迷宮の再戦と、男の買い物
午後十二時五十分。
初夏の強い日差しが照りつける新宿駅の東口広場は、待ち合わせをする人々でごった返していた。
上京したての頃、この新宿という巨大なダンジョンで完全に方向感覚を失い、絶望的な迷子になったのは苦い思い出だ。しかし、人間というのは適応する生き物である。今日はスマホのマップアプリと案内板を駆使し、少し迷うことはあったものの、無事に約束の十分前に『アルタ前』という指定のポイントに辿り着くことができた。
「おっ、一ノ瀬! ちゃんと迷わず来れたじゃねえか」
人混みの中から、拓海と蓮が手を振りながら近づいてきた。
二人ともラフなTシャツ姿だが、蓮の顔にはいつもの気怠さがなく、どこかそわそわとした活気が見え隠れしている。やはり、結衣さんも来るかもしれない(と本人はまだ知らないが)花火大会への期待感が、彼を突き動かしているのだろう。
「おう、お前らも早いな。俺も少しは東京の路線図に慣れてきたんだよ」
「頼もしいねえ。よし、全員揃ったし、さっそく甚平探しに行こうぜ。東口の大型デパートの催事フロアで、特設コーナーができてるらしいからよ」
拓海の案内で、僕たちは冷房の効いたデパートの中へと足を踏み入れた。
エスカレーターを乗り継ぎ、目的のフロアに到着すると、そこには想像以上の光景が広がっていた。
「うおっ……すげえな」
「なんだこれ、甚平と浴衣だけでどんだけ種類あんだよ」
フロアの半分ほどを占める特設コーナーには、トルソーに着せられたディスプレイをはじめ、壁一面にずらりとハンガーに掛けられた甚平が並んでいた。黒、紺、白、グレーといった定番の色から、派手な刺繍が入ったもの、モダンな幾何学模様のものまで、ありとあらゆるデザインが揃っている。
「よし、各自似合うやつを探すぞ! 女子ウケ最優先だからな!」
拓海が号令をかけると、僕たちはそれぞれハンガーの列に散らばった。
僕の目的は、すでに自分の中で明確に決まっている。
平田先輩からのアドバイスである『無難かつカッコいいデザイン』であり、かつ、咲良が着るかもしれない『深紅の浴衣』の隣を歩いた時に互いの色を引き立て合う色。
つまり、『少し明るめの紺地に、目立たない縦縞』の一択だ。
僕は大量の甚平の中から紺系統のコーナーに的を絞り、生地の質感や縞の入り方を一枚ずつ丁寧に確認していった。
「おい一ノ瀬、これどうよ!」
十分ほど物色していると、背後から蓮に声をかけられた。
振り返ると、そこには鏡の前で『真っ白な生地に薄い水色の縦縞』という、やけに爽やかな甚平を身体に当てている蓮の姿があった。
「……お前、それ買うのか? なんか随分明るい色だな」
「だろ? 夏の夜に黒とか紺だと、同化して重く見えそうじゃねえか。ここはあえて白系の甚平で、清潔感と爽やかさをアピールする目論みよ」
「俺もそれに賛成だな。見ろよ、俺はこのライトグレーの麻混素材だ」
蓮の隣に並んだ拓海がドヤ顔で見せてきたのは、こちらも明るいライトグレーの甚平だった。
「お前ら……普段は黒のTシャツとかダボダボのストリート系ばっかり着てるくせに、こういう時だけ急に『爽やか路線』狙うの、あざとすぎないか?」
「うるせえ! モテるためには手段を選んでられないんだよ! 特に今回は……まあ、その、大事なイベントだしな」
蓮は少しだけ口ごもりながらも、鏡の前でポーズを決めている。結衣さんに「かっこよくなった」と思わせたいという本音が透けて見えて、僕は内心で苦笑した。
「一ノ瀬はどうすんだよ。まさか、また地味なやつ選ぼうとしてないだろうな」
「ほっとけ。俺は俺の信念を貫くんだよ」
僕は二人の爽やかアピールをスルーして、再び紺色の甚平の探索に戻った。
それからというもの、男三人の買い物は予想外の長期戦に突入した。
普段の僕たちなら、服を買う時なんて「これでいいや」と五分で決めて即座にレジへ向かうのが常だ。しかし、今日は違った。
「おい拓海、この白、なんかパジャマっぽく見えねえか?」
「あー、確かに。もうちょっと生地にハリがないと、旅館の浴衣着たまま外出てきたおっさんみたいだな。こっちの生成り色はどうだ?」
「一ノ瀬! お前それ、ヤンキーの特攻服みたいに背中に龍の刺繍入ってんぞ! やめとけ!」
