真っ直ぐな視線と、踏み出せない境界線
駅のデッキを抜け、階段を降りると、視界が一気に開けた。
お台場海浜公園。
東京湾に面して作られた、約八百メートルにわたって続く白い砂浜だ。
水辺には波と戯れる子供たちや、レジャーシートを広げてピクニックを楽しむ家族連れの姿が多く見られた。ゴールデンウィーク後半戦の初日だけあって、そこそこの賑わいを見せている。
「うわぁ、本当に砂浜だ! 潮の匂いがする!」
咲良はヒールのあるパンプスを履いていたが、砂浜に足を踏み入れるなり、弾むような足取りで波打ち際へと向かっていった。
「おい、あんまり海に近づくと靴が濡れるぞ。それに、ヒールだと砂浜は歩きにくくないか?」
「大丈夫大丈夫! ちゃんと気をつけてるから。あー、なんかすごく気持ちいい! 春斗くんも早くおいでよ!」
彼女は振り返り、両手を広げて僕を呼ぶ。
初夏の強い日差しが、白い砂浜に反射して彼女を眩しく照らしていた。
僕は苦笑しながら、少しだけ歩幅を広げて彼女の隣へと並んだ。
隣に並んで、ふと気がつく。
元々女の子にしては背が高い方である彼女が、今日のようなヒールのパンプスを履くと、僕とほとんど目線の高さが変わらなくなるのだ。
僕自身、男の中ではそれなりに背が高い部類に入るはずなのに、こうして真正面から向き合うと、互いの視線が真っ直ぐに交差する。上目遣いで甘えられるのとは違う、対等で、誤魔化しが利かない距離感。真っ直ぐに見つめ返されると、どこか心を見透かされているようでドキリとさせられる。
「どうしたの、春斗くん? 私の顔に何か付いてる?」
「えっ、いや! 何でもない」
僕は慌てて視線を逸らし、目の前の海へと顔を向けた。
ザザーッ、と規則的な波の音が響く。海風が、少しだけ熱を持った僕の頬を心地よく撫でていった。
「海なんて、本当に久しぶり。亀鈴にいた頃は、夏になると家族でよく行ってたけど」
「俺もかも。部活の砂浜ダッシュの地獄の思い出しかないけどな」
「あはは、バレー部だったもんね。……懐かしいな」
咲良は目を細め、静かに打ち寄せる波を見つめた。
僕も彼女の視線の先を追う。
目の前に広がる海は、亀鈴市で見ていた荒々しい海とは少し違っていた。
波はとても穏やかで、対岸には巨大なビル群やレインボーブリッジが聳え立っている。ここは、東京という巨大な都市の片隅に、人間の手によって作られた「人工の砂浜」だ。
奥行きもそれほどなく、少し歩けばすぐにコンクリートの遊歩道にぶつかってしまう、とても狭くて安全な箱庭のような場所。
(……なんか、今の俺たちみたいだな)
ふと、そんなことを思った。
僕と咲良は今、この狭い砂浜に並んで立っている。
「地元の気の置けない友達」という、安全で心地よい関係。そこには明確な境界線があり、一歩でも踏み出せば、今のこの温かい空気は一瞬で崩れ去ってしまうかもしれない。
だから僕は、この箱庭の中で、彼女の隣にいるだけで満足しなければならない。
けれど。
僕の視線は、狭い砂浜の向こう側に広がる、果てしなく広い海へと向かっていた。
境界線の向こう側には、まだ見たことのない世界が広がっている。
もし、僕がこの安全な関係を壊して、「恋人」として彼女の隣に立つことができたら。
この広い海の向こう側へ、彼女と一緒に泳ぎ出すことができたなら。
「ねえ、あっちの方まで歩いてみようよ。なんか貝殻とか落ちてるかな?」
僕の密かな葛藤など知る由もなく、咲良は軽やかな足取りで波打ち際を歩き始めた。
僕はその後を、一定の距離を保ちながらついていく。
肩と肩の距離は、およそ30センチ。
大学のキャンパスを歩いている時と全く同じ、安全な距離だ。
彼女は時折しゃがみ込んでは、白くて丸い石や、小さなガラスの破片を拾い上げ、「見て見て!」と僕に見せてくる。
「春斗くんも何か探してよ」
「俺はいいよ。そういうの、センスないし」
「もう、付き合い悪いなあ。……あ、あれ!」
不意に、咲良が数メートル先を指差した。
そこには、少し大きめの、綺麗な桜色の二枚貝が落ちていた。人工の砂浜には珍しい、立派な貝殻だ。
「すごい、あんなに綺麗な貝殻落ちてる! 私、取ってくる!」
咲良は小走りでその貝殻に向かっていった。
しかし、波打ち際ギリギリだったため、彼女が屈み込んだ瞬間、少し大きめの波がザバーッと押し寄せてきた。
「あっ……!」
咲良が短い悲鳴を上げる。
「危ない!」
僕は反射的に手を伸ばし、彼女の腕をぐっと手前に引き寄せた。
パンプスの踵が砂に取られ、彼女の体がふらりと僕の方へ傾く。
「……っ」
至近距離。
ヒールのおかげでほとんど同じ高さにある彼女の瞳が、驚いたように大きく見開かれ、僕の視線と真っ直ぐにぶつかり合った。
甘いシャンプーの香りが、潮風を上書きして僕の鼻腔をくすぐる。
シャツ越しに掴んだ彼女の腕は、折れてしまいそうなくらい細かった。
波は彼女のつま先の数センチ手前で弾け、白い泡となって引いていく。
「……濡れるところだったな」
「う、うん。……びっくりした」
我に返り、僕は慌てて手を離した。
咲良は少しだけ瞬きを繰り返し、それから、照れ隠しのようにふわりと微笑んだ。
「ありがとう、春斗くん。助かった」
その言葉と笑顔に、僕は喉の奥が熱くなるのを感じた。
彼女は、僕が強く触れたことに対して、全く嫌がる素振りを見せなかった。むしろ、ほんの少しだけ、頬が朱に染まっていたように見えたのは気のせいだろうか。
僕の手のひらには、彼女の体温の余韻が、火傷のように熱く残っている。
人工の砂浜と、広大な海。
安全な友達という境界線。
それを越えたいと願う、どうしようもない焦燥感。
波の音に混じって、僕の3度目の初恋は、少しずつ、けれど確実に熱を帯び始めていた。




