不機嫌な元カレと、過去を知る友人
「私たちで、あの二人をもう一度くっつける手伝い、できないかな?」
学食のテーブルで、フランス語の教科書を挟んで向かい合いながら、咲良はいたずらっぽく、それでいて少しだけ真剣な瞳でそう提案してきた。
僕はその突拍子もない『復縁作戦』に対して、「少し考えさせてくれ」とだけ答えて学食を後にした。
咲良は午後の講義がないため、そのまま大学の図書館へ向かい、僕は情報学部の専門科目が行われる別棟の大きな講義棟へと足を向けた。
五月の乾いた風が、キャンパスの並木を揺らして通り過ぎていく。初夏特有の、少しだけ肌を刺すような強い日差しがアスファルトに照り返していた。
一人になってキャンパスを歩いていると、先ほどの学食での出来事が、じわじわと時間差で僕の心を苛み始めた。
――『ち、違うよ! 違うから! 地元の友達で、たまたま学食で会うから一緒に食べてるだけ!』
咲良の友人たちに向けられた、あの全力の否定。
顔を真っ赤にして、両手を振って、僕と恋人関係にあることをこれ以上ないほど明確に拒絶したあの姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
もちろん、彼女の言っていることは事実だ。僕たちは付き合っていないし、周りから見れば「ただの地元の幼馴染」でしかない。彼女がああやって否定するのは、火のない所に煙を立てないための、ごく真っ当な自己防衛だ。
頭では理解している。理解しているはずなのに、胸の奥には鋭い棘が刺さったように、ズキズキとした鈍い痛みが残っていた。
「……たまたま、か」
僕は小さく自嘲気味に呟き、足元の小石を軽く蹴り飛ばした。小石はカラカラと乾いた音を立てて、植え込みの中へと消えていった。
毎晩「明日のお昼どうする?」と連絡を取り合い、学食の同じ窓際の席で待ち合わせをしている事実を、彼女は『たまたま』という便利な言葉で上書きしてしまった。
それがひどく寂しくて、同時に、自分がいかに彼女との三十センチの距離に甘え、浮かれていたのかを思い知らされた。
それに、先ほどの遭遇劇で、僕はもう一つ、ある決定的な事実を突きつけられていた。
咲良の隣にいた、莉奈という大人びた雰囲気の友人。彼女は、咲良と同じ高校の出身だと言っていた。そして、修羅場を引き起こした結衣というショートボブの女子大生は、僕の友人である蓮や拓海と同じ高校の出身だ。
彼らは皆、この東京にある高校に通い、この巨大な街で青春時代を過ごしてきた。
中学時代に亀鈴市から東京へと引っ越してしまった咲良は、この街の高校で莉奈という親友を作り、新しいコミュニティを築き上げていた。結衣や蓮たちも同じだ。彼らには、僕の知らない東京での数年間の歴史があり、共通の話題があり、繋がっている人間関係のネットワークがある。
この中で、地方の田舎町からキャリーケースを一つ引いて上京してきたばかりの「部外者」は、僕だけだったのだ。
高校時代、僕と咲良の間には四百キロメートルという絶対的な距離が横たわっていた。
それは単なる物理的な距離にとどまらず、過ごしてきた時間の質や、見ている景色の違いという、どうしようもない経験の差を生み出していた。
今、こうして同じ大学のキャンパスを歩き、三十センチの距離に並んで歩けるようになっても、ふとした瞬間にその見えない壁が姿を現す。
彼女の東京での日常に、僕という存在は本当に必要なのだろうか。ただの「昔馴染み」というノスタルジーに過ぎないのではないか。
そんな鬱屈とした思考を抱えたまま、僕は専門科目の大教室へと足を踏み入れた。
階段状になった広い教室の後方。中央より少し後ろの列に、見慣れた二人の男の姿があった。
「よお」
僕が隣の空いているパイプ椅子にカバンを置きながら声をかけると、拓海は「おう、一ノ瀬」と軽く手を挙げて応えた。
