浴衣と、甚平
作戦会議の翌日。
金曜日の三限、情報学部の講義が行われる大教室。初老の教授がマイクを握る前の、少しざわついた時間帯を狙って、僕は隣に座る蓮に声をかけた。
「なあ、蓮。来月の十一日って空いてるか? 山の日なんだけど」
「ん? 山の日? まあ、特に予定は入ってねえけど。なんだよ」
スマホの画面から視線を上げず、気怠そうに答える蓮。
僕は一つ深呼吸をしてから、昨日咲良たちと打ち合わせた通りの『建前』を口にした。
「テスト終わりの打ち上げも兼ねて、拓海と三人で川崎の花火大会に行かないかと思ってさ」
その言葉を聞いた瞬間、蓮はピクッとスマホをいじる手を止め、信じられないものを見るような目で僕を振り返った。
「……は? 花火大会?」
「おう」
「お前ら、頭湧いてんのか? なんで真夏のクソ暑い中、男三人で人混みに揉まれに行かなきゃなんねえんだよ。カップルと家族連れの巣窟だぞ。虚しすぎるだろ」
予想通りの、百点満点の嫌悪感だった。
確かに、蓮の言う通りである。普通の男子大学生が、わざわざ男だけで花火大会に足を運ぶのは少しハードルが高い。
しかし、そこはもう一人の共犯者がすかさず援護射撃に入った。
「いいじゃねえかよ。テスト明けの解放感ってやつだ」
蓮の反対側に座っていた拓海が、ニヤニヤしながら身を乗り出してくる。
「花火なんておまけみたいなもんだろ。メインは屋台のメシと雰囲気だよ。ラムネ一気飲みして、焼き鳥食って、じゃがバター食って、アホみたいに騒げればそれでいいんだって。どうせお前も、家でクーラー点けてダラダラしてるだけだろ?」
「うっ……それは、そうだけどよ」
「たまには大学生の夏休みらしいことしようぜ。な、一ノ瀬」
「ああ。俺、上京してきてからまだそういうイベント行ってないし、東京の屋台飯、食ってみたかったんだよな」
拓海の勢いと僕の『田舎者の憧れ』という完璧なコンボに、蓮は「チッ」と舌打ちをして頭を掻きむしった。
学食での結衣さんとの遭遇以来、蓮はどこか塞ぎ込みがちで、休日の予定もほとんど入れていないことを僕たちは知っていた。彼自身、テスト明けの鬱憤を晴らす機会を求めていたのだろう。
「……しゃーねえな。男三人のむさ苦しい花火鑑賞、付き合ってやるよ。その代わり、場所取りはお前らでやれよな」
「よし、決まりだ」
僕と拓海は顔を見合わせ、誰にもバレないように小さく親指を立てた。
第一段階、ターゲットの確保完了である。
「で? 花火行くなら、お前ら何着てくんだよ」
諦めたようにスマホをポケットに突っ込みながら、蓮が尋ねてきた。
「何って、普通にTシャツとジーンズとかだろ?」
「馬鹿。せっかく夏祭りに行くなら、雰囲気ってモンが大事だろうが。男なら甚平一択だろ」
「甚平? 持ってないぞ、そんなの」
「俺もないな。去年着てたやつは、ツレて破けちまったし」
拓海もそう言って肩をすくめた。
甚平か。確かに、それなら夏祭り感は出るだろう。
そういえば、いつかのカフェで咲良も言っていた。
『屋台でかき氷買ったり、浴衣着て歩いたりするの、やっぱりテンション上がるじゃん』
浴衣。
その単語が脳裏に蘇った瞬間、僕の頭の中に、ある一つの鮮明なビジョンが勝手に浮かび上がってきた。
もし当日、咲良が浴衣を着てきたら。
普段のラフなTシャツやパーカー姿とは全く違う、紺色や朝顔の柄が描かれた艶やかな浴衣姿。いつもは下ろしている髪をアップにまとめて、白いうなじが露わになっていて。人混みの中ではぐれないように、慣れない下駄で小さく歩幅を合わせながら、僕の甚平の袖をきゅっと掴んできて――。
ドクン、と心臓が跳ね上がり、急激に顔に熱が集まるのを感じた。
まずい。これは非常にまずい。
このまま思考を垂れ流せば、確実にあらゆる理性が崩壊して、良からぬ妄想の世界へと突入してしまう。僕は慌てて頭をブンブンと振り、名残惜しさを無理やり押さえ込んで、強制的に思考をシャットダウンしようとした。
「……どうした一ノ瀬、顔赤いぞ」
「な、なんでもない! ちょっと教室が暑いだけだ!」
「ふーん? まあいいや。それよりさ、やっぱ夏祭りの醍醐味って言ったら、女子の浴衣姿だよなー」
蓮がニヤリと笑いながら、腕を組んで天井を見上げた。
「普段はガサツなやつでも、浴衣着て髪まとめてるだけで三割増しで可愛く見えるもんな。あのうなじの破壊力は異常だぜ。なんであんなに色気出るんだろうな」
「分かるわー。あと、下駄で歩きにくそうにしてるのを、ちょっと気遣ってやるあの優越感な。りんご飴とか両手で持って小股で歩いてたら完璧だ。あれが夏の醍醐味だよな」
