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10年越しの君に、3度目の初恋を  作者: 蒼山水結
触れられない数ミリのジレンマ

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23/31

先輩の指南と、帰り道

大教室での男子三人の馬鹿話から数日が経った、木曜日の夕方。

僕はアルバイトのため、例の学習塾へと足を運んでいた。夏期講習が本格的に始まる前の今の時期は、期末テストの対策で駆け込んでくる生徒も多く、ブースはどこも熱気に満ちている。

担当している高校三年生の化学の指導を終え、一息つきながらスタッフルームへと戻ると、そこには文系科目を担当している三年生の先輩講師、平田さんがパイプ椅子に座って缶コーヒーを飲んでいた。


平田さんは、僕が塾に入った当初から何かと気にかけてくれる、面倒見の良い先輩だ。

明るい茶髪に爽やかなルックス、そして持ち前のコミュニケーション能力で生徒からの人気も高い。そして何より、他大学に通う読者モデルのような彼女がいるという、絵に描いたような『リア充』であった。


「おう、一ノ瀬。お疲れ。今日の授業、結構長引いてたな」

「お疲れ様です、平田さん。有機化学の構造式でどうしても引っかかるみたいで、少し延長戦をやってました」


僕がリュックを棚に置きながら答えると、平田さんは「熱心だねえ」と笑いながら缶コーヒーを揺らした。


「……あの、平田さん。ちょっと一つ、個人的な相談をしてもいいですか?」

「ん? なんだよ、改まって。大学のレポートか? それとも、ついに女の子関係の悩みか?」


冗談めかして笑う平田さんに、僕は少しだけ言い淀みながらも、今週末の予定について切り出した。


「実は今度の日曜日、大学の友達と新宿に甚平を買いに行くことになりまして」

「甚平? なんだ、どっか祭りでも行くのか」

「ええ、来月に、川崎の花火大会に行くんです。……それで、甚平なんて今まで着たことがないんで、どんなデザインのものが無難というか、似合うのか分からなくて」


僕が正直に打ち明けると、平田さんはピタッと缶コーヒーの動きを止め、少しだけ目を細めて僕の顔をまじまじと見つめてきた。

そして、口の端をニヤリと吊り上げる。


「……一ノ瀬。お前、その花火大会、まさか『男友達だけ』で行くわけじゃないよな?」

「っ……! い、いや、それは……グループで行くというか……」

「ははーん、なるほどね。さては咲良ちゃんも一緒だな?」

「なっ、なんでそこで咲良の名前が出るんですか!」


僕が慌てて声を荒らげると、平田さんは「バレバレなんだよ」と肩を揺らして笑った。


「お前らがいつも仲良く一緒に帰ってるの、スタッフの連中はみんな知ってっからな。まあいいや、そういう青春のイベントなら、先輩として一肌脱いでやるよ」


平田さんは居住まいを正し、先輩風を吹かせながら真面目なトーンで語り始めた。


「いいか一ノ瀬。甚平ってのはな、下手な色や柄を選ぶと、一気にヤンキーっぽくなるか、パジャマみたいにだらしなく見えるかの二択なんだよ。お前みたいな理系で少しおとなしめの顔立ちのやつが、派手な刺繍が入ったやつなんて着たら大事故だぞ」

「大事故……。じゃあ、どういうのがいいんですか」

「無難かつ一番カッコよく見えるのは、『濃紺』か『黒』。それに、うっすらと白やグレーの縦縞が入ってるやつだ。遠目には無地に見えるくらいがちょうどいい。これだとシュッとして見えて、大人っぽさと清潔感が出る」

「濃紺か黒の、縦縞……なるほど」


僕がスマホのメモ帳を開いて入力していると、平田さんはふふんと得意げに鼻を鳴らした。


「俺も去年、彼女と江戸川の花火大会に行った時に、濃紺の絣柄の甚平を着てったんだけどさ。あの可愛い彼女が俺を見るなり『やだ、いつもよりかっこいいかも……!』って頬赤らめて言ってきたんだぜ? もうその瞬間に俺の心の中の打ち上げ花火がドーン! って感じでさぁ」


出た。平田さん名物の惚気話だ。

一度スイッチが入ると長いことを知っている僕は、「へえ、すごいですね」と適当な相槌を打ちながらメモを続けた。


「あと気をつけろよ、足元! スリッパとかクロックスは絶対NGだ。安くてもいいから、ちゃんと下駄か雪駄を買え。歩くときにカランコロンって音が鳴るだけで、女子からのポイントは爆上がりだからな。俺の彼女も『その音、夏っぽくて好き』って腕組んできて――」


「お疲れ様です!」


平田さんの惚気話が佳境に入ろうとしたその時、スタッフルームのドアが開き、事務仕事を終えた咲良が元気よく入ってきた。


「おお、咲良ちゃんお疲れ! いやー、ちょうど今、一ノ瀬と『夏祭り』の話で盛り上がってたところだよ」

「えっ! 平田さん、余計なこと言わないでくださいよ!」


ニヤニヤと笑う平田さんに、僕は慌てて釘を刺した。

咲良は首を傾げながら、不思議そうに僕たちを交互に見比べた。


「夏祭り? 春斗くん、日曜日の買い出しの話してたの?」

「ま、まあな。先輩にちょっとアドバイスをもらってたんだ」

「ふふっ、そっか。一ノ瀬、日曜日はバッチリいい男になれるやつ選んでこいよ! 健闘を祈る!」


平田さんは僕の肩をポンと叩き、意味ありげなウインクをしてスタッフルームを出て行った。

残された僕と咲良は、顔を見合わせて小さく笑った。


「じゃあ、私たちも帰ろっか」

「ああ。外、また少し蒸し暑くなってきたな」


塾を出て、僕たちはいつもの帰り道を歩き始めた。

梅雨明けも間近に迫り、夜の空気には確かな夏の湿気が混じっている。アスファルトからは昼間の熱気がじんわりと立ち上り、街灯の光に照らされた二人の影が、つかず離れずの距離を保って伸びていた。


