テスト勉強と、夏休みの作戦会議
七月に入り、梅雨のジメジメとした空気が少しずつ夏の熱気を帯び始めた頃。
大学のキャンパスは、前期の期末テストに向けた独特のピリピリとした空気に包まれつつあった。
木曜日の午後五時。講義を終えた僕たちは、大学の最寄り駅近くにあるチェーンのカフェで、向かい合ってテスト勉強をしていた。
店内は同じようにレポートやテスト勉強に追われる大学生たちで賑わっており、適度な雑音と、エスプレッソマシンの低い稼働音が心地よい空間を作っている。
小さな丸テーブルの上には、フランス語の文法書やプリント、ノートパソコン、そして水滴のついたアイスティーとアイスコーヒーのグラスが所狭しと並べられていた。
「……うー、もう無理。フランス人、なんでこんなに動詞の活用作るの好きなの」
一時間ほどノートと睨み合っていた咲良が、ついにパタンとペンを置き、テーブルに突っ伏した。
「まだ一時間しか経ってないぞ。来週フランス語のテストだろ? 塾のバイトもあるし、今のうちにやっとかないと単位落とすぞ」
「分かってるけどさぁ。過去分詞とか半過去とか、頭がごちゃごちゃになってきちゃった」
「そこは『avoir』じゃなくて『être』を助動詞にとる例外のやつだから、主語の性に一致させなきゃいけないんだよ。最後に『e』をつけるの忘れるなよ」
「あーっ、そっか! すっかり忘れてた。……春斗くん、やっぱり教えるのうまいね」
咲良は突っ伏したまま顔だけをこちらに向け、ストローを咥えながらにへらっと笑った。
「お前なぁ……人に頼りきりでどうするんだよ」
「いいの。その代わり、春斗くんが文系科目のレポートで困ったら、私がばっちりサポートしてあげるし。持ちつ持たれつでしょ?」
「はいはい。お前がその文系のテストで苦戦してないことを祈るよ」
僕が呆れ半分で息を吐くと、咲良は「失礼な!」と笑いながら体を起こし、再びノートに向かい始めた。
僕は自分のノートパソコンを開き、情報学部のプログラミング課題に向き直る。キーボードを叩きながら、時折、斜め向かいに座る彼女の横顔を盗み見た。
真剣な表情でペンを走らせる姿は、高校時代にスマホの画面越しに見ていたものと同じだ。
特別なハプニングが起きるわけでもない。ただこうして、テスト前にカフェで一緒に勉強をして、他愛のない文句を言い合う。
そんな何気ない時間が、今の僕にとってはたまらしく居心地が良かった。
沈黙が落ちても気まずくなることはなく、お互いに自分の課題に集中できる。この三十センチの距離は、いつの間にか僕にとって一番自然なものになりつつあった。
しばらくして、咲良が大きく伸びをした。
「……ねえ、春斗くん」
「ん? なんだ、また分かんないところあったか」
「ううん。ちょっと休憩。……テスト終わったら、もう夏休みだねって思って」
咲良はグラスの水滴を指先でなぞりながら、窓の外を見やった。
曇りガラスの向こう側には、部活に向かう学生たちや、足早に駅へ向かう人々の姿が見える。
「そうだな。まあ、俺はあんまり夏休みって感じじゃないかもしれないけど」
「えっ、なんで?」
「先日、塾で夏休みの出勤希望調査の紙を出したんだよ。『出勤可能』にマルをつけた日の中から適宜調整されると思ったら、相馬塾長のやつ、俺がマルをつけたところの九割方にそのままシフトを入れやがってさ……。完全に労働力としてロックオンされてる」
「あはは! なにそれ! 相馬さん、春斗くんのこと本当に頼りにしてるもんね。ご愁傷様です」
「笑い事じゃないぞ。テスト明けからいきなり夏期講習の連勤だ」
僕がため息をつくと、咲良は面白そうに笑った後、少しだけ口をとがらせた。
「えー、もったいない。せっかく東京での初めての夏なんだから、たまには息抜きして、もっと夏らしいことしようよ」
「夏らしいこと?」
「うん。お祭りとか、花火大会とか」
咲良は楽しそうに目を細めた。
「花火、いいな。東京の花火大会って、やっぱり人がすごいのか?」
「すごいよー。隅田川とか神宮とか、歩く隙間もないくらい。でも、屋台でかき氷買ったり、浴衣着て歩いたりするの、やっぱりテンション上がるじゃん」
「浴衣ね。……まあ、たまにはそういう息抜きも悪くないな」
僕が適当に相槌を打つと、咲良は「でしょ?」と満足げに頷き、カバンの中から自分のスマートフォンを取り出した。
「実はね、さっき結衣にLIMEしてみたの」
「結衣さんに? ……ああ、例の復縁作戦か」
「そう。『七月の終わりに、みんなで花火大会に行かない?』って誘ってみたの。そしたらさっき返事が来てね」
咲良はスマホの画面を僕に向けた。
そこには、『グループで行くならいいよ。久しぶりにパーッと遊びたいし!』という結衣からのメッセージが表示されていた。
「おお、あっさり釣れたな」
「でしょ? 結衣もテスト勉強で息が詰まってるみたいだったから、タイミングバッチリだった。……というわけで」
咲良はスマホをしまい、いたずらっぽく僕を指差した。
「春斗くんには、期末テストが終わるまでに、蓮くんと拓海くんを絶対に花火大会に引っ張り出すミッションを与えます」
「俺が誘うのか。……まあ、蓮のやつも最近なんだかんだで結衣さんのこと気にしてる素振り見せてたしな。拓海も面白がってついてきそうだし」
「うん! 『テスト終わりの打ち上げ』って名目にすれば、大学生の男子なんて絶対釣れるって!」
「男子を単純な生き物みたいに言うな……。まあ、分かった。明日の講義の時にでも声かけてみるよ」
僕が引き受けると、咲良は「やった! さすが春斗くん!」と小さくガッツポーズをした。
「これで夏休みの予定は一つ決まりだね。……よし、花火大会のために、とりあえずこの地獄のテスト期間を乗り切らなきゃ」
「だな。お前はまず、その過去分詞の例外を全部覚えるところからだけどな」
「うっ……現実に戻された」
咲良は大げさに肩を落とし、再びフランス語の文法書と睨み合いを始めた。
その様子がおかしくて、僕は小さく吹き出しながらノートパソコンの画面に視線を戻した。
窓の外では、いつの間にか雲の切れ間から、眩しい夕日が差し込み始めていた。
面倒な期末テストの向こう側には、夏が待っている。
東京に来て初めての夏。お節介な『復縁作戦』という口実で、彼女と一緒に行く花火大会。
隣を歩く三十センチの距離が、夏の熱気に当てられてどんな風に変わっていくのか。
アイスコーヒーの氷がカランと鳴る音を聞きながら、僕は少しだけ早足でやってきそうな夏休みの気配を、静かに楽しみにしていた。




