車内の揺れと、次への約束
帰りの東横線の車内は、同じように花火大会から帰路につく浴衣や甚平姿の客で、適度に混み合っていた。
冷房の効いた車内には、ガタンゴトンという規則的で心地よい走行音が響いている。
運良く並んで座ることができた僕たちは、少し遊び疲れた身体をシートに預け、その一定の揺れに身を任せていた。
「……なんだか、あっという間だったね」
窓の外を流れる暗い景色をぼんやりと眺めていた咲良が、ふと呟いた。
「そうだな。蓮たちと会って気を使ったり、拓海たちとはぐれたり……なんだかんだでずっと動き回ってた気がする」
「うん。すごく楽しかったけど……」
咲良は少しだけ口を尖らせて、自分の膝の上に置いた小さな巾着袋を見つめた。
「最後の方しか落ち着いて見られなかったから、結局ゆっくりは楽しめなかったかも」
確かにその通りだ。
蓮と結衣さんの復縁アシストというミッションから始まり、屋台での食べ歩き、そして後半の思いがけない(仕組まれた)二人きりの時間。
怒涛の展開に振り回されて、純粋に『花火を楽しむ』という時間自体は、本当に最後の数十分しかなかった。
「……また、行きたいな。花火」
咲良が、上目遣いでこちらをチラリと見て、ぽつりとこぼす。
その言葉を聞いた瞬間、僕の身体は思考よりも先に動いていた。
「ちょっと待ってて」
僕はポケットからスマホを取り出し、検索ブラウザを開いた。
『花火大会 東京 八月』と打ち込み、画面を素早くスクロールしていく。八月前半の大きな大会は今日で粗方終わってしまっているが、後半になればまたいくつか開催されるはずだ。
「……あった」
「え?」
スマホの画面を覗き込もうと、咲良が少しだけ身体を寄せてくる。肩が触れそうな距離に、心臓がトクンと跳ねたが、僕は平静を装って画面を指差した。
「お盆明けの週末に、またこっちの方でもう一つ大きい花火大会があるみたいだ。規模も今日のやつと同じくらいだって」
「ほんとだ……!」
「その、さっきはゆっくり楽しめなかったって言ってたし……もし、咲良がよかったらだけど」
僕は一度だけ短く深呼吸をして、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「今度は、最初から最後まで、二人でゆっくり見に行かないか?」
それは、拓海たちのような『お邪魔虫』が消えてくれた結果の二人きりではなく。
最初から最後まで、僕と咲良だけで過ごすための、明確な『デート』の誘いだった。
「行くっ!」
僕が言い終わるか終わらないかのうちに、咲良は満面の笑みで二つ返事をした。
「絶対行く! 約束だよ、春斗くん!」
「あ、ああ。もちろん。じゃあ、お盆明けにまた予定合わせよう」
「うんっ! えへへ……楽しみだなぁ」
咲良は心底嬉しそうに笑うと、そのまま少しだけ身体の力を抜き、こつん、と僕の肩に自分の頭を乗せてきた。
「……っ」
「ちょっとだけ、疲れちゃった。駅に着くまで、このままでいい?」
「……わかった。着いたら起こすから、少し寝てろよ」
「うん……ありがとう、春斗くん」
目を閉じた彼女の規則正しい寝息が、電車の揺れに溶け込んでいく。
肩に伝わる彼女の体温と確かな重みを感じながら、僕は車窓の暗闇に映る自分の顔が、きっとどうしようもなく緩みきっていることを自覚していた。
***
やがて電車は咲良の最寄り駅に到着し、僕は肩で心地よさそうに眠る彼女を優しく揺り起こした。
「咲良、着いたぞ」
「ん……あ、ごめん、ぐっすり寝ちゃってた」
目をこすりながら立ち上がる彼女と共に、少しだけひんやりとした夜の空気が漂うホームへと降り立つ。
改札を抜け、咲良の住む高層マンションへと続く見慣れた夜道を二人で歩き始めた。
川崎の河川敷での喧騒が嘘のように、日付が変わろうとしている住宅街の通りは静まり返っていた。
祭りの熱気という魔法が少しだけ解けて、いつもの日常の空気が戻ってくる。だからだろうか、先ほどまでのように無防備に袖を摘んだり、肩に寄りかかったりするような大胆な行動は、今の僕たちには少しだけ気恥ずかしくてできなかった。
それでも。
オレンジ色の街灯に照らされた僕たちの影は、今までになく近い距離で寄り添いながら路面に伸びていた。
手を繋いでいるわけではない。触れ合っているわけでもない。
けれど、歩幅を合わせてゆっくりと進むたび、お互いの肩や腕が微かに擦れそうになる。会話がなくても、ただ隣を歩いているだけで心地よい。その絶妙で穏やかな距離感が、もどかしくもたまらなく愛おしかった。
「今日は、本当にありがとうね」
見慣れたマンションのエントランスが見えてきたあたりで、咲良が歩みを緩め、少しだけ顔を傾けて微笑んだ。
「楽しかった。……お盆明けの花火も、すっごく楽しみにしてる」
「ああ。俺も楽しみにしてる。……ちゃんと休んで、疲れ取っとけよ」
「うんっ! 春斗くんもね。気をつけて帰ってね」
豪奢なエントランスの自動ドアの向こうへ、カランコロンと下駄の音を響かせながら消えていく深紅の浴衣を見送る。
振り返って手を振ってくれた彼女の姿が見えなくなっても、僕の肩にはまだ彼女の微かな重みが、そして鼻腔には甘い香りが確かに残っていた。
見上げる夜空には、もう花火は上がっていない。
けれど、僕の心の中には、次へと続く明確な約束の灯りが、静かに、そして力強く灯り続けていた。