しかし、その隣に座っている蓮は、腕を深く組んだまま机を睨みつけ、チッと短く舌打ちをして露骨に顔をしかめた。学食での出来事から一時間近く経っているというのに、蓮の機嫌は全く直っていないらしい。絶え間なく貧乏ゆすりを続け、机の上のスマホを意味もなく乱暴にスワイプし続けている。
「……お前、分かりやすく機嫌悪いな」
「うるせえ。誰のせいだと思ってんだよ。まさか大学入ってまで、あいつの顔見ることになるとは思わなかったぜ」
「俺のせいって言われてもな。俺だって、咲良の友達がお前の元カノだなんて知らなかったんだから」
僕が肩をすくめて言うと、蓮は「分かってるよ」と低く唸り、机に突っ伏してしまった。
金髪混じりの明るい茶髪に、少し派手なストリート系のファッション。普段は誰よりも口数が多いお調子者の蓮が、ここまで目に見えて落ち込み、苛立っている姿を見るのは初めてだった。
やがて、初老の教授がマイクを持って教壇に立ち、プロジェクターにスライドが投影され始めた。
今日の講義は『アルゴリズムとデータ構造』。C言語を用いたポインタと配列の複雑な処理について、教授が単調な声で解説を始める。
開始から二十分ほど経ち、教室内に静かなタイピング音とあくびの気配が充満し始めた頃だった。ずっと机に突っ伏していた蓮が、ふいにガバッと顔を上げた。
「……わりぃ、腹いてぇ。ちょっとトイレ行ってくるわ」
「あ、おい。出席カード回ってきたらどうするんだよ」
「適当に出しといてくれ。しばらく戻んねえかも」
蓮はそう言い残し、青白い顔をして足早に教室の後ろのドアから出て行ってしまった。
学食での元カノとの遭遇が、よほど胃腸にダイレクトなストレスを与えたらしい。
パタン、と重い防音ドアが閉まる音を見届けた後、残された僕と拓海は顔を見合わせて小さくため息をついた。
僕はスライドのソースコードをノートパソコンに打ち込みながら、隣の拓海に小声で尋ねた。
「……なあ、拓海。蓮とあの結衣さんって、高校時代、何があったんだ? 学食で別れたって言ってたけど」
「ん? ああ……そういや一ノ瀬は、今日初めて知ったんだもんな」
拓海はシャープペンシルを指先で器用にくるくると回しながら、少しだけ声を潜めた。
「蓮も結衣も俺と同じ高校だったんだ。あいつら、高二の秋から付き合っててさ。俺たちの高校の中じゃ、結構有名なバカップルだったんだよ。蓮のやつ、ああ見えて結衣のことめちゃくちゃ大事にしてたし、結衣の方も蓮にベタ惚れだった。俺なんて、いっつも二人のノロケ聞かされて、昼飯の時とか肩身狭かったからな」
「へえ……。あの学食の氷点下みたいな険悪な空気からは、全然想像つかないな」
「だろ? 俺だって、あいつらが別れるなんて思ってもみなかったよ。でも、高三の冬くらいから、お互い大学受験のプレッシャーで余裕がなくなってきてさ。些細なことですぐ言い合いになることが増えたんだよな」
拓海の口から語られる過去は、どこにでもあるような、けれど当人たちにとってはひどく苦しい「すれ違い」の歴史だった。
「で、今年の三月。なんとかお互い大学の合格発表が終わって、これからまた遊べるぞって時に、卒業旅行の行き先で揉めて大喧嘩になったんだ」
「卒業旅行の行き先?」
「そう。結衣はテーマパークに行きたいって言って、蓮は温泉でのんびりしたいって言って。本当はただの受験明けの八つ当たりだったと思うんだけど、お互い意地張って引っ込みがつかなくなってさ。そのまま勢いで『私のこと全然分かってない!』『じゃあもう別れる!』ってなっちまったんだよ」
拓海は呆れたように息を吐き出し、ノートに無意味な落書きを始めた。
「……なんか、もったいないな。お互い、嫌いになって別れたわけじゃないんだろ?」
「そうなんだよ。完全に売り言葉に買い言葉。だから、あいつら絶対まだお互いのこと気にしてるはずなんだ。現に、今日学食で結衣の顔見た時の蓮の動揺っぷり、ヤバかっただろ? 本当にどうでもいい相手なら、あんなに腹痛めるほどストレス感じねえっての。結衣だって、蓮に新しい彼女がいないか、共通の友達にこっそり探り入れてるらしいしな」