「あっ、危ねえ! 気づかなかった!」
鏡の前で甚平を身体に当てては、「似合わねえ」「それはチャラすぎる」「お前足短いからサイズ感気をつけろ」と、容赦のないダメ出しの応酬が続く。
気付けば、それぞれが試着室に三、四回は出入りし、ああでもないこうでもないと議論を交わしていた。
「……ふう。俺、これにするわ」
やがて、拓海がライトグレーの無地の甚平を手に取り、満足げに息を吐いた。
続いて蓮も、白地に薄い紺の絣柄が入った、涼しげで爽やかな甚平を決定する。
「一ノ瀬、お前まだ決まんねえの?」
「……これとこれで、迷ってるんだよ」
僕の手には、二着の紺色の甚平が握られていた。
どちらも少し明るめの紺地にグレーの縦縞が入っている理想のデザインだ。しかし、決定的な違いが一つあった。
右手に持っているのは、ポリエステル混紡で値段も手頃な、いわゆる普通の甚平。
一方、左手に持っているのは、国産の麻を百パーセント使用した、独特のシャリ感と深い紺の色合いが美しい甚平。肌触りも見た目の高級感も桁違いだが、値段のタグには、僕が想定していた予算を大きくオーバーする数字が印字されていた。
「おっ、そっちの麻のやつ、すげえいいじゃん! 触り心地全然違うぞ」
「でも、値段が予算オーバーなんだよ。どうせ夏に一、二回しか着ないものに、この出費は痛い……」
「馬鹿野郎! こういう時はケチるところじゃねえぞ!」
僕が躊躇していると、蓮が僕の背中をバシッと力強く叩いた。
「お前、その右のやつ着て、気になる女子と並んで歩くところ想像してみろよ。安っぽいテカテカの生地で妥協して、あとで写真見返して後悔しても遅いんだぞ! 男なら、ビシッと一番カッコいいやつ選べ!」
蓮の熱い言葉に、僕はハッとした。
頭の中に、深紅の浴衣を着た咲良の隣を、この甚平を着て歩く自分の姿が浮かび上がる。
隣を歩く三十センチの距離。もし彼女が、あのカフェの時のように笑いかけてくれたら。もし彼女が、下駄で歩きにくそうにして、僕の袖をきゅっと掴んでくれたら。
その瞬間を、一番自分に自信を持てる格好で迎えたい。
「……よし。俺、こっちにする」
僕は左手に持っていた、予算オーバーの麻の甚平をぎゅっと握りしめた。
「おう! それでこそ男だ!」
「じゃあ、やっと決まったし、レジ行くぞ。……ってか、今何時だ?」
拓海がスマホの画面を確認して、目を丸くした。
「おいおい……マジかよ。俺たち、甚平選ぶのに二時間半も経ってんぞ」
「うそだろ!? デパート入ったの十三時すぎだぞ!」
「どんだけ女子の目気にしてんだよ、俺たち……」
男三人で甚平コーナーに二時間半。
その異常な事実に気づき、僕たちは顔を見合わせて、思わず吹き出してしまった。
「アホすぎる」「お前が試着長すぎたんだよ」と文句を言い合いながら、レジへと向かう。
財布から予定よりも多めのお札を取り出し、お会計を済ませる。
予算から大きく足が出てしまい、今月の飯代はかなり切り詰めなければならなくなったが、不思議と後悔は全くなかった。
むしろ、店員さんから受け取った紙袋のずっしりとした重みが、花火大会への期待感を何倍にも膨らませてくれるような気がした。
「よし! これで装備は完璧だな!」
デパートの外に出ると、傾きかけた太陽が、新宿のビル群をオレンジ色に染め始めていた。
「この後、飯食って帰ろうぜ」という蓮の提案に乗り、僕たちは賑わう新宿の街へと歩き出す。
手の中にある紙袋が、歩くたびにカサカサと鳴る。
期末テストという現実をまだ残してはいるものの、僕の心はすでに、蝉の声が響く八月の夜へと飛んでいっていた。
深紅の浴衣と、少し明るめの紺の甚平。
その二つの色が並ぶ夏祭りの情景を想像しながら、僕は誰にもバレないように、小さく口元を緩めた。
口には出さないけれど,向かい合う二人だけの間に横たわる,静かな期待感と秘密の共有.
傍目で拓海たちの騒がしいやり取りを眺めながら,僕の胸の中には,じんわりとした温かい熱が広がっていた.
グラスの中で,氷がカランと涼しげな音を立てて溶ける.
長く苦しかった期末テストが終わり,いよいよ,すべてが動き出す夏休みが幕を開けようとしていた.




