冬期講習と、先回りした背中
12月.
亀鈴市に本格的な冬が到来し,駅前の個別指導塾は冬期講習のピークを迎えていた.
外は凍えるような北風が吹きすさび,窓ガラスは分厚い結露で真っ白に曇っている.
暖房が効きすぎた狭いブースの中で,僕は英語の長文読解問題と格闘していた.
僕が志望している情報系学部の過去問は,理系特有の難解なテーマや専門的な英単語が多く,何度解いても合格最低点のボーダーライン付近をうろついている.
刻一刻と迫る共通テストと一般入試の足音に,胃がキリキリと痛む毎日だった.
「よし,時間.そこまで」
向かいの席に座る大学生の先生が,スマホのストップウォッチを止めた.
僕は大きく息を吐き出し,解答用紙を渡す.先生が赤ペンを走らせるその手元を,祈るような気持ちで見つめた.
静寂の中,紙を擦る音だけが響く.やがて先生は「うーん」と唸りながら,ペンを置いた.
「第3パラグラフの要約がちょっとズレてるな.論理展開は追えてるけど,キーワードの拾いこぼしがある」
「……やっぱり,単語の多義語のニュアンスの読み違えですかね」
「そうだな.でもまあ,夏に比べたら情報系の専門用語への耐性はだいぶついたよ.この調子で詰めれば,ギリギリ戦えるラインには乗る」
先生は解答用紙を僕に返し,肩を回して大きく伸びをした.
「それにしても,お前ほんとあの大学にこだわってるよな.情報系なら他にも良い国公立とかあるのに,わざわざ東京の私大一本に絞るなんて,なんか特別な理由あんの?」
図星を突かれ,僕は言葉に詰まった.
「……いや,まあ,最先端の環境でプログラミングとか学びたくて.あと,単純に東京に行きたいなって」
「ふーん.まあ,モチベーションが高いのは良いことだ.そういえばさ」
先生は何気ない雑談のトーンのまま,ふと思い出したように言った.
「俺のかつての同級生に,宮園ってやつがいるんだけどさ」
「……え?」
聞き覚えのある名字に,心臓がドクンと嫌な跳ね方をした.
「そいつの妹,お前と同じ小学校だったはずなんだけど,知ってる? 途中で親の転勤で東京行っちゃったらしいけど」
「……はい.知ってます.小6の時,同じクラスでした」
「あ,やっぱり? いやー,優秀な兄妹だよな」
先生は僕の強張った表情に気づく様子もなく,くるくると赤ペンを回しながら決定的な言葉を口にした.
「その妹のほう,お前と同じ大学の法学部,もう合格決まったらしいぞ.指定校推薦で」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった.
ブースの中の空気が,急に薄くなったように感じた.喉の奥がカラカラに乾く.
「……指定校,推薦……? しかも,法学部……?」
「そうそう.こないだ宮園と飲んだ時に聞いたんだよ.『妹が〇〇大の法学部に決まって一安心だ』って.まあ,東京の進学校にいたらしいし,もともと枠持ってたんだろうな.お前もあとに続けるといいな!」
先生のカラッとした激励が,僕の耳にはひどく遠く聞こえた.
合格した.
彼女はもう,あの大学への切符を手に入れている.
もちろん,喜ぶべきことだ.彼女が第一志望に受かったのだから.
それと同時に,胸の奥から熱いものが込み上げてきた.
法学部.
その響きを頭の中で反芻する.
おっとりしていて,天然で,どこか抜けている彼女.けれど,芯の部分では誰よりも賢く,いつだって僕のずっと先を歩いている.
昔からそうだった.彼女には,僕なんかじゃ到底手が届かないような,きらきらとした特別なオーラがあった.
そんな彼女が,東京の難関大学で法律を学ぶ.
僕の知らない東京という街で,僕の知らない知識を吸収し,洗練された大人になっていく.
心の底から湧き上がってきたのは,圧倒的な「憧れ」だった.
やっぱり彼女はすごい.僕が好きになった人は,そんなにも眩しい場所にいるんだ.
だが,その強烈な憧れは,直後に真っ黒でドロドロとした「焦燥感」へと姿を変えた.
彼女はもう,ゴールテープを切っている.
春からの東京での新生活に胸を躍らせ,大学への準備を進めているはずだ.
それに比べて,僕はどうだ.
まだボーダーライン上で泥まみれになりながら,C判定の模試結果に一喜一憂し,彼女の背中すら見えない場所で足掻いている.
もし僕が落ちたら?
もし僕がこのまま地元の大学に行くことになったら?
すでに難関の法学部への切符を手にして余裕のある彼女にとって,僕の存在なんて,遠い地元で勝手に空回りしている滑稽な同級生でしかないのではないか.
彼女が放つ圧倒的な光の前に,自分の惨めさが浮き彫りになるようで,たまらなく怖かった.
「一ノ瀬? どうした,顔色悪いぞ.ちょっと休憩するか?」
「……いえ」
僕は震える唇を強く噛み締め,返ってきたばかりの解答用紙を力強く握った.
手のひらに,じんわりと冷たい汗が滲む.
「先生,英語の過去問,もう1年分追加でお願いします.あと,長文の要約の添削も」
「えっ,今から? お前,朝からぶっ通しで8時間やってるぞ。いくらなんでも頭パンクするって」
「……足りないんです.全然」
僕はシャープペンシルを握り直し,問題集の次のページを乱暴にめくった.
待っててくれ.
先回りして,眩しい場所で笑っている君の隣に,絶対に並んでみせる.
頭の中で,あの日見た彼女の無邪気な「笑」の一文字がフラッシュバックする.
雪がちらつき始めた窓の外から目を逸らし,僕は再び,活字の海へと深く潜り込んでいった.