「素直じゃないよな、あいつら」と、拓海は苦笑交じりに言った。
(素直じゃない、か……)
僕はパソコンのキーボードから手を離し、暗いモニターの端に映る自分の顔をぼんやりと見つめた。
それは、蓮と結衣のことだけを言っているのではないような気がした。
僕だってそうだ。三十センチの安全な距離を守るために、必死に「ただの幼馴染」という仮面を被って、素直な気持ちを隠し続けている。
『彼氏じゃないから』と否定されて傷ついたくせに、自分からは決して「彼女になってほしい」と言い出す勇気がない。
もし、このまま意地を張って、自分の本当の気持ちに蓋をし続けたら。何かの拍子でこの三十センチの距離が崩れてしまった時、僕も蓮たちのようなどうしようもない「後悔」を抱えて生きることになるのだろうか。
東京という街で、新しい友達に囲まれてどんどん先へ進んでいく彼女を、遠くから見つめることしかできなくなるのだろうか。
「……なあ、拓海」
「ん?」
「もしさ。誰かが外からちょっとだけ背中を押してやったら、あの二人、またくっつく可能性はあると思うか?」
僕が尋ねると、拓海は少しだけ驚いたように目を丸くし、それから面白そうに口角を上げた。
「さあな。でも、お互い自分から連絡するプライドが邪魔してるだけだからな。外堀から埋めて逃げ場をなくしてやれば、案外コロッと素直になるかもな。……なんだ一ノ瀬、お前、一肌脱ごうってのか?」
「いや、俺の連れが、そういうお節介を焼きたがっててさ。結衣さんの方も、まだ未練があるんじゃないかって言ってたから」
僕が苦笑しながら答えると、拓海は「なるほどね」と納得したように深く頷いた。
「いいんじゃねえの? 咲良ちゃんだっけ。一ノ瀬の彼女が協力してくれるなら、結衣の方も動きやすいだろ。女子のネットワークの方が、そういうの強いし」
「だから、俺の彼女じゃないって。ただの地元の友達だ。それ以上でも以下でもない」
僕は慌てて否定し、モニターに向き直った。
拓海は「はいはい、そういうことにしておいてやるよ」と、ニヤニヤ笑いを全く隠そうとしなかった。
またしても痛いところを突かれ、僕は胸に刺さった見えない杭をさらに深く押し込まれたような気分になった。周囲から見れば、僕の強がりなど、蓮のそれと同じくらい滑稽に映っているのだろう。
咲良が提案した、復縁作戦。
ただのお節介と言ってしまえばそれまでだが、不器用な二人の背中を押すことは、もしかすると僕自身が「次の一歩」を踏み出すための、何かのきっかけになるのかもしれない。
東京というこの巨大な街で、彼女の隣に立ち続けるための、正当な理由。
授業が終わる十分前、すっかり顔色の良くなった蓮が「ふう、スッキリしたぜ」とお腹をさすりながら教室に戻ってきた時、僕の腹はすでに決まっていた。
教授が講義の終了を告げるチャイムと同時に、僕はポケットからスマートフォンを取り出し、アプリを開いた。
トーク履歴のトップに固定されている、見慣れた桜のアイコン。
『さっきの作戦の件、乗るよ。蓮の方もまだ未練タラタラみたいだから、上手くいくかも』
短いメッセージを打ち込み、送信ボタンをタップする。
画面を閉じようとしたその数秒後、すぐに『既読』の文字がつき、ポップなスタンプと共に返信が飛び込んできた。
『ほんと!? やったー! じゃあ、結衣の説得は私に任せて! 今夜、作戦会議しよ!』
その文面から伝わってくる彼女の弾んだ声に、僕の口元は自然と緩んでいた。
刺さった杭の痛みは、まだ少しだけ残っている。けれど、彼女と一緒に同じ目標に向かって進めるという事実が、僕の足取りを確かに前へと進ませてくれた。
夏の気配が忍び寄る五月の終わり。
僕たちの三十センチの距離に、新たな波乱と、そして言い訳に満ちた「共犯関係」が生まれようとしていた。




