意図的な遭遇と、意図しない遭遇
八月十一日、山の日。
過酷だった前期の期末テストをなんとか無事に乗り越え、僕たちはついに、正真正銘の夏休みへと突入した。
午後五時半。川崎駅前の広場は、今夜行われる花火大会に向かう人々でごった返していた。
夕暮れが近づいているというのに、アスファルトから立ち上る熱気は一向に衰える気配がない。あちこちから聞こえる蝉の鳴き声と、浴衣姿の若者たちの笑い声が、夏祭り特有の浮き足立った空気を作り出していた。
「……あー、クソ暑い。なんで俺、こんな人混みの中にいなきゃなんねえんだよ」
待ち合わせの時計塔の下で、白地に絣柄の爽やかな甚平を着た蓮が、うちわで顔をあおぎながら恨めしそうにぼやいた。
「文句言うなよ。せっかくのテスト打ち上げなんだからパーッと行こうぜ」
ライトグレーの甚平を着た拓海が、ニヤニヤしながら蓮の肩を叩く。
そして僕はというと、あの日新宿で少し無理をして買った『少し明るめの紺色』の麻の甚平を身に纏っていた。黒よりも重くならず、夜の空気にも沈まない絶妙な紺色。上質な麻のシャリ感が、少しだけ僕に自信を与えてくれているような気がした。
「おーい! 拓海くーん!」
不意に、人混みの向こうから聞き覚えのある声が響いた。
振り返ると、少し離れた場所から莉奈さんが大きく手を振ってこちらへ歩いてくるのが見えた。大人びた朝顔柄があしらわれた深緑の浴衣を着こなした彼女の後ろには、見慣れた二人の女子の姿がある。
「おっ、来た来た。……おい蓮、ほら、行くぞ」
「あ? 莉奈じゃん。ってか、なんで女子が……って、おい」
拓海に促されて前を向いた蓮の動きが、ピタリと止まった。
彼の視線の先には、淡い水色の清楚な浴衣に身を包んだ結衣さんの姿があったのだ。高校時代からの同級生であり、そして元カノでもある彼女の姿を見つけ、蓮は目を見開いて立ち尽くしている。結衣さんもまた、僕たちのグループの中に蓮の姿を見つけ、息を呑んで足を止めた。
「えっ……なんで、蓮が……」
「結衣……お前、なんで……」
雑踏の中で、見つめ合ったままフリーズする二人。
不意に、蓮の視線が結衣さんの隣――誰もいない空間へとサッと向けられた。それに応じるように、結衣さんの目も蓮の周囲をそそくさと確認する。
お互いが、ただの友人たちとしか一緒にいないことを確認した瞬間。
喧嘩の気まずさからスッと目を逸らした二人の肩から、ふっと微かな力が抜け、小さなため息が同時にこぼれ落ちたのが見えた。
「……浴衣」
「……そっちこそ、甚平」
ぽつり、ぽつりと、互いを探り合うような不器用な言葉が交差する。
「いやー、奇遇だな! 花火行くって莉奈さんから聞いてはいたけど、まさかここで会うとはな! これも何かの縁だし、合流して六人で回った方が楽しいだろ!」
これ以上二人に喋らせると変に意地を張ってしまいかねない絶妙なタイミングで、拓海がおどけた調子で割って入った。拓海は蓮の背中をポンと軽く叩き、結衣さんには「ほら、行こうぜ」と気さくに笑いかけながら、歩き出させる。
「まあまあ、とりあえず屋台でなんか食おうぜ!」と明るく場を和ませる拓海のおかげで、蓮と結衣さんは渋々といった様子ながらも、拓海を挟むような形で三人並んで歩き始めた。
第一関門、見事に突破である。
しかし、僕には彼らの復縁作戦の進捗を喜んでいる余裕など、一ミリもなかった。
「お待たせ、春斗くん」
先行する三人の後ろから歩いてきた彼女を見た瞬間、僕の思考は完全に停止し、周囲の雑音が一瞬で遠ざかっていった。
「……咲良」
「えへへ、どうかな?」
そこに立っていたのは、いつものキャンパスで見かけるような、ラフでカジュアルな服装の幼馴染ではなかった。
彼女が身に纏っていたのは、ハッとするような艶やかな『深紅色』の浴衣だった。黒みを帯びた深い赤の生地には、控えめな百合の花が描かれている。
いつもは下ろしている髪は綺麗にアップにまとめられ、あらわになった白いうなじが、深紅の浴衣との強烈なコントラストを生み出している。
そして何より僕の目を釘付けにしたのは、彼女の帯飾りとして揺れている『ピンク色のアイテム』だった。
