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10年越しの君に、3度目の初恋を  作者: 蒼山水結
隣を歩く30センチの戸惑い

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初めての教え子と、不機嫌な事務員

そして迎えた翌週。僕の塾講師としての初出勤日。

アパートから自転車を走らせ、駐輪場に停める。少しだけ緊張しながら塾のガラス戸を開けると、受付カウンターの奥からパタパタと小気味良い足音が近づいてきた。


「あ、春斗くん! お疲れ様!」


少しトーンの高い、よく通る澄んだ声。

事務用のネームプレートを胸につけた咲良が、満面の笑みで出迎えてくれた。

大学で見かける私服とは違う、少しフォーマルな白のブラウスに薄手のカーディガンを羽織った彼女の姿は、ひどく新鮮で、いつもより少しだけ大人びて見えた。


「お疲れ。……なんか、その格好新鮮だな。ちゃんと仕事できそうな感じがする」

「もう、一言余計だよ! 私だってちゃんと事務のお仕事こなしてるんだから。……あ、塾長さん! 春斗くん来ましたよ!」


咲良の声に応えて、奥の面接ブースから相馬さんが顔を出した。

今日もシャツの袖をまくり上げ、いかにも頼れる兄貴分といった爽やかな笑顔を浮かべている。


「おっ、一ノ瀬くん。今日からよろしくな。早速だけど、これが今日から君が担当する生徒のカルテね」


手渡されたバインダーを受け取り、僕はそこに書かれた生徒のプロフィールに目を通した。


『高校二年・女子・理系志望(化学・数学)』


その文字を見て、僕は思わず顔を上げた。


「あの、女の子、ですか」

「ん? そうだけど。あれ、不満だった?」

「いえ、不満というわけじゃ……ただ、初めての担当ですし、てっきり同性の男子生徒からスタートするものだとばかり思っていたので。僕で大丈夫なのかなと」


個別指導塾において、特に初めて教壇(というよりはブースの机だが)に立つ新人講師には、同性の生徒をあてがうのがセオリーだと聞いたことがあった。異性の生徒だと、距離感の取り方やコミュニケーションで不要な気を遣うことが多いからだ。


僕がそう尋ねると、相馬さんは「あー」と少しだけ視線を逸らし、大げさに頷いた。


「本来はそうなんだけどね。この子、化学のモル計算とか理論分野が本当に苦手でさ。理系特有の論理的なアプローチで、一から丁寧に教えてくれる先生がいいって希望があって。一ノ瀬くんみたいに情報系で理詰めの教え方ができそうな先生なら、絶対に適任だと思ってね」

「はあ、そういうことなら……」


相馬さんは爽やかな笑顔でそう言い切ったが、その目の奥がほんの少しだけ悪戯っぽく笑っていたのを、僕は見逃さなかった。

チラリと視線を横に向ければ、受付カウンターに座る咲良の姿が目に入る。

(……絶対、面白がってるだろ、この人)

事務員として働く咲良の目の前で、僕にあえて女子高生を担当させる。それがこの食えない塾長の策略だとしたら、とんでもないタヌキ親父ならぬタヌキ兄貴である。


「まあまあ、気負わずに! 相手も大人しい子だからさ。一ノ瀬くんの教え方が合えば、そのまま一年間固定の担任になってもらうからね。期待してるよ」


ポンと肩を叩かれ、僕は半ば押し切られるようにして指定されたブースへと向かった。


授業開始のチャイムが鳴る。

待っていたのは、少し緊張した面持ちで化学の参考書を開いている女子高生だった。


「初めまして。今日から化学と数学を担当する一ノ瀬です。よろしくね」

「あっ、よろしくお願いします……」


挨拶を交わし、彼女の苦手だという理論化学の分野から解説を始める。

最初は緊張でガチガチだった彼女だが、僕が高校時代に使っていた独自の語呂合わせや、情報系のアルゴリズムにも通じる「問題を解くための手順化」を教えると、次第に表情が和らいでいった。


