梅雨の湿気と、見上げるマンション
五月が終わり、季節が六月へと足を踏み入れると、東京の街は重苦しい灰色の雲に覆われる日が多くなった。
本格的な梅雨の到来である。
海と山に囲まれた地元の亀鈴市の梅雨もそれなりに鬱陶しかったが、コンクリートジャングルである東京のそれは、また別の質の悪さを持っていた。逃げ場のない湿気がアスファルトから立ち上り、街全体が巨大なサウナのようになっている。キャンパスを歩く学生たちの足取りも重く、どこか気怠げな空気が漂っていた。
そんなジメジメとしたやる気の出ない日々の中で、僕の唯一のモチベーションとなっているのが、週に三回通っている塾でのアルバイトだった。
「一ノ瀬先生、ここのモル計算、やっぱり答えが合いません……」
「ん、見せてみろ。あー、ここで係数の掛け算忘れてるぞ。化学反応式の基本からもう一回おさらいな」
「あーっ、本当だ! 先生、ありがとうございます!」
塾講師を始めて一ヶ月。すっかり仕事にも慣れ、僕が受け持つ担当生徒は四人にまで増えていた。
初日に担当した高校二年の女の子に加え、受験を控えた高校三年の男子、そして中学生が二人。相馬塾長の読み通り、理詰めで教える僕のスタイルは理系志望の生徒たちと相性が良かったらしく、「分かりやすい」と好評を得ているらしかった。
そして何より――僕のシフトは、なぜか見事なまでに咲良の出勤日、しかも出勤時間と完璧に被っていた。
ブースから事務カウンターの方へ視線をやると、相馬塾長がニヤニヤと口角を上げてこちらを見ていた。僕がジト目で睨み返すと、彼は悪びれる様子もなく親指を立ててみせた。絶対に、あのタヌキ塾長が面白がって仕組んでいる。
九十分の授業を二コマ終え、片付けをしてスタッフルームへと戻る。
狭い休憩スペースには、他の大学生講師たちが数人集まって雑談をしていた。
「お疲れ様です」
僕が軽く頭を下げて部屋に入ると、丸机を囲んでいた先輩講師たちが笑顔で振り返った。
「おう、一ノ瀬、お疲れ! さっき相馬さんがお前のこと褒めてたぞ。一ノ瀬が担当した高校二年の子、化学の小テストで八十点取れたって」
「本当ですか。良かったです、理論化学の基礎から徹底的にやり直した甲斐がありました」
声をかけてきたのは、文系科目を担当している大学三年の先輩講師だった。
面倒見が良く、新人の僕にも教え方のコツや生徒との接し方をよくアドバイスしてくれる、頼れる先輩だ。他の講師たちも気さくな人が多く、僕の塾での人間関係は驚くほど順調に構築されていた。
「この調子だと、夏期講習は相馬さんにコマ数めっちゃ入れられるかもな。稼げるけど、大学の課題と両立すんのしんどいぞー」
「覚悟しておきます」
そんな和やかな会話をしていると、スタッフルームのドアが開き、事務仕事のキリをつけた咲良がパタパタと小走りで入ってきた。
「皆さん、お疲れ様ですー!」
途端に、部屋の空気がフワッと華やぐ。
先輩講師たちの表情が一瞬でだらしなく緩み、「咲良ちゃん、今日もお疲れ!」「この後、みんなでご飯行かない?」と次々に声をかけ始めた。咲良は持ち前の愛嬌と明るさで、講師陣のアイドル的なポジションを確立している。
しかし、咲良は彼らの誘いを「あ、ごめんなさい! 明日一限からなんで、また今度お願いします!」と見事な愛想笑いで躱すと、自分の荷物が置いてある棚へと向かい、一直線に僕の隣へとやってきた。
「春斗くん、今日もお疲れ様」
僕を見上げて微笑む彼女に、先輩たちが「えー、なんだよ」と口々に冷やかしてくる。
「一ノ瀬のところにはまっすぐ行くのかよー」
「やっぱり幼馴染の特権ズルイぞー、一ノ瀬!」
「いや、ただの地元の友達なんで。偶然シフトが被ってるだけですよ」
僕が苦笑しながら手を振って否定すると、先輩たちは「はいはい、そういうことにしておいてやるよ」「リア充は気をつけて帰れよー」と、面白そうに笑って見送ってくれた。
からかわれるのは少し気恥ずかしいが、周囲からそんな風に『公認』のように扱われるのは、内心満更でもなかった。
「よいしょっと……」
咲良はロッカーから自分のトートバッグを取り出したが、そのカバンは不自然なほどパンパンに膨らんでおり、持ち上げる彼女の腕がプルプルと震えていた。
「おい、なんだよそれ。随分重そうじゃないか」
「あはは……。大学の図書館で、来週のレポート用の専門書を借りてきちゃって。ハードカバーばかり五冊もあるから、石でも入ってるみたいに重いの」
咲良は「ふう」と息を吐きながら、ずっしりと重いバッグを両手で抱え直した。
「そんなの持って歩いて帰るのか? 絶対無理だろ。肩凝るぞ」
「うーん……でも、気合いで持って帰るしかないし」
「バカ言え。……貸せよ。俺の自転車のカゴ、結構デカいから入るだろ。今日は家まで送るよ」
僕は彼女から、半ば強引にトートバッグを受け取った。ズシッと確かな重量感が腕に伝わる。こんなものを華奢な彼女に持たせるわけにはいかない。
「えっ……でも、春斗くんのアパートとは逆方向になっちゃうよ?」
