七夕の願いと、秘密の作戦会議
七月に入り、大学のキャンパスは少しずつ夏の熱気を帯び始めていた。
蝉の鳴き声はまだ聞こえないが、吹き抜ける風には確かな湿気と温度が含まれている。期末テストが近づくにつれて学生たちの顔には疲労と焦りが浮かび始めているが、その反面、夏休みという長大なモラトリアムへの期待感もどこかに漂っていた。
昼休みの学生ホール。
吹き抜けになった広々とした空間の一角に、見上げるほど立派な笹飾りが設置されていた。大学の生協と学生自治会が企画した七夕イベントらしく、周囲には短冊を書くための特設テーブルが用意されている。
笹の葉には、すでに色とりどりの短冊がびっしりと結びつけられており、冷房の風に吹かれてサラサラと涼しげな音を立てていた。
『無事に単位が取れますように』
『第一志望の企業から内定がもらえますように』
『彼氏ができますように!!』
「大学生の願い事って、やっぱり生々しいね」
僕の隣で笹飾りを見上げていた咲良が、くすくすと笑いながら言った。
「まあな。幼稚園児みたいに『プリキュアになれますように』なんて書く年齢でもないし」
「ねえ、春斗くん。私たちも書こうよ」
「俺たちも? いいけど……お前、何書くんだよ」
「それは書いてからのお楽しみ! ほら、短冊とペン持ってきたから」
咲良は特設テーブルから青とピンクの短冊を一枚ずつ取ってくると、青い方を僕に手渡した。
近くのベンチに座り、クリップボードを下敷きにしてペンを構える。
(願い事、か……)
チラリと隣を見ると、咲良はすでにペンを走らせていた。真剣な横顔を見ていると、僕の胸の奥底に沈めていた本当の『願い』が、ふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
――『咲良と、付き合えますように』
ペン先が、青い短冊の上でピタリと止まる。
いや、ダメだ。いくらなんでも直球すぎる。こんなものを書いているところを本人に見られでもしたら、三十センチの距離どころか、一瞬で関係が崩壊してしまう。
僕の中で強烈な理性が働き、警鐘を鳴らした。そもそも、神頼みでどうにかなるような問題じゃないのだ。
「……よしっと」
僕が躊躇している間に、咲良はさっさと書き終え、立ち上がって笹の枝にピンクの短冊を括り付けてしまった。
「春斗くん、まだ書けないの?」
「あ、ああ。今書く」
僕は慌ててペンを動かし、頭に浮かんだ一番無難な言葉を書き殴った。
短冊の紐を結びつけようと笹に近づくと、後ろから咲良がひょっこりと顔を出して僕の短冊を覗き込んだ。
「えーっと……『情報ネットワークの単位を落としませんように』? なにそれ、夢がないなー!」
「うるさい。俺にとっては死活問題なんだよ。情報学部の専門科目、エグいんだからな」
僕がむくれて言い返すと、咲良は「春斗くんらしいけどさ」とケラケラ笑った。
「でお前はなんて書いたんだよ」
「私? 私はねー……秘密」
「は? 一緒に書こうって言ったのお前だろ」
「願い事は、口に出したら叶わなくなっちゃうんだから。内緒です」
咲良は悪戯っぽく舌を出して、自分の括り付けたピンクの短冊を手で隠してしまった。風に揺れるその短冊の裏側には、一体どんな言葉が書かれているのか。少しだけ気になったが、無理に聞き出すのも野暮な気がして、僕はそれ以上追及するのをやめた。
「あ、そうだ春斗くん。ちょっとこれ見て」
咲良が笹飾りから少し離れた、学生ホールの掲示板を指差した。
そこには、周辺地域のイベント情報などを知らせるポスターが何枚か貼られている。彼女が指差した先には、夜空に大きな花火が打ち上がっている写真と、『山の日記念・川崎市民花火大会』という大きな文字が踊っていた。
「八月十一日の山の日か。……結構近くでやるんだな」
「うん。ここから電車で三十分くらいだし、テストも完全に終わってる時期でしょ? 結衣たちを誘い出す『復縁作戦』の舞台に、ぴったりじゃない?」
「なるほど。確かに、花火大会なら雰囲気も悪くないし、グループで行く口実としては自然だな」
