4月尽のキャンパスと、突然の君
東京の桜は、あっという間に散ってしまった。
4月上旬。
都内の巨大なホールで行われた全学共通の入学式は、新入生の黒いスーツの波で埋め尽くされていた。
数千人、あるいは数万人を超えるかもしれない同年代の群れ。僕は背伸びをして、左右を見渡し、法学部のプラカードの周辺を必死に目で追った。
しかし、結果は絶望的だった。顔の半分をマスクで覆った似たようなスーツ姿の集団の中から、たった一人の女の子を見つけ出すことなど、物理的に不可能だったのだ。
それからの数週間、僕は狂ったようにキャンパス内を歩き回った。
学部ごとのガイダンス、生協の食堂、図書館のロビー。
新歓期特有の、サークルのビラ配りでごった返すメインストリート。彼女が興味を持ちそうな、写真サークルや国際交流会、ボランティアサークルのブースまで顔を出してみた。
陽気な先輩たちに囲まれ、山のようなビラを押し付けられながら、僕はただひたすらに「少し茶色がかった柔らかい髪」を探し続けた。
毎日、朝起きるたびに「今日こそは」と祈りながら大学に通った。
講義の合間も、わざわざ遠回りのルートを選んで移動し、すれ違う女子学生の顔を一人一人確認した。目を皿のようにして探し続けたせいで、夜には眼球がひどく痛み、頭痛がするほどだった。
けれど、全て空振りだった。
4月も終わりかけ、キャンパスの木々が鮮やかな新緑に変わる頃。
僕は、東京という街と、この巨大なマンモス大学の「無慈悲な広さ」を前に、完全に打ちのめされていた。
『同じ大学にいれば、いつか自然に会える』
そんなのは、地方の狭いコミュニティでしか通用しない幻想だったのだ。
キャンパスの端から端まで歩くのに15分もかかるこの場所で、学部も違う二人が偶然すれ違う確率なんて、砂浜から一粒の砂金を探すようなものだ。
同じ東京にいるのに。同じ大学の敷地内にいるはずなのに。
僕たちは、亀鈴市と東京で400キロ離れていた高校時代よりも、ずっとずっと遠く離れてしまったような気がした。僕の必死な想いは、この広い都会の空気に溶けて消えていく。
息が詰まるような絶望感に、足元が崩れ落ちそうだった。
ゴールデンウィークを目前に控えた、金曜日の昼下がり。
僕は、人通りの少ない一般教養棟の裏にあるベンチで、一人、コンビニのパンを齧っていた。
春の陽気は暖かかったが、僕の心は冷え切っていた。
このままじゃ、4年間一度も会えないまま終わるかもしれない。
焦りと諦めが入り混じる中、僕はスマホを取り出し、『Momento』を開いた。
DMの画面には、僕が3月の終わりに送った『春から、そっちに行くことになった』というメッセージと、彼女からの『東京へようこそ! お互い大学生活がんばろうね!』という当たり障りのない返信が残っている。
キーボードを立ち上げ、文字を打ち込む。
『実は、同じ大学なんだ。ずっと探してたんだけど会えなくて……もしよかったら、少しだけ会えないかな』
そこまで打って、大きく息を吐いた。
今更、重すぎるだろうか。ストーカーみたいに思われたらどうしよう。同じ大学だと知って、引かれないだろうか。
送信ボタンの上で、親指が迷子のように震える。
ダメだ。押せない。
「……はぁ」
深くため息をつき、僕は入力した文字をバックスペースで全て消去した。
結局、僕はいつまで経っても臆病なままだ。
パンの残りを口に放り込み、立ち上がってズボンのポケットにスマホを突っ込む。
もう諦めよう。次の講義の教室へ向かおうと、ベンチの横の短い階段を降りようとした、その時だった。
「あれ……春斗くん?」
背後から、ふわりと春風のような声がした。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
幻聴かと思った。あまりにもその声ばかりを探し求めていたから、ついに脳がバグを起こしたのだと。
僕は、錆びついた機械のように、ゆっくりと首だけを後ろへ向けた。
そこには、法学部のテキストらしき分厚い本を胸に抱えた、一人の女子学生が立っていた。
少し茶色がかった柔らかい髪。
春の陽射しを纏ったような、ゆるふわっとした雰囲気。
洗練された薄手の春物の私服を着て、小6の時よりもずっと大人びているけれど、そのおっとりとした瞳と、どこか抜けたような不思議な空気感は、間違いなく僕の記憶の中にある「彼女」のものだった。
「え……咲良……?」
声が掠れた。信じられないものを見るように、僕は彼女を見つめ返した。
「やっぱり! 春斗くんだ! え、どうしたの? 遊びに来たの?」
「……遊びにって」
「だって春斗くん、東京の大学に行くって言ってたけど……えっ、もしかして」
咲良はパチパチと瞬きをして、それから、まるでパズルが解けた子供のように、パッと顔を輝かせた。
「春斗くんもこの大学なの!?」
天然だ。相変わらず、僕の思考のずっと斜め上を行く。
これだけ広くて学生数の多いキャンパスで、他大学の学生がふらりと遊びに来ていると普通思うだろうか。
でも、その屈託のない、純粋に驚いて喜んでいる笑顔を見た瞬間。
この1ヶ月間の息が詰まるような絶望も、東京へのコンプレックスも、先回りされていた劣等感も、全てがどうでもよくなった。
彼女のその「ゆるふわっとした雰囲気」が、僕の中にあった重くて暗い感情を、一瞬で優しく溶かしてくれたのだ。
「……うん。実を言うと、ここの情報系の学部に受かって」
「ええーっ! すごい! じゃあ私たち、同じ大学なんだね!」
咲良は小走りで階段を数段降りて、僕の目の前までやってきた。
フワリと、シャンプーか香水のような、甘くて清潔な香りがした。
物理的な距離、わずか50センチ。
6インチのスマホ画面越しに、400キロ離れた場所からずっと眺めていた彼女が、今、手を伸ばせば届く距離で、僕を見上げて笑っている。
「全然知らなかったよ〜。言ってくれればよかったのに! 私服の春斗くん見るの、小学校の時以来だね。なんだか、ちょっと大人っぽくなったかも」
「咲良こそ……全然変わってないようで、変わったよ」
「えー? どっち? 笑」
小3の春、教室のドアが開いた瞬間に落ちた、2度目の恋。
それから10年。
木漏れ日が揺れる4月末のキャンパスで、僕は彼女の笑顔を前にして、またしても雷に打たれたように恋に落ちていた。
3度目の、初恋だった。
止まっていた時計の針が、今度こそ、確かな音を立てて動き始めた。