ゴールデンウィークに二人でお台場に行った時に買った、あのピンク色の砂が詰まった小さなチャームだ。
大人っぽい深紅の浴衣の中で、そのワンポイントのピンクだけが、あの日の思い出と彼女本来の可愛らしさを主張していた。
僕の少し明るめの紺色の甚平と、彼女の深紅の浴衣。
偶然にも、補色のように互いを引き立て合う完璧な並びになっていた。
「……変、だったかな?」
僕があまりにも何も言わないものだから、咲良が少しだけ不安そうに上目遣いで僕を見上げてきた。
「い、いや! 違う! 変なんかじゃない、その……すごく、似合ってる。綺麗だ」
捻り出した言葉は、自分でも驚くほど素直で直球なものだった。
その言葉を聞いた瞬間、咲良の顔にパァッと花が咲いたような笑顔が広がった。
「ほんと!? よかったぁ……」
「お前、普段そういう大人っぽい色着ないから、ちょっとびっくりしただけだ」
僕が照れ隠しにそう言うと、隣で様子を見ていた莉奈さんが、クスッと小さく吹き出した。
「本当よ。この子、毎年お祭りでは白とか黄色とか、薄くて明るい色の浴衣ばっかり着てるからさ。今年もその系統かと思ってたら、お店でいきなりこの深紅の浴衣を手にとって『これ、私に似合うかな?』なんて真剣な顔で聞いてくるんだもの」
「ちょ、莉奈! それは言わない約束でしょ!」
「どういう風の吹き回しかと思ってたけど……なるほどね」
莉奈さんは慌てて彼女の腕を引く咲良をいなしながら、僕の顔と咲良の顔を交互に見て、意味ありげにニヤリと笑った。
「も、もう! 莉奈だって、その深緑の浴衣、去年から急にかえたよね!?」
顔を真っ赤にした咲良が、反撃とばかりに莉奈さんを指差した。
「中学とか高校の最初はずっと水色とか可愛い系の色ばっかりだったのに、高三の時から急に『大人っぽくする』って路線変更したじゃない!」
「なっ……! ちょ、ちょっと声が大きいわよ! そ、それは別にいいじゃない! 年相応に落ち着こうと思っただけなんだから!」
咲良の無邪気な指摘に、いつもは余裕のある莉奈さんが少しだけ慌てたように声を潜めた。そして、なぜか前方を歩いているライトグレーの甚平の背中を、チラリと気にするように視線を泳がせた。
落ち着いた深緑の浴衣は、前方を歩く拓海のライトグレーの甚平と並んでも、きっと綺麗に馴染むだろうなと、僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
莉奈さんの言葉を聞いて、顔に一気に熱が集まるのを感じた。
『あえて大人っぽい深紅色とか、似合うんじゃないか?』
あの日の帰り道、僕が口にした何気ない提案を、咲良はちゃんと覚えていて、わざわざ選んでくれたのだ。
僕の言葉をきっかけに、例年とは違う姿でここに来てくれた。その事実が、じわじわと胸の奥を温かくし、同時にたまらなく気恥ずかしくさせる。
これ以上彼女のその無防備な笑顔を直視していたら、確実に顔の赤さを悟られてしまう。僕は思わず手で口元を覆ってそっぽを向いた。
「ちょ、ちょっと春斗くん!? なんでそっぽ向くの!」
「う、うるさい! ちょっと暑いだけだ!」
「もう!」
咲良がクスクスと笑いながら、僕の少し明るい紺色の甚平の袖口を、きゅっと指先で摘んだ。
あの日、大教室で僕が熱弁していた『至高のシチュエーション』が、寸分違わず現実のものとして引き起こされている。
「ほら、私たちも早く行きましょ。あっちの三人組、もう屋台の方に向かってるわよ」
莉奈さんが苦笑しながら先を促す。
前方に目を向けると、拓海を真ん中に挟んで、少しぎこちないながらも歩を進める蓮と結衣さんの背中があった。
その後ろを、僕と咲良、そして莉奈さんの三人がついていく。
六人のグループでありながら、はっきりと二つの塊に分かれた陣形だ。
「……行くぞ」
「うん!」
袖を摘まれたまま、僕たちは歩き出した。
人混みの中、カランコロンと涼しげに鳴る彼女の下駄の音が、僕の胸の高鳴りとリンクしているようだった。
見上げる夜空には、まだ花火は上がっていない。
けれど僕の心の中では、すでにこの夏一番の、特大の打ち上げ花火が上がっていた。




