗い部屋の中で一人、スマートフォンの画面をスクロールしていた。
「……時給千三百円で、週三日からか。でもこれ、シフトの融通利かないよな」
独り言が、静まり返ったワンルームに空しく響く。
部屋の隅にある小さな冷蔵庫が、時折ブーンと低いモーター音を鳴らす以外、東京の夜は信じられないほど静かだった。壁が薄いせいか、たまに隣の部屋から微かにテレビの音が聞こえてくるが、それがかえって僕の孤独感を際立たせているような気がした。
画面に表示されているのは、大学周辺や沿線のアルバイト求人サイトだ。
上京して1ヶ月。なんとか一人暮らしのペースは掴めてきたものの、口座の残高は順調かつ確実に減り続けている。両親からの仕送りは家賃と最低限の生活費で消えてしまうため、サークルに入らなくとも、交際費や専門書の購入費などを考えると心許ない。本格的に授業の課題が忙しくなる前に、何か安定した収入源を見つけなければと考えていたところだった。
しかし、いざ求人を眺めてみても、僕の重い腰を上げさせてくれるような魅力的な仕事は一つもなかった。
『オシャレなカフェで楽しく働こう! まかない付き☆ 未経験大歓迎!』
そんな明るいキャッチコピーと共に、男女の大学生たちが眩しい笑顔でピースサインを作っている写真が目に飛び込んでくる。
「……絶対無理だ」
僕は秒でそのページを閉じた。
あんな陽気な集団の中に放り込まれたら、僕は初日で呼吸困難になって倒れる自信がある。そもそも、僕は愛想笑いというものが致命的に苦手なのだ。高校時代もずっと仏頂面で単語帳と睨めっこしていた僕が、「いらっしゃいませ!」と満面の笑みで接客している姿など、想像しただけで鳥肌が立つ。接客業は、僕の選択肢から真っ先に除外された。
かといって、コンビニやスーパーのレジ打ちも気が進まない。覚えることが山ほどある上に、理不尽なクレーム対応までしなければならないとネットの体験談に書いてあった。
塾講師は時給が良いらしいが、生徒の成績に責任を持つプレッシャーや、授業の準備などの時間外労働が多いという噂を聞く。
情報系の学生らしく、プログラミングやシステム開発のアルバイトを探してみたものの、大学に入ったばかりの1年生を雇ってくれるような甘い企業はどこにもない。求められるのは「実務経験あり」か「即戦力」のスキルばかりだ。
「……結局、俺にできることなんて何もないんじゃないか」
重いため息をつきながら、スマホをベッドに放り投げる。
天井の木目調の模様をぼんやりと見つめていると、不意に、昼間の出来事が脳裏に蘇ってきた。
激しい通り雨。
小さな折り畳み傘の下。
僕の左腕にピタリと触れていた、咲良の肩の感触と、甘いシャンプーの香り。
PCを死守するために右半身をずぶ濡れにしながらも、その距離の近さに心臓が破裂しそうだったあの数分間。
「……ダメだ、思い出すな」
僕は両手で顔を覆い、首を横に振った。
彼女が僕に見せる無防備な笑顔は、あくまで「地元の気の置けない友達」に向けられたものだ。そこに恋愛感情なんて欠片もないことは、僕自身が一番よく分かっている。
一人で勝手に意識して、一人で勝手に傷つくのは、高校時代の3年間でもう十分だった。今はとにかく、現実的な生活基盤を整えることの方が先決だ。
再びスマホに手を伸ばし、別の求人サイトを開こうとした、その時だった。
画面の上部から、ポンッと緑色のバナーが降りてきた。
『LIME』の通知だ。
表示された名前に、僕の指がピタリと止まる。
『春斗くん、風邪ひいてない? 今日は本当にありがとう!』
メッセージと共に、ウサギがぺこりと頭を下げているゆるいスタンプが送られてきた。
ついさっきまで「思い出すな」と自分に言い聞かせていたばかりなのに、彼女の名前を見ただけで、口元が勝手に緩んでしまう。自分がどれだけ彼女に依存しているかを見せつけられているようで、少しだけ情けなくなった。
『全然平気。咲良も濡れなくてよかった』
『ほんとにごめんね。今度絶対、学食のデザート奢る!』
『別にいいよ。それより、明日からついにGWだな』
僕が話題を変えると、すぐに既読がつき、数秒後には返信が飛んできた。
『うん! ねぇねぇ、春斗くんはGWどうするの? 亀鈴に帰省する?』
その文字を見て、僕は少しだけ考え込んだ。
亀鈴市――僕の地元。自転車でどこへでも行けた、あの狭くて息苦しかった街。
そこに帰れば、大樹や健翔といったいつものバレー部の連中と会える。母親の作る温かいご飯も食べられるだろう。
けれど、上京してたった1ヶ月で帰省するのは、なんだか東京という街での戦いから逃げ出しているような気がして嫌だった。それに、何より今の僕にはお金がない。
『いや、引っ越したばっかりでお金もないし、新幹線混んでそうだから帰らないよ。東京に残って、そろそろバイト探そうかと思ってる』
『でも自分にできそうな求人が全然なくて、さっそく行き詰まってたところ』
あまり重くならない程度に、少しだけ現状の愚痴をこぼすメッセージを送信した。
直後、いつもならすぐに「既読」の文字がつくはずの画面が、静かになった。
1分、2分と経過しても、返信はない。
「あれ、余計なこと言ったかな……」
バイト探しで悩んでいるなんて、女子大生にとっては退屈な話題だったかもしれない。既読無視をされるのは慣れているはずなのに、大学に入ってから日常的にやり取りをするようになっていたせいで、少しの空白時間がひどく不安に感じられた。
5分後。
僕がスマホをベッドの脇に置こうとした瞬間、ブブッと短い振動が手のひらを震わせた。
『そっか。じゃあさ、もしよかったらなんだけど』
『GW、どこか一緒に出かけない? 私が春斗くんに、東京案内してあげる!』
……東京案内。
一緒に出かけない?