拓海も我が意を得たりとばかりに深く頷き、二人して「浴衣の女子は最高だ」というアホ丸出しの男子トークに花を咲かせ始めた。
その様子を見て、僕は一度はホッと胸を撫で下ろした。どうやら、男という生き物の脳みそは根本的に同じ構造をしているらしい。
しかし、彼らの解像度の低い「りんご飴」だの「三割増し」だのという浅いトークを聞いているうちに、僕の中で何かがぷつんと弾けた。
そんなステレオタイプな妄想じゃ甘い。浴衣の本当の破壊力は、そんなもんじゃない。
「……前言撤回。俺もその話、参戦するわ」
「おっ?」
「一ノ瀬先生、いっちゃう?」
僕が身を乗り出すと、蓮と拓海が面白そうに耳を傾けてきた。僕は一つ咳払いをして、先ほど必死にシャットダウンしようとした妄想を、堂々と声に出してプレゼンし始めた。
「普段は歩くのが早くて活発なやつが、浴衣のせいで歩幅が小さくなって、こっちの後ろをちょこちょこついてくるギャップ。あれがまず第一段階だ」
「おお、なるほど」
「そして人混みに入った時だ。はぐれないように手を出したいけど、照れくさくて手は繋げない。そこで、女子がちょっとだけ遠慮がちに、こっちの甚平の袖口をきゅっとつまんでくる。そして『はぐれそうだから、ちょっとゆっくり歩いて』って上目遣いで見上げてくる。……あれこそが至高だろ」
僕が熱弁を振るい終えると、蓮と拓海は「おおーっ」という歓声を上げるどころか、なぜかドン引きしたような、あるいは得体の知れないものを見るような目で僕をじっと見つめてきた。
「……お前、なんでそんなに解像度高いの?」
「というか一ノ瀬、お前それ、完全に誰か特定のやつ想像して喋ってねえか?」
「はっ!?」
拓海の鋭すぎるツッコミに、僕は我に返った。
しまった。咲良との妄想をそのまま出力してしまったため、あまりにもリアルで具体的なシチュエーションになってしまったのだ。
「ち、違う! これはあくまで一般論というか、俺が思う理想のシチュエーションであってだな……!」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ。むっつり系男子はこれだから恐ろしいぜ」
蓮がニヤニヤと笑いながら僕の肩を小突いた。
顔から火が出そうになっている僕のポケットの中で、スマートフォンが『ブブッ』と短く振動した。
教授が教壇に立ち、出席カードを配り始めているタイミングだったため、僕はこれ幸いとばかりにスマホを取り出し、真っ赤になった顔を隠すようにして画面を確認した。
通知画面に表示されていたのは、僕と咲良、拓海、そして莉奈の四人で作った裏のグループトーク『復縁作戦(仮)』からのメッセージだった。
送り主は莉奈。
『ターゲットA、確保完了。浴衣着ていく気満々みたいだから、そっちの男子陣もそれなりの格好させてきてよね』
その簡潔で頼もしい報告に、僕は思わず口元を緩めた。
女子側の誘い出しも、無事に成功したらしい。これで、役者は完全に揃ったことになる。
しかも、『浴衣着ていく気満々』ということは、当然、結衣さんを誘った咲良達も浴衣を着てくる確率が極めて高いということだ。
(……甚平の袖、つままれる準備しといた方がいいかもしれないな)
先ほどの自分のアホな妄想を思い出し、僕は再び顔が熱くなるのを感じた。
チラリと隣を見ると、同じグループトークに入っている拓海も、机の下でスマホの画面を見ていた。そして、莉奈からのメッセージを読んだのか、どこか嬉しそうに、ニヤリと顔を緩ませている。
「おい、一ノ瀬、拓海。何ニヤニヤしてスマホ見てんだよ。講義始まるぞ」
何も知らないターゲットBが、怪訝そうな顔で僕たちをつついた。
「悪い悪い。買い出し、日曜日の何時に新宿の東口集合にするか考えてたんだよ」
拓海がすかさず気の利いた嘘をつき、僕も「そうそう」と頷いてスマホをポケットにしまった。
「お前ら気が早いな……。日曜に行くの決まってんのかよ……。まあいいや、十三時でどうだ?」
「了解」
かくして、男三人での甚平の買い出し計画と、裏で進行する『復縁作戦』のスケジュールが決定した。
退屈だった大学の講義室の空気が、少しだけ色めき立って感じられる。
期末テストという高い壁を越えた先にある、初めての東京での夏休み。
甚平、屋台、花火、そして――浴衣姿の彼女。
断ち切ったはずの妄想が完全に現実味を帯びて迫ってきて、僕は講義への集中力を保つために、必死に黒板の図をノートに書き写し始めた。
次回は明日21時更新です.
さて春斗はどんな甚平を手にするのか,咲良はどんな浴衣を着てくるのか.
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