不出来な家庭教師と、波乱のランチタイム
昨夜の帰り道、「私にはあんなに優しく教えてくれたことないのに」と不満げに呟いた咲良の横顔が、ベッドに入ってからもずっと頭から離れなかった。
あれは間違いなく、嫉妬だった。
地元の幼馴染という安全圏にいたはずの彼女が、僕と他の女子(たとえそれが教え子であっても)が親しげにしているのを見て、面白くないと感じてくれた。その事実だけで、僕の心臓は狂ったように早鐘を打ち、おかげで今日の午前中の講義はほとんど頭に入ってこなかった。
昼休み。いつものように学食の窓際の席で向かい合い、日替わり定食を食べ終えた後のことだった。
「ねえ、春斗くん。これ、教えてよ」
食後のアイスティーを飲んでいた僕の目の前に、ドンッと分厚い教科書が置かれた。
「ん? フランス語の文法書か」
「うん。来週小テストがあるんだけど、動詞の活用が複雑すぎて全然分かんないの。春斗くんもフランス語選択でしょ? 先生なんだから教えてよ」
咲良は少し上目遣いで、ノートとペンを僕の方へと押しやってきた。
大学の第二外国語は、受講者が多いため学部や学籍番号でクラスが分かれているが、僕も咲良と同じフランス語を選択し、同じ教科書を使っている。
「先生って言うな。まあ、俺も来週テストだし、復習がてらならいいけど」
「やった、ありがとう! 特にこの『不規則動詞』ってやつが意味不明でさ」
咲良はそう言うと、向かいの席から立ち上がり、わざわざ僕の隣の空いている椅子へと移動してきた。
トスッ、と軽い音を立てて隣に座る彼女。
途端に、距離が三十センチから十センチへと縮まる。昨日と同じ、ほんのりと甘い柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐり、僕の背筋は一瞬で丸太のように硬直した。
「ええと、ここは最初につまずくところだな。基本の『être』と『avoir』は理屈じゃなくて一覧表を丸暗記するしかないんだよ。英語でいうbe動詞とhaveなんだけど……」
僕は必死に平常心を装い、わざと淡々とした、抑揚のない事務的な声で解説を始めた。
少しでも気を抜けば、声が上ずって動揺がバレてしまうからだ。
「主語によって全部形が変わるから、まずは『Je suis』『Tu es』って、口に出してリズムで覚えるんだ。ほら、ノートに書き写して」
「う、うん。ジュ・スイ……テュ、エ……。なんか、春斗くん、教え方がすごく……スパルタというか、冷たくない?」
「冷たくない。これが普通だ。ほら、次は『Il est』だ」
「えー、もっとゆっくりでいいじゃん」
咲良はノートにペンを走らせながら、僕の顔をじっと覗き込んできた。
至近距離で見つめられ、心臓が肋骨を突き破りそうなほどの音を立てる。それを悟られまいと、僕はさらに表情を固くして、わざとらしく視線を教科書に固定した。
「ほら、手ェ止まってるぞ。次行くからな」
「……」
僕のそっけない態度に、咲良はアイスティーのストローをツンツンと指で弾きながら、これ見よがしに唇を尖らせた。
「……春斗くん、本当に教えるのはうまいのにさ」
「ん、まあな。伊達に塾講師の面接一発パスしてないだろ」
「でも、女子高生が相手じゃないと、やる気出ないんでしょ?」
「……は?」
「昨日の方がずっと楽しそうに教えてたもんね。私には全然、あんな風に優しく笑いかけてくれないのに。声も低いし、目も合わせてくれないし」
出た。昨日の夜の爆弾発言の蒸し返しだ。
わざと意地悪を言っているのか、それとも本気で不満に思っているのか。どちらにせよ、隣からそんな拗ねたような声を出されて、僕が平気でいられるわけがない。内心では「お前が近すぎて直視できないだけだ!」と叫びたかったが、もちろん言えるはずもなかった。
「ち、違うって! 俺はただ、仕事だからあの子の緊張をほぐそうとしてただけで……! お前にはもう緊張をほぐす必要もないだろ!」
「ふふっ、冗談だよ。ほら先生、顔真っ赤にしてないで続き教えて?」
「……っ、うるさい。いいから次! 『aller』の活用書くぞ!」
完全に彼女のペースに乗せられ、僕がしどろもどろになりながら解説を再開しようとした、不意に横から明るい声が降ってきた。
「あー! 咲良、こんなところにいた!」
顔を上げると、咲良と同じような華やかな雰囲気を持った女子大生が二人、トレイを持って立っていた。咲良と同じ学部の友人たちだろう。
「あ、結衣! 莉奈も。お疲れ様」
咲良が笑顔で手を振る。
声をかけてきたショートボブの女子――結衣と呼ばれた彼女は、隣同士で座って一つの教科書を覗き込んでいる僕と咲良を交互に見比べ、ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべた。
