段ボールの匂いと、半年ぶりのログイン
2月下旬。
ノートパソコンの画面に表示された『合格』の二文字を前に、僕はただ呆然としていた。
歓喜の叫びを上げるわけでもなく、ガッツポーズをするわけでもない。ただ全身の力が抜け落ちるような、深い、深すぎる安堵だった。
あれほど必死に追い求めた結果だったはずなのに、僕を待っていたのは「喜びに浸る時間」ではなく、東京へ向かうための怒涛の準備と、別れの連続だった。
3月中旬。
亀鈴市の小さなローカル線の駅のホームで、僕は高校の友人たちと向かい合っていた。
「一ノ瀬、お前マジで東京行っちゃうんだな」
ずっと同じバレー部だった大樹が、缶コーヒーを片手に少し寂しそうに笑った。
大樹は春から、愛知県内の中京圏にある私立大学に進学することが決まっている。
「大樹は名古屋の方だっけ。まあ、近鉄に乗ればすぐ地元に帰ってこれる距離だけどな」
「そうそう。でもお前んとこは、気軽には行けねーよなぁ。……なぁ、健翔」
大樹が話を振ると、隣でポケットに両手を突っ込んでいた健翔が、自嘲気味に鼻で笑った。
「俺からしたら、どっちも羨ましい限りだよ。こっちはこれから一年、予備校の独房生活なんだからな」
健翔は、第一志望だった横須賀にある全寮制の大学の受験に破れ、浪人することが決まっていた。バレー部で一番の熱血漢だった彼が、ポツリとこぼした言葉には実感がこもっていた。
「お前はストイックすぎんだよ。でも、来年は絶対受かるって」
「おう、当たり前だ。一年後、絶対に横須賀の制服着てお前らの前に立ってやるよ。だから一ノ瀬、東京行ったからって俺らのこと忘れんなよ。グループLIMEもちゃんと反応しろよな」
健翔の力強い言葉に、僕は深く頷いた。
「忘れるわけないだろ。……二人とも、秋以降は俺がノイローゼみたいになってて、ごめんな」
「気にしてねーよ。マジで誰とも喋らずに単語帳食う勢いだったもんな」
大樹がカラカラと笑う。
「あんなE判定から第一志望通すお前の執念は、正直すげーと思ったわ。東京でもその調子で頑張れよ」
友人たちの温かい言葉に、僕は笑って誤魔化したが、胸の奥がギュッと締め付けられた。
彼らとは、自転車でどこへでも行けた。バレー部の厳しい練習も、この狭くて退屈な街での日常も、ずっと一緒に乗り越えてきた。けれど、その居心地の良い世界は今日で終わりだ。ここからはそれぞれが、全く違う場所で、別々の戦いに挑むことになる。
改札越しに手を振る二人を見送る。やがて閉まりゆく電車のドアの向こうに彼らの姿が消えた時、強烈な孤独の第一波が僕を襲った。
そして3月の終わり。
僕はついに、東京という街に放り出された。
駅から徒歩15分。築20年のこぢんまりとしたワンルームのアパート。
床にはいくつもの段ボール箱が積み上げられ、新品の壁紙の匂いと、埃っぽい匂いが混ざっている。
引っ越しの手伝いに来てくれていた母さんは、キッチンのシンクをスポンジで磨きながら、口うるさく僕に指示を出していた。
「春斗、ちゃんと自炊するんやで。コンビニ弁当ばっかりはあかんよ。あんたすぐ胃悪くするんやから」
「分かってるって。自炊するよ」
「掃除機も週に一回はかけること。それから……」
母さんはふと手を止め、思い出したように僕の方を振り向いた。
「そういえば、咲良ちゃんのところのお母さんから、こないだLINE来てね。咲良ちゃんも、春から東京の大学なんやってね」
「……うん」
「なんや、知っとったん? 向こうのお母さん、『同じ東京なんやから、また仲良くしてやってね』って言うとったよ。あんたも落ち着いたら、咲良ちゃんに連絡してあげなさいよ」
無邪気な母の言葉が、僕の心に重くのしかかる。
「同じ東京」なんて、大人は簡単に言うけれど、東京の広さを全く分かっていない。
