頼れる兄貴分と、見透かされた下心
ゴールデンウィークが明け、大学のキャンパスは再び日常の喧騒を取り戻していた。
五月半ばの夕方。講義を終えた僕は、一旦アパートに戻って白のワイシャツとスラックスという少し硬い服装に着替え、自転車に跨って咲良の指定した場所へと向かっていた。
今日はいよいよ、咲良が事務のアルバイトをしている学習塾での面接日だ。
「理系の先生が足りないらしいから絶対大丈夫」と彼女は太鼓判を押してくれていたが、だからといって緊張しないわけがない。初めてのアルバイト面接。しかも、想い人と同じ職場で働くための絶対に負けられない戦いなのだ。
アパートから自転車で二十分弱。ギリギリ通勤圏内であることは、昨夜のうちに地図アプリで確認済みだった。
駅から数分歩いたビルの二階。
ガラス張りのドアの向こうから、活気のある声が聞こえてきた。
深呼吸を一つして、ドアを開ける。
「こんにちはー! 面接の子だよね?」
出迎えてくれたのは、想像していた「塾長」のイメージとは少し違う男性だった。
年齢は三十代前半くらいだろうか。アイロンの効いたシャツの袖を肘までまくり上げ、少し日に焼けた快活な笑顔を向けてくる。厳格な教育者というよりは、部活の面倒見の良いOBのような、頼れる兄貴分といった雰囲気だ。
「あ、はい。本日面接のお時間を頂戴しております、一ノ瀬と申します」
「硬い硬い! リラックスしてよ。俺がここの塾長の相馬。咲良ちゃんから話は聞いてるよ。まあ、とりあえず奥のブースで話そうか」
相馬さんは気さくに僕の肩を叩き、パーテーションで区切られた面接ブースへと案内してくれた。
チラリと周囲を見渡したが、今日は咲良はシフトが入っていないのか、事務スペースに彼女の姿は見当たらなかった。
「じゃあ、履歴書見せてもらえるかな」
「はい。よろしくお願いします」
向かい合って座り、クリアファイルから履歴書を取り出して渡す。
相馬さんはそれにざっと目を通すと、「おっ」と小さく声を上げた。
「情報系なんだね。高校の数学は当然として……化学もいける?」
「はい。受験で使いましたし、基礎的な内容なら問題ありません。あとは情報系の学部なので、プログラミングや情報の科目の質問にもある程度は対応できると思います」
「マジで!? それめちゃくちゃ助かる!」
相馬さんはバンッと机を叩いて身を乗り出した。
「実は今、高校生の化学を見られる講師が不足しててさ。それに情報の授業もこれから需要が増えるし、即戦力として期待しちゃうな。……うちの塾は講師と生徒が固定になる『担任制』の個別指導なんだけど、来週から早速、化学希望の高校生の担当を持ってもらってもいいかな?」
「はい、頑張ります」
「よし、ばっちり採用! 咲良ちゃんのお兄ちゃんも昔うちで講師やってくれててさ、あいつも優秀だったけど、一ノ瀬くんもすごく頼りになりそうだ」
相馬さんはそう言って、口元をニッと吊り上げた。
ただの面接官としての笑顔ではない。どこか面白がっているような、何かを見透かしているような、少し意味深な笑みだ。
「しかし、なるほどねぇ」
「えっ?」
「いやいや