僕はポスターの日程をスマホのカレンダーに入力しながら頷いた。
「よし、決まりだね! じゃあ、放課後に拓海くんと莉奈を呼んで、具体的な作戦会議しよっか」
「ああ。蓮と結衣さんには、まだ絶対内緒でな」
僕たちは顔を見合わせ、悪巧みをする共犯者のようにニヤリと笑い合った。
***
その日の夕方。講義を終えた僕たちは、大学近くのファミリーレストランに集まっていた。
集まったのは、僕と咲良、そして拓海と、莉奈の四人だ。
ターゲットである蓮と結衣の親友ポジションであるこの二人は、今回の『復縁作戦』において絶対に欠かせないキーパーソンだった。
「なるほどね。花火大会のグループデートを装って、あの二人をくっつけようってわけか」
運ばれてきたドリンクバーのメロンソーダをストローで混ぜながら、拓海が面白そうに口角を上げた。
「おう。蓮のやつ、学食で結衣さんと鉢合わせてから、分かりやすく引きずってるだろ」
「間違いないな。あいつ、最近スマホで結衣のSNSの裏垢らしきものをコソコソ監視してるし。未練タラタラなんだよ」
拓海の証言に、向かいに座っていた莉奈も深く頷いた。大人びた雰囲気を持つ彼女は、アイスティーのグラスを傾けながらため息をついた。
「結衣の方も同じよ。『蓮に新しい彼女できたのかな』って、不安になるたび私に絡んでくるんだから、こっちもいい加減面倒くさくて。咲良からこの話聞いた時は、やっと肩の荷が下りるって思ったわ」
「お互い気にしてるのに、本当に素直じゃないよねー」
咲良がポテトフライを摘みながら呆れたように言うと、四人の間に「やれやれ」という共通の空気が流れた。
当人たちには内緒で、外堀から完全に埋めていく。それが今回の作戦の骨組みだ。
「で、どうやって誘うの? あいつら、お互いが来るって知ったら意地張って来ないかもしれないぜ」
「だから、当日まで内緒にするの」
咲良が身を乗り出し、テーブルの中央で作戦の全貌を語り始めた。
「私と莉奈は『3人で花火見に行かない?』って結衣を誘うの。で、春斗くんと拓海くんは『テストの打ち上げで花火行くぞ』って蓮くんを引っ張り出す」
「なるほど。ノリで二人を装うわけか」
「そう! で、当日の待ち合わせ場所で偶然鉢合わせちゃった、みたいな演技をするの。そこからは、私たち四人でうまく気を利かせて、二人きりになるシチュエーションを作れば……」
「花火の雰囲気にあてられて、より戻すって算段だな。悪くねえ」
拓海がポンと手を打って賛同した。
「でも、当日鉢合わせた時に『帰る』って言い出したらどうする? 結衣、結構頑固よ」
「そこは莉奈さんが『せっかく浴衣着てきたんだから』って引き留めてください。俺たちも蓮を羽交い締めにしてでも連れて行きますから」
「分かったわ。任せて」
僕が言うと、莉奈も頼もしく頷いてくれた。
こうして、共犯者四人による『山の日・花火大会復縁作戦』の計画は、着々と現実のものになりつつあった。
「しかし、一ノ瀬と咲良ちゃんが幹事やってくれるのは助かるけどさ」
不意に、拓海がニヤニヤと笑いながら僕と咲良を交互に見比べた。
「お前ら二人も、当日いい雰囲気になったりしてな? なんだかんだで、俺たち四人もダブルデートみたいになるわけだし」
拓海のその何気ないからかいの言葉に、僕の心臓がドクンと大きく跳ねた。
隣を見ると、咲良も少しだけ目を丸くして、それから慌てたようにパタパタと手を振った。
「ち、違うよ! 私たちはただの地元の友達で、今回はあくまでキューピッド役なんだから! ね、春斗くん!」
「あ、ああ。そうだよ。俺たちは裏方に徹するだけだから」
僕も必死に平静を装って同意したが、テーブルの下で握りしめた手には、じわりと汗が滲んでいた。
復縁作戦の裏方。それは確かに事実だ。
けれど、この口実を使えば、彼女と一緒に花火大会に行ける。浴衣姿の彼女と、あの夏の夜の空気を共有できるのだ。
七夕の短冊には書けなかった本当の願いが、少しずつ形を持とうとしている。
テスト明けの八月十一日。
触れられない三十センチの距離に、また一つ、大きな波乱と期待の火種が投げ込まれようとしていた。