僕は、送られてきたその2つの吹き出しを、食い入るように見つめた。
瞬きをするのも忘れて、文字の羅列がゲシュタルト崩壊を起こすほど、何度も何度も読み返した。
ドクン、ドクンと、耳の奥で自分の心拍音が響いている。
僕はガバッとベッドから身を起こし、暗い部屋の中で一人、スマホを両手で強く握りしめた。
客観的に見れば、これはどういう状況だ?
男女二人きりの「お出かけ」。休日に、わざわざ待ち合わせをして、一緒に街を歩く。
世間一般では、それを『デート』と呼ぶのではないのか。
「い、いや、落ち着け、俺……」
声が震えていた。
相手はあの咲良だ。深い意味なんてあるはずがない。
「地元の友達が東京に一人で残って暇そうにしているから、せっかくだし遊んであげよう」
それくらいの、優しくて残酷な、軽いノリに決まっている。彼女の提案の根底にあるのは、間違いなく親切心だ。ここで僕が「これってデートの誘い!?」などと深読みして舞い上がったら、それこそ自意識過剰の痛い奴の極みだ。
けれど、指先はじんわりと汗をかいていた。
高校時代、400キロも離れた場所から、ただ画面越しの彼女の写真に「いいね」を押すことしかできなかった僕が。
今、彼女の方から「一緒に出かけよう」と誘われているのだ。
断る理由なんて、この宇宙のどこを探しても存在しなかった。
接客業のバイトへの恐怖も、口座残高の不安も、この瞬間だけは完全に頭から消え去っていた。
『行く。バイト探しはGW明けからにするわ』
心臓のバクバクを悟られないよう、極めて事務的に、二つ返事で了承のメッセージを送る。親指が少しだけ震えた。
『やったー! じゃあどこ行こうか? せっかくの東京案内だから、春斗くんが行きたいところに行こうよ!』
『私、東京長いけど、実はあんまり観光地っぽいところ行ったことないんだよね 笑』
画面の向こうで、彼女が無邪気に喜んでいる姿が目に浮かぶ。
僕の胸の奥で、嬉しさと、ほんの少しの恐れが入り混じった感情が渦を巻いていた。
一緒に大学のキャンパスを歩き、学食でオムライスを食べるのとは違う。短い雨の間に相合傘をするのとも違う。
休日に、私服で、二人きりで丸一日街を歩くのだ。
隣を歩く30センチの距離が、今度こそ、僕の理性を完全に焼き切ってしまうかもしれない。
『俺も東京の地理全然わかんないから、ちょっと調べてみる』
『うん! 決まったら教えてー! 楽しみにしてるね』
そこでトークは途切れた。
部屋の中は再び静寂に包まれたが、僕の体温は先ほどとは比べ物にならないほど上昇していた。
「……さて、どこに行くかだな」
僕はアルバイトの求人サイトのタブを迷わず閉じ、ブラウザの検索窓をタップした。
『東京 観光 おすすめ』
そう入力しようとして、指が止まる。
観光、という単語がどうもしっくりこない。僕たちは修学旅行生ではないのだ。もう少しこう、大学生らしい、落ち着いていて、かつ楽しめる場所。
無意識のうちに、僕の指は別の単語を打ち込んでいた。
『東京 大学生 デート』
検索ボタンを押した直後、ずらりと並んだ「カップル向け!」「初デートの必勝スポット!」という華やかな見出しの数々に、僕はカァッと顔を赤くした。
「……バカか、俺は」
誰も見ていない部屋の中で一人、恥ずかしさに身悶えしながら、僕は画面をスクロールし続けた。
カレンダーは、明日から鮮やかな赤い祝日マークに染まっている。
僕の3度目の初恋が、いよいよ本格的に、取り返しのつかない速度で動き出そうとしていた。
ついに二人でのお出かけが叶うことに•••!
いったい春斗はどこをお出かけ先に選ぶのでしょうか?
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