地下迷宮の焦燥と、海へ向かう特等席
5月3日。ゴールデンウィーク後半戦の初日。
雲一つない青空が広がる初夏の朝、僕はアパートの姿見の前で、三度目のため息をついていた。
「……やっぱり、無難すぎるか?」
鏡に映っているのは、白のオックスフォードシャツに、細身の黒いチノパンを合わせた自分の姿だ。
上京する時、母親に「東京の子に笑われないようにね」と持たされた、手持ちの中で一番まともな服。清潔感だけは意識したつもりだが、どう見ても面白みがない。亀鈴市ならこれで「ちょっと小綺麗な大学生」として通用したかもしれないが、ここは花の都・東京だ。
『東京 大学生 デート 服装』
昨夜、血眼になって検索したサイトには「少しの抜け感が大事」「レイヤードで差をつける」などと呪文のような言葉が並んでいたが、当然ながら僕の貧弱なクローゼットでそんな高度な真似ができるはずもなかった。
時計を見ると、約束の時間の1時間前。今から服を買いに行く時間などない。
「……仕方ない、これでいくしかない」
僕は諦めて財布とスマホをポケットに突っ込み、部屋を出た。
咲良との待ち合わせは、午前10時の新宿駅南口。
お互いの家から電車でアクセスしやすい、巨大ターミナル駅だ。
電車に揺られながら、心臓はずっと早鐘を打っていた。大学のキャンパスで会うのとはわけが違う。今日は正真正銘、休日を一日使って二人きりで過ごすのだ。
しかし、僕のその甘酸っぱい緊張感は、新宿駅のホームに降り立った瞬間に、絶望的な焦燥感へと塗り替えられることになった。
「な、なんだこれ……っ!」
午前9時半。
電車のドアが開いた瞬間、僕は目の前に広がる光景に息を呑んだ。
人、人、人。キャリーケースを引く旅行客、手を繋いで歩くカップル、待ち合わせの相手を探してキョロキョロしている若者たち。ホームから階段に至るまで、足の踏み場もないほどの群衆がうねりを上げている。GWの東京の人口密度は、地方出身者の僕のキャパシティを優に超えていた。
「えっと、南口、南口……」
頭上の案内板を探し、黄色い看板の『南口』という矢印に従って階段を上る。
しかし、それが地獄の始まりだった。
人の波に流されるまま歩いているうちに、いつの間にか『東口』や『中央西改札』という全く違う看板が頭上に現れる。慌てて引き返そうにも、後ろから次々と人が押し寄せてきて立ち止まることすら許されない。
複雑怪奇な地下迷宮。
少しでも気を抜けば、一生外に出られないのではないかと錯覚するほどの閉塞感。
冷房が効いているはずの駅構内なのに、焦りと人の熱気で背中にじっとりと嫌な汗をかいていく。時計の針は容赦なく進み、9時45分を回っていた。
(嘘だろ、初デート……じゃなかった、最初のお出かけで遅刻とか、一番やっちゃダメなやつだろ!)
スマホのマップアプリを開いても、自分が地下のどの階層にいるのかGPSが狂ってしまって全く役に立たない。
息が上がり、せっかく整えた髪も少し崩れてきた。周囲の喧騒が耳鳴りのように響く。
このまま薄暗い地下を永遠に彷徨い続けるのか。
焦燥感で心臓が破裂しそうになった、その時だった。
『南口』と書かれた、少し幅の広い階段が奇跡的に目の前に現れた。
僕は藁にもすがる思いで、人混みを縫うようにしてその階段を駆け上がった。
改札の機械を抜け、厚いコンクリートの屋根の下を早歩きで通り抜ける。
その瞬間。
「……っ」
視界が、白く飛んだ。
地下の薄暗さと息苦しい喧騒から抜け出した僕を待っていたのは、網膜を焼くような、圧倒的に眩しい初夏の太陽だった。
雲一つない、抜けるような快晴の空。
新宿駅南口の広大なデッキに吹き抜ける風が、僕の汗ばんだ前髪を心地よく揺らした。
大きく息を吸い込む。
時刻は、午前9時55分。なんとか約束の5分前に辿り着くことができた。
スマホを取り出し、到着した旨を伝えようとした、その時だ。
「春斗くん!」
人の波を縫うようにして、よく通る澄んだ声が僕の名前を呼んだ。
顔を上げると、眩しい陽光の向こう側から、小走りで向かってくる彼女の姿があった。
「ごめんね、私の方が少し遅くなっちゃった!」
目の前に立ち止まり、息を弾ませて笑う咲良を見て、僕は完全に思考を停止した。
淡いベージュの春物のスプリングコートに、歩くたびにふわりと揺れるシフォンのスカート。華奢な肩には小さなショルダーバッグがかかっている。
背後から降り注ぐ太陽の光が、彼女の少し茶色がかった柔らかい髪を透かし、まるで光の輪を被っているようにキラキラと輝かせていた。
薄暗い地下で泥臭く彷徨っていた僕の前に現れた、圧倒的な「光」。
大学で見かける少し真面目な雰囲気とは全く違う、休日の、無防備で、どうしようもなく可愛い彼女がそこにいた。
「……いや、俺も今来たとこだから」
迷子になって汗だくだったことなど微塵も悟られないよう、僕は必死に呼吸を整えて平然を装った。
「ほんと? よかったぁ。新宿って人多すぎて、ちょっと歩くだけでも疲れちゃうね」
「そうだな。……その、服、似合ってる」
気がつけば、無意識のうちにそんな言葉が口を突いて出ていた。
言ってからハッとして顔を熱くする僕に対し、咲良は少しだけ目を丸くし、それから花が綻ぶように嬉しそうに笑った。
「ほんと? よかった。春斗くん、そういうこと言ってくれるようになったんだね。なんだか大人になったみたい」
「……うるさい。いいから、行くぞ。今日の行き先は、お台場だ」
これ以上顔を見ていると火を噴きそうだったので、僕は足早に歩き出そうとした。
「一応調べてきたんだけど、まずは山手線で新橋まで出て――」
「うん、そこから『ゆりかもめ』だね! すっごく楽しみ!」
「あ、ああ。そうだな」
僕がスマホの乗り換え案内を見せようとするより早く、咲良は迷いのない足取りで改札の方へと向き直った。
「山手線のホームはこっちだよ。春斗くん、はぐれないようについてきてね!」
彼女は振り返り、人混みを縫うようにして軽やかに歩き出す。
その背中を見て、僕はハッとした。
そうだ。彼女は小6の夏に引っ越してきてから、もう6年も東京に住んでいるのだ。さっきまで駅の地下で半泣きになって彷徨っていた僕とは違う。彼女はすっかり、この巨大な街に馴染んだ「東京の女の子」になっていたのだ。
頼もしいような、少しだけ寂しいような不思議な感情を抱えながら、僕は彼女の背中を見失わないように必死で後を追った。
山手線に揺られること約30分。
新橋駅でゆりかもめに乗り換える頃には、車内は観光客でかなりの混雑を見せていた。
咲良のスマートな先導のおかげで、僕たちは運良く、進行方向の左側、海が見渡せる大きな窓ガラスの前のスペースを確保することができた。
「わあ……春斗くん、見て!」
電車が高架を走り出し、ビル群を抜けて東京湾の視界が開けた瞬間。
咲良が弾んだ声を上げ、窓ガラスにへばりつくようにして身を乗り出した。
レインボーブリッジの巨大な構造物の向こうに、キラキラと太陽の光を反射する青い海が広がっている。
亀鈴市の海とは違う、高層ビル群と海が融合した、いかにも東京らしいフューチャリスティックな絶景だ。
「すごい綺麗……! 海、キラキラしてる!」
咲良は子供のように目を輝かせながら、窓ガラスを指差している。
普段の移動は彼女の方がずっとスムーズだけれど、こうして観光地らしい景色を前にすると、やっぱり彼女も普通の女の子と同じように無邪気にはしゃいでくれる。
その横顔を、僕はすぐ隣で見つめていた。
彼女が窓に顔を近づけているせいで、僕たちの距離は30センチから、ほんの数センチまで縮まっていた。
揺れる車内でバランスを崩さないよう、僕は窓枠の上部を手で掴み、彼女の背中を守るような体勢になっている。
彼女の柔らかい髪から漂う甘い香りが、潮風の匂いを打ち消して僕の鼻腔をくすぐる。
「……そうだな。綺麗だ」
海なんて、全く見ていなかった。
景色に夢中になっている彼女の、楽しそうな横顔ばかりを見ていた。
(お台場にして、正解だったな……)
心の中で密かにガッツポーズをする。
僕の下調べと選択は、間違っていなかったのだ。彼女がこんなにも喜んでくれるなら、昨夜の数時間をネットの検索に費やした甲斐があったというものだ。
「次は、お台場海浜公園〜」
無機質な車内アナウンスが流れ、電車がゆっくりとカーブを描きながら海上を渡っていく。
窓の向こうには、巨大な観覧車や、個性的な形をしたテレビ局の社屋、そして巨大なショッピングモール群が待ち構えていた。
「春斗くん、着いたらまずは海の方、歩いてみない? 砂浜があるんだよね?」
「ああ。その後は適当にぶらぶらして昼飯にしよう」
「賛成! なんだか旅行に来たみたいで、すっごく楽しいね!」
咲良が振り返り、僕を見上げて極上の笑顔を見せる。
その笑顔の破壊力に、僕は「ああ」と短く返すのが精一杯だった。
改札を抜け、海風が吹き抜けるデッキへと降り立つ。
初夏の強い日差しと、広大な空。
狭くて息苦しかった地元の街からも、プレッシャーに押し潰されそうだった大学のキャンパスからも遠く離れた、非日常の空間。
「さあ、東京案内、スタートだよ!」
僕の3度目の初恋は、この広大な青空の下で、いよいよ後戻りできない場所へと足を踏み入れようとしていた。
新宿駅に限らずですが,田舎者にとってターミナル駅とはRPGゲームの高難度ダンジョンを遥かに超える迷宮なんですよね...
去年学会で新宿駅を利用した時にとんでもないなと思った記憶です笑.