「もしかして、お邪魔だった? 咲良、最近お昼一緒に食べてくれないと思ったら……なるほどねー。こちらが噂の彼氏さん?」
「ち、違うよ! 違うから! 昔からの友達で、たまたま学食で会うから一緒に食べてるだけ!」
咲良は顔を真っ赤にして、両手をブンブンと振って全力で否定した。
その瞬間。
僕の胸の奥に、見えない太い杭が、思いっきりブッ刺さった。
――『違うから!』
――『たまたま学食で会うから一緒に食べてるだけ!』
分かっている。それが正解だ。僕たちは付き合っていないのだから、彼女のその弁明は100%正しい。
だが、他人の前で、あれほどまでに必死に、全力で「彼氏じゃない」「ただの友達」と否定されると、想像以上のダメージだった。
『たまたま』なんかじゃない。毎晩LIMEで時間を合わせて、一緒に食べるのを楽しみにしていたのは、僕だけだったのだろうか。
「えー、ほんとにぃ? 地元の友達にフランス語教えてもらってたの? なんかめっちゃ距離近くない?」
「う、うるさいなぁもう! ここ空いてるから、二人とも座ってよ!」
胸に深々と刺さった杭の痛みに耐えながら、僕も這うような声で「ただの友達です」と頭を下げた。
咲良に促され、友人二人が僕たちの向かいの席に腰を下ろした瞬間だった。
「おっ、一ノ瀬。お前こんなところで……って、げっ」
今度は僕の背後から、聞き慣れた男の声がした。
振り返ると、蓮が、唐揚げ定食の乗ったトレイを持って立っていた。(その後ろには、同じく友人の拓海の姿もあったが、彼も怪訝そうな顔をしている)
「蓮。お前も今から昼飯か?」
僕が声をかけた途端、蓮の動きがピタリと止まった。
彼の視線は、僕ではなく、僕の向かいに座ったばかりのショートボブの女子――結衣に釘付けになっていた。
そして、結衣の方もまた、目を見開いて蓮を凝視し、持っていたお箸をカタンと机に落とした。
「……なんで、アンタがここにいるのよ」
「俺のセリフだろ。一ノ瀬に声かけたら、たまたまお前がいただけだ」
結衣の低い声と、古屋の露骨に嫌そうな声。
先ほどまでの女子大生特有の華やかな空気は一瞬にして凍りつき、氷点下のようなピリピリとした空気がテーブルを支配した。
「えっと……蓮、結衣さんのこと知ってるのか?」
僕が恐る恐る尋ねると、蓮は深いため息をつき、結衣から顔を背けた。
「……高校の時の、元カノ」
「は……?」
「最悪。なんで大学入ってまでこいつの顔見なきゃいけないのよ。咲良、ごめん、私やっぱりあっちの席行くわ」
結衣は立ち上がり、トレイを持って足早に別のテーブルへと去ってしまった。もう一人の友人である莉奈が、慌てて「あ、ちょっと結衣!」と後を追っていく。
残されたのは、気まずそうに頭を掻く蓮と、後ろで目を丸くしている拓海、そして呆然としている僕と咲良だけだった。
「……悪い、一ノ瀬。邪魔したな。俺らも別の席行くわ」
「いや、俺は別にいいけど……お前ら、高校の時から付き合ってて、同じ大学に入ったのか?」
「まあな。でも、入学直前に些細なことで大喧嘩して、そのまま別れたんだよ。学部も違うし会うことはないと思ってたんだけど……まさか、お前の連れがアイツの友達だったとはな」
蓮はうんざりしたように肩をすくめ、「じゃあな」と言って、拓海と共に足早に去っていった。
嵐のように現れて、嵐のように去っていった友人たち。
僕と咲良は、フランス語の教科書が開かれたままのテーブルで、しばらくの間ぽかんと顔を見合わせていた。胸に刺さった「ただの友達」の杭の痛みすら、一時的に麻痺してしまうほどの衝撃だった。
「……春斗くんの友達だったんだ、結衣の元カレさん」
「俺も今知った。……世間って、狭いな」
「うん……びっくりした」
ほんの数分前まで、僕たちは「昨日の教え子への嫉妬」という、平和で甘酸っぱい駆け引きをしていたはずだった。
しかし、思いがけない元カップルの遭遇劇によって、その空気は完全に吹き飛んでしまった。
「……あの二人、すごく険悪だったね」
「まあ、別れたばっかりならあんなもんだろ」
僕が適当に相槌を打つと、咲良は少しだけ真剣な表情になって、僕の目を見た。
「ねえ、春斗くん。結衣、あんな態度とってたけど、たまに元カレの話する時、ちょっと寂しそうなんだよね。本当はまだ、未練があるんじゃないかな」
「……嫌な予感がするんだけど、それってまさか」
「私たちで、あの二人をもう一度くっつける手伝い、できないかな?」
咲良の瞳が、いたずらっぽく、そして少しだけ期待を込めて輝いている。
平和な三十センチの距離に、新たな波乱が巻き起こる予感がした。
人間関係において咲良はいわゆる「みんなで仲良く」タイプです.
それに対して春斗は「最小限」タイプ.
なので割と真逆な二人です.