「いいって。空も怪しいし、雨降る前に帰るぞ」
「……ふふっ、ありがとう。春斗くん、やっぱり優しいね」
外に出ると、どんよりとした曇り空から、今にも雨が降り出しそうな湿った生ぬるい風が吹いていた。
駐輪場で自転車のロックを外し、フロントカゴに彼女の重いバッグを斜めに押し込む。
僕が自転車のハンドルを握って歩き出すと、咲良は嬉しそうに僕の隣に並んだ。
梅雨特有の湿った夜風の中、二人並んで歩く。
自転車のタイヤがアスファルトを擦る音と、遠くを走る車のエンジン音だけが、BGMのように響いていた。
「あ、そうだ。例の『復縁作戦』の件なんだけど、結衣の方から少し動きがあってさ」
「動き?」
「うん。結衣ね、最近LIMEのアイコン変えたんだけど、それが高校時代に蓮くんと一緒に行った水族館のクラゲの写真だったの」
「……匂わせってやつか。分かりにくいな」
「それが乙女心なの! だから、こっちから『夏休みにみんなで遊びに行かない?』って誘いを出してみようと思って。もちろん、蓮くんがいることは当日まで内緒でね」
咲良は楽しそうに、復縁作戦――という名目の、僕たちを含めたグループデートの計画――を語り始めた。
僕も適当に相槌を打ちながら、彼女の横顔を眺める。
こんな風に、アルバイト終わりに他愛のない話をしながら並んで歩く時間は、僕にとって何事にも代えがたい大切な日常になりつつあった。
塾という新しい居場所で先輩たちともうまくやれているし、彼女との距離も少しずつ縮まっている。すべてが順調に進んでいるように思えた。
いつもの別れ道の交差点を越え、咲良の案内に従って、僕は初めて彼女の住むエリアへと足を踏み入れた。
最寄り駅から少し離れた、閑静で明らかに地価の高そうな住宅街。
落ち着いた街並みの中を十分ほど歩いた時、咲良が「あ、ここだよ」と立ち止まった。
「ここ……って」
僕は自転車を停め、目の前にそびえ立つ巨大な建造物を見上げた。
思わず、口が半開きになる。
そこにあったのは、一般的な大学生が住むようなアパートや学生マンションではなかった。
エントランスにはホテルのような広々とした車寄せがあり、間接照明に照らされた大理石の壁が鈍く輝いている。見上げれば、首が痛くなるほど高くそびえ立つ、ガラス張りの立派な高層タワーマンションだった。
エントランスの奥には、コンシェルジュらしき制服姿の人影まで見える。
「……お前、ここに住んでるのか?」
「うん。うち、小学校の時に家族でこっちに引っ越してきてから、ずっとここなの。お父さんもお兄ちゃんも、ここから会社に通ってるよ」
咲良は悪びれる様子もなく、事も無げにそう言った。
頭を殴られたような衝撃だった。
彼女が小学校の時に亀鈴市から東京へ引っ越してしまったことは、昔から知っていた。
しかし、高校時代、四百キロメートルの距離を隔ててスマートフォンでやり取りをしていた時、六インチの液晶画面には、彼女の顔と、背景の白い壁くらいしか映っていなかったのだ。
六インチの画面は、彼女の背後にあるこの圧倒的な「大理石のエントランス」を、僕に教えてはくれなかった。
「春斗くん? どうしたの?」
「あ、いや……なんでもない。ちょっと、想像以上にすげえマンションだったから」
僕は誤魔化すように苦笑いをして、自転車のカゴから重いトートバッグを取り出した。
エントランスの自動ドアが開き、涼しく乾燥した空調の風が吹き出してくる。僕のアパートの、カビ臭いエアコンの風とは全く違う匂いがした。
「ここまででいいか?」
「うん、ありがとう。本当に助かっちゃった」
咲良はバッグを受け取ると、無邪気な笑顔を向けてきた。
「気をつけて帰ってね。また明日、大学で」
「おう。じゃあな」
彼女の背中が、高級ホテルのようなエントランスの奥へと消えていく。オートロックの重厚なガラス扉が静かに閉まると、僕は再び蒸し暑い夜の空気に取り残された。
見上げてみる。
立ち並ぶ無数の部屋の明かり。はるか上空にあるその光の一つに、彼女は帰っていくのだ。
築三十年、家賃五万円、オートロックなど当然ない六畳一間のアパートに帰る僕とは、住んでいる世界が、根底から違う。
小学校から東京で育ち、このタワーマンションを「家」と呼ぶ彼女。
つい二ヶ月前にキャリーケース一つで上京してきたばかりの、田舎者の僕。
塾での順調な人間関係も、さっきまでの和やかな帰り道の余韻も、すべてが幻だったかのように色褪せていく。
僕と彼女の間には、物理的な三十センチの距離の隙間に、決して埋めることのできない巨大な『見えない壁』がいくつも存在している。
それをはっきりと突きつけられたような気がして、僕はひどく惨めな気持ちになった。
「……帰ろう」
誰に言うでもなく呟き、僕は自転車のペダルを強く踏み込んだ。
帰り道、ポツリ、ポツリと、冷たい雨粒が頬を打つ。
梅雨の夜空は、僕の鬱屈とした心を映し出すように、ついにその重たい涙をこぼし始めていた。顔を濡らす雨を拭おうともせず、僕はただ無心で、暗い夜道を走り続けた。




