通知音と、オムライス
劇的な再会をしたあの日から1週間。ゴールデンウィーク前最後の日のこと。
僕のスマートフォンは、以前とは全く違う意味を持つデバイスへと変貌していた。
大学の講義が終わるチャイムが鳴り、リュックにノートパソコンを突っ込んでいると、ポケットの中でスマホが短く震えた。
『LIME』の通知音だ。
『2限終わったー! 民法さっぱりわかんない(泣)』
『春斗くん、今日のお昼どうする? 学食?』
画面に表示されたメッセージに添えられているのは、ウサギが白旗を振っているゆるいスタンプ。
4月の終わり、あのカフェで再会した日の別れ際。
「MomentoのDMだと、他の通知に埋もれちゃって気づかないことあるから、こっちも交換しよ? 私、スタンプ使いたいし」
という彼女の合理的なのか適当なのか分からない提案によって、僕たちは『LIME』を交換した。それ以来、僕たちの間にはこうした他愛のないやり取りが「日常」として定着しつつあった。
『お疲れ。俺も今終わったところ。学食行くけど、混んでるかも』
『席取り競争だ! 2階のオムライスのとこで集合ね!』
画面越しのやり取りだけで、彼女が小走りで講義室を飛び出していく姿が目に浮かぶ。
自然と緩みそうになる口元を片手で隠していると、横から肘で小突かれた。
「おい一ノ瀬、また例の友達か?」
「だらしねぇ顔してんなー。いいからさっさと行けよ」
隣の席でノートを片付けていた、同じ情報系学部の古屋蓮と松本拓海が、ニヤニヤしながら僕を冷やかした。入学してすぐのガイダンスで席が近くになり、なんとなく一緒に講義を受けるようになった気の良い連中だ。
「別にだらしない顔なんてしてないだろ」
「してるしてる。俺らと飯食う時とテンション違いすぎんだよ」
「俺らはお呼びじゃないってことだろ。ほら、オムライス冷める前にさっさと行け」
笑いながら手をヒラヒラと振る古屋と松本を後に残し、僕は「うるさい」とだけ返して講義室を足早に飛び出した。
昼休みの巨大な学食は、戦場だ。
数千人の学生が一斉に押し寄せ、食券機の周りには長蛇の列ができている。人の熱気と、揚げ物やカレーの匂いが入り混じる喧騒の中、僕は2階の隅にあるオムライスの提供口へと向かった。
「あ、春斗くん! こっちこっち!」
人混みの中でも、彼女の声は不思議なほどよく通る。
列の少し前の方で、咲良が小さく手を振っていた。
今日は淡いブルーのブラウスに、白いふんわりとしたスカート。法学部のキャンパスを歩いていても全く違和感のない、すっかり洗練された「東京の女子大生」の姿だ。
なのに、僕を見つけて無邪気に手を振るその仕草だけは、昔から何も変わっていない。
「ごめん、待たせた?」
「ううん、私も今来たとこ」
並んでメニュー表を眺めている時、僕はふと気になっていたことを口にした。
「そういえば、咲良は大学の友達とご飯食べなくていいのか? いっつも俺と一緒だけど、向こうで浮いたりしてないか心配なんだけど」
すると咲良は少し目を丸くして、フフッと笑った。
「大丈夫だよ。ちゃんと友達できたもん。ただ、あの子たちお昼は大学の外のおしゃれなカフェとか行っちゃうから、学食派の私には春斗くんが一番誘いやすいの」
なるほど、と納得しかけた僕に、今度は咲良が上目遣いで首を傾げた。
「逆に、春斗くんこそ大丈夫なの? 私ばっかり誘っちゃって、孤立しちゃってたらどうしようって、たまに思うんだけど」
その「私ばっかり誘っちゃって」という言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。誘ってくれて一番喜んでいるのは僕の方なのに。
「気にしなくていいよ。こっちの友達は、俺が学食行くって言ったら『だらしねえ顔しやがって』って追い出されてきたとこだ」
「なにそれ! ふふっ、仲良しじゃん」
咲良は嬉しそうに笑うと、食堂の係りの人に注文を告げた。
「じゃあお言葉に甘えて。春斗くん、デミグラス? ケチャップ?」
「俺はデミグラスで」
「じゃあ私ケチャップにする! 一口交換しよ」
さらりと爆弾のような発言を落とし、彼女は食券を受け取った。
一口交換。
その言葉の破壊力に、僕の脳内は一瞬フリーズした。だが、彼女にとっては同性の友人とするような、ごく自然なコミュニケーションの一つに過ぎないのだろう。ここで動揺を見せれば、自意識過剰な奴だと思われるだけだ。
「……お、おう。分かった」
必死に平静を装いながら、僕はオムライスのトレイを受け取った。
運良く窓際のカウンター席を二つ確保し、横並びに座る。
「はぁ〜、疲れたぁ。大学って、もっと遊べる場所かと思ってたのに」
咲良はスプーンを持ちながら、大きくため息をついた。
「咲良が法学部選んだんだろ。六法全書とか持ち歩いてるの、正直すげーと思うよ」
「全然すごくないよ! 呪文にしか見えないもん。春斗くんのプログラミング? ってやつも、私から見たら宇宙語だけど」
「まあ、どっちも似たようなもんだな」
隣から、彼女の使っている甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
肩と肩の距離は、ほんの30センチほど。
少し体を傾ければ、簡単に触れてしまう距離だ。
亀鈴市にいた頃、遠く離れた場所から焦がれるように見つめていた相手が、今、僕のすぐ隣でオムライスを頬張っている。
『美味しいね』と、無防備な笑顔を向けてくる。
これは奇跡なんじゃないかと思う反面、この「近さ」が僕に新たな戸惑いをもたらしていた。
「ねえ、あそこのサークル、面白そうじゃない?」
窓の外、中庭でビラ配りをしているテニスサークルの集団を指差して、咲良が身を乗り出した。
その瞬間、彼女の肩が、僕の二の腕に軽く触れた。
ビクッ、と僕の体が硬直する。
しかし、咲良は全く気にする素振りもなく、「でもテニスなんて体育の授業でしかやったことないしなぁ」と楽しげに喋り続けている。
彼女にとって、僕は「気の置けない地元の同級生」なのだ。
東京という見知らぬ巨大な街で再会した、安心できる存在。だからこそ、こんなにも無防備に距離を詰めてくるし、遠慮のない言葉も投げてくる。
それは嬉しいことだ。
けれど、同時に残酷でもある。
小6の時、僕の「好き」という気持ちはクラス中にバレていた。彼女も確実に知っていたはずだ。
だからこそ、彼女はこの心地よい関係を壊さないように、無意識に僕を「恋愛対象」から外して、安全な「友達の枠」に置いているのではないか。
この30センチの距離は、物理的には限りなく近いようでいて、心理的には絶対に越えられない分厚いガラスの壁があるような気がした。
「……春斗くん? どうしたの、顔赤いよ?」
「えっ、いや! 学食の中、ちょっと暑いなと思って!」
「そう? 私はちょうどいいけどなー」
首を傾げる咲良の横顔を見つめながら、僕はオムライスを無言で口に運んだ。
デミグラスソースの味は、動揺のせいで全く分からなかった。
縮まったはずの距離がもたらす、新しい息苦しさ。
『3度目の初恋』は、そう簡単には僕を甘やかしてくれそうになかった。




