空白の半年と、未読の1週間
高校3年に進級し、本格的な受験期に入ると、僕は一つの決断をした。
『Momento』のアプリを削除することだ。
アカウントは消さず、ただアプリを端末からアンインストールする。無事に合格するまで、彼女には連絡しないし、彼女の日常も覗き見ない。
それは僕なりの、不器用な退路の断ち方だった。
アプリのアイコンが消えたスマホのホーム画面は、まるでそこに穴が空いたように間抜けだった。
最初の数週間は、無意識にその「空白」のスペースを指でタップしそうになり、その度に苦笑いして単語帳を開いた。
夏休みに入ると、来る日も来る日も駅前の個別指導塾に籠り、1日10時間以上も机に向かう日々が続いた。
担当してくれているのは、地元の大学に通う気さくな大学生の先生だ。彼は僕の狂ったような勉強量に「お前、なんかヤバい執念感じて怖いんだけど」と呆れながらも、親身になって二人三脚で過去問に取り組んでくれていた。
息が詰まるような単調な毎日の中で、ふと、彼女の存在が途方もなく遠く感じられる夜があった。
今頃、彼女はどんな夏を過ごしているのだろう。東京の空の下で、誰と笑っているのだろうか。
想像し始めるとキリがなくなり、胸がざわついた。僕はそんな不安を塗り潰すように、ひたすらにペンを動かし続けた。
それから半年が過ぎた、9月上旬。
高校生活最後の文化祭がやってきた。
受験生とはいえ、今日ばかりは学校全体が浮き足立ち、お祭り騒ぎの空気に包まれている。
しかし、僕は学級委員長という貧乏くじを引かされ、クラスの出し物である模擬店のテント裏から一歩も動けずにいた。
「委員長、在庫足りない!」「お釣り用の百円玉補充して!」
次々と飛んでくるクラスメイトからの要求に対処しながら、油の匂いと熱気の中でひたすら汗を拭う。
テントの表側では、接客係の女子たちがスマホを片手に「写真撮ろう! Momentoのストーリーに載せるから!」とはしゃぐ声が聞こえてきた。
『Momento』。
その単語を耳にした瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
みんなが今、この瞬間の「思い出」を切り取って共有し合っている中、僕の時間はあの春からずっと止まったままだ。
外から聞こえてくる歓声や、体育館からのバンドの演奏。学校中がどんな風に盛り上がっているのか、せめて写真だけでも見たい。
──いや、本当は違う。
半年間、見ないように蓋をしていた「彼女は今、どんな景色を見ているのか」という渇望が、限界に達しただけだ。
その衝動に抗えきれず、僕はほんの少しの罪悪感と共に、スマホのストア画面を開き、数ヶ月ぶりに『Momento』を再インストールした。
IDとパスワードを入力し、ロード画面の円がくるくると回る。
ログインを済ませた瞬間、画面右上の吹き出しアイコンに、赤い通知バッジが点灯した。
心臓が大きく跳ねた。
慌ててDMの画面を開くと、そこには1週間前の日付──8月30日──で、彼女からのメッセージが届いていた。
『春斗くん、誕生日おめでとう! 受験勉強がんばってね!』
血の気が引いた。
1週間。僕は彼女からの誕生日メッセージを、丸1週間も未読のまま放置していたのだ。
「うわぁっ……!」
模擬店の裏で、思わず変な声が出た。
「どうした委員長?」「いや、なんでもない!」
僕はテントの隅にしゃがみ込み、震える指でキーボードを叩いた。
『ごめん! 受験のためにアプリ消してて、今気づいた! メッセージありがとう、すっごく嬉しい!』
必死の言い訳。嫌われてしまっただろうか。せっかく誕生日を覚えていてくれたのに、無視したと思われていたらどうしよう。
スマホを両手で握り締め、生きた心地がしないまま画面を見つめる。
数分後、スマホが短く震えた。
『そっか! えらいね! 応援してるよ〜!』
怒るどころか、あっけらかんとしたエール。
昔と変わらない、そのひょうひょうとした軽さが、今はたまらなく嬉しかったし、救われた気分だった。
彼女は僕のことを、応援してくれている。
「……よしっ」
僕は立ち上がり、もう一度アプリを消去した。
これでもう、迷いはない。志望校判定はまだC判定から抜け出せていないが、やるしかない。
僕は再び熱気の中に飛び込み、文化祭が終わると同時に、さらなる受験の沼へと潜っていった。