「あ、なるほど……! ここ、学校の先生の説明だと全然分からなかったんですけど、そうやって順番に考えればいいんですね」

「そうそう。化学の計算って複雑に見えるけど、結局はパズルの組み立てと同じだから。このパーツをどこに嵌めるかだけ意識すれば、案外スッキリ解けるようになるよ」

「すごい、分かりやすいです!」


パァッと明るい笑顔を見せる女子高生。

人に何かを教え、理解してもらえる瞬間というのは、想像以上に気分が良いものだ。パソコンの画面と睨み合ってエラーを吐き出すプログラムを修正している時とは違う、生身の人間相手ならではの確かなやりがいがあった。


ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた事務カウンターから、咲良がこちらをじっと見つめていた。

パソコンでデータ入力をしているはずなのに、その手は完全に止まっている。

目があった瞬間、彼女は「ビクッ」と肩を揺らし、慌てたように視線をモニターへと戻して、バチバチとわざとらしいほどの勢いでキーボードを叩き始めた。


(……なんだ? 俺、何か変な教え方してたか?)

首を傾げつつも、僕は再び目の前の生徒の指導に戻った。


九十分の授業が終わり、初日の業務が無事に終了した。

生徒を見送った後、塾長と話をしていた。


「お疲れ様。初日からしっかりやってたね。生徒も『すごく分かりやすかった』って喜んで帰っていったよ」

「ありがとうございます。なんとかやり切れました」

「うんうん。……それにしても、一ノ瀬くんは教え方が優しいから、女の子ウケも良さそうだねぇ」


相馬さんがニヤリと笑いながら僕の肩を小突く。その視線の先には、帰り支度をしてこちらに向かってくる咲良の姿があった。間違いない、この人は全て分かっていて楽しんでいる。


「春斗くん、お疲れ様」

「お疲れ。どうだった、俺の初授業」


相馬さんに軽く会釈をし、咲良と一緒に塾を出る。

夜の帳が下りた街を、僕は自転車を押しながら彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。初夏の生ぬるい夜風が、頭の中の熱を少しずつ冷ましていく。


「うん……すごく、先生っぽかったよ」


咲良の返事は、どこか歯切れが悪かった。

横顔を覗き込むと、彼女は少しだけ唇を尖らせて、足元のタイルの目地をなぞるように歩いている。


「なんだよ。事務員さんから見て、何かダメ出しがあるなら遠慮なく言ってくれ。初日だし、改善点は早めに直したい」

「ダメ出しなんてないよ。教え方も上手だったし、あの子も楽しそうに笑ってたし。……相馬さんも、すごくいい先生だって褒めてたしね」

「ならいいけど。まあ、なんとかやっていけそうで安心したよ」


僕がホッと息をつくと、咲良はふいに行き足を止め、僕を見上げた。


「……なんか、楽しそうだったね」

「え?」

「高校生の女の子と、すごく仲良さそうに話してたから。……私には、あんなに優しく勉強教えてくれたことないのに」


静かな夜道に、彼女の少しすねたような声が響いた。

僕は自転車のブレーキを握りしめたまま、完全に固まってしまった。


街灯の光に照らされた彼女の瞳が、かすかに揺れている。

それは、どう見ても、どう聞いても。

『嫉妬』という感情に他ならなかった。


「いや、あの子は生徒で、俺は講師だから……優しく丁寧に教えるのは、仕事というか……」

「分かってるよ、それくらい。……でも、なんかちょっとズルいなって思っただけ」


咲良は小さくそっぽを向き、再び歩き出した。

僕は心臓が警鐘を鳴らすのを聞きながら、慌てて自転車を押して彼女の背中を追う。


ただの地元の友達。

お互いにそう思っているはずなのに。

不意に見せられた彼女の不機嫌な横顔は、僕の三十センチの安全圏を、いとも容易く破壊してしまったのだ。

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