路線図を見るだけで眩暈がするようなこの巨大な迷路の中で、僕と彼女が偶然出会う確率なんて、天文学的な数字だ。
それに、今の僕が彼女に連絡をして、果たして「昔みたいに仲良く」なんてできるのだろうか。
「……うん、まあ、そのうちね」
曖昧に誤魔化す僕を残して、夕方、母さんは新幹線で実家へと帰っていった。
「何かあったらすぐ電話してきなさいよ」と、少しだけ目を赤くしていた母さんの背中を見送った後、僕は生活用品を買い足すために、一人で駅前の雑踏へと歩き出した。
「……なんだこれ、毎日がお祭りかよ」
最寄り駅のスクランブル交差点を前にして、僕は思わず小声で毒づいた。
亀鈴市では考えられないような人の波。3分に1本やってくる電車。見上げるほど高いビルの群れと、絶え間なく流れる巨大なビジョンの広告音声。
東京は、すべてが早すぎた。
街のスピードに、僕の歩幅は全く合っていない。油断して立ち止まれば、後ろから舌打ちをされそうになる。すれ違う同世代の若者たちは、誰もが洗練されていて、自分の着ている服が急に酷く見窄らしく見えた。
地元で「一番おしゃれ」だと思って着てきた服も、この雑踏の中ではただの「田舎者」のコスチュームに過ぎないのだと、突きつけられた気がした。
夜。
一人ぼっちの部屋に戻った僕は、フローリングに座り込み、壁に背中を預けて大きく息を吐いた。
東京に来た。彼女と同じ街に。
物理的な距離は、400キロから、電車で数十分の距離へと一気に縮まったはずだ。
なのに、今の僕を支配しているのは、合格した瞬間の達成感ではなく、得体の知れない不安だった。
僕は、本当に彼女の隣に立つのに相応しい人間になれるのだろうか。
スマホを取り出し、半年ぶりに『Momento』を再インストールする。
ログイン画面でIDとパスワードを打ち込む指が、冷え切っていた。
タイムラインに流れてきたのは、3日前の彼女の投稿だった。
『高校卒業! 春から大学生!』
真新しいスーツ姿の彼女が、洗練された都会のカフェで、友人とピースサインをしている写真。
その笑顔は、僕が知っている「小6の咲良」よりもずっと大人びていて、輝いていた。
東京という街に完全に溶け込み、自分の居場所を確立している彼女。
それに比べて、今、段ボールに囲まれて自分の見窄らしさに震えているこの僕の姿を、彼女が想像することはあるだろうか。
僕はDMの画面を開く。
半年間の空白は、今の僕には深すぎる峡谷のように思えた。
『久しぶり。無事に第一志望受かったよ。』
打ちかけて、指を止める。
同じ大学だと伝えたら、彼女はどう思うだろう。
洗練された彼女の世界に、地元の僕が土足で踏み込んでいくようで、怖かった。「重い」と思われたくない。「相変わらずダサい」と思われたくない。
僕も、少しは彼女の隣に並べるような人間に、ならなきゃいけない。
『久しぶり。無事に第一志望受かったよ。春から、そっち(東京)に行くことになった』
同じ大学であることは、伏せた。
せめて、彼女に相応しい自分になるまで。都会の風を吸い込み、この見窄らしさを脱ぎ捨てるまでは。
送信ボタンをタップする。
ピコン、という軽い音が、冷たい部屋に寂しく響いた。
「よし……荷解き、するか」
僕はスマホを机に放り投げ、一番大きな段ボール箱のガムテープに手をかけた。
東京の喧騒が、壁の向こうからずっと、僕を置いてけぼりにしているような気がする。
それでも、僕にはここしかない。
この冷たい部屋で、明日からは自分を磨き直すしかないのだ。
夜の帳が降りる東京。
初めて一人で過ごす夜は、信じられないほど静かで、そして、ひどく心細かった。
次回7日21時投稿予定です.
次回からついに大学生編です.咲良との再会なるか!?
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