「……ねえ、春斗くん」


しばらく無言で歩いていた時、隣を歩く咲良がふいに口を開いた。


「蓮くんと拓海くんが日曜日に甚平買うなら、私も結衣たちと近いうちに浴衣見に行こうかなって思ってて。結衣、気合い入れて新しいの買うって言ってたし」

「ああ、そうだな。莉奈さんからのLIMEでも、そんなこと言ってたな」

「それでね」


咲良は少しだけ歩幅を小さくして、僕の顔を下から覗き込むように見上げてきた。


「春斗くんは、どんな浴衣がいいと思う?」

「……は?」

「だから、私に似合いそうな浴衣! どんな色とか、柄がいいかなって。参考に聞かせてよ」


その無邪気な質問が耳に届いた瞬間、僕の脳内で、先日の大教室で展開された『危険な妄想』のスイッチが再びガチャンと音を立てて入ってしまった。

――咲良に似合う浴衣。

白地に赤い金魚柄? いや、それは少し子供っぽすぎるかもしれない。それなら、淡い水色に朝顔の柄か? 清涼感があって彼女の明るい雰囲気にぴったりだ。でも待てよ、普段カジュアルな服装が多いからこそ、あえて大人っぽい深紅や、艶やかな漆黒を着てきたらどうなる? まとめ上げた髪のうなじと、大人びた浴衣のコントラスト……破壊力が高すぎて、直視できなくなるんじゃないか?


「……春斗くん? もしもーし」

「あっ! い、いや! なんでもない!」


目の前で咲良が手をひらひらと振っているのを見て、僕はハッと我に返った。

危ない。またしても意識が別次元へと飛んでいくところだった。僕は咳払いをして、必死に平静を装いながら答えた。


「ええと……お前、普段はパーカーとかTシャツとか、明るくて元気な色の服が多いだろ?」

「うん、そうだね」

「だから……その、あえて逆というか。濃い赤とか、深紅色みたいな、ちょっと落ち着いた大人っぽい色の浴衣とか、似合うんじゃないか? ギャップがあって、いいと思う」


僕がしどろもどろになりながらひねり出した答えを聞いて、咲良は少しだけ目を丸くした。

それから、彼女は嬉しそうに目を細め、頬をほんのりと赤く染めた。


「そっか。赤色で、大人っぽく、ね。……うん、分かった! お店でそういうの探してみる!」

「お、おう。あくまで俺の適当な意見だから、自分が着たいやつを選べばいいぞ」

「ううん、春斗くんの意見もちゃんと取り入れる。だって、せっかくみんなで行くんだしね」


咲良は楽しそうに笑い、再び前を向いて歩き始めた。

その横顔を見ながら、僕は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


やがて、いつもの交差点に到着する。ここで右と左に分かれる分岐点だ。


「じゃあ、春斗くん。日曜日の甚平の買い出し、頑張ってね! 変な柄選んだら笑うからね!」

「うるさい。平田さんのアドバイス通り、無難でかっこいいやつ選んでくるよ。お前も浴衣選び楽しんでこい」

「うん! じゃあ、また明日、大学でね!」


咲良は大きく手を振り、タワーマンションのそびえ立つ住宅街の方へと歩いていった。

僕はその背中を見送った後、自分のボロアパートへ向かって歩き出す。


一人になった帰り道。

僕は歩きながら、今日スタッフルームで平田さんが言っていたアドバイスと、さっき咲良に伝えた言葉を頭の中で反芻していた。


『無難かつ一番カッコよく見えるのは、濃紺か黒。それに縦縞が入ってるやつだ』

『濃い赤とか、深紅色みたいな、ちょっと落ち着いた大人っぽい色の浴衣とか、似合うんじゃないか?』


もし、咲良が本当に僕の言った通りの『深紅』の浴衣を選んだとしたら。

平田さんのアドバイスにある『黒』の甚平を買ってしまうと、二人とも色が重すぎて、夜の闇に沈んでしまいかねない。それに、お互いの主張が強すぎて隣を歩いた時に少しチグハグになる気がする。


「……となると、俺が買うべき甚平の正解は、『少し明るめの紺色』一択だな」


黒ほど重くなく、それでいて落ち着きのある紺地に、目立たない縦縞が入った甚平。

それなら、彼女が艶やかな深紅の浴衣を着て隣を歩いてくれた時、互いの色を引き立て合って、綺麗に馴染むはずだ。


頭の中に、具体的な自分の姿と、隣を歩く彼女の姿がはっきりと形作られていく。

夏の湿った夜風が、火照った頬を撫でていくのが心地よかった。


明後日は、新宿での買い出しだ。

期末テストもまだ終わっていないというのに、僕の頭の中は、すでに八月十一日の花火大会のことで完全に埋め尽くされていた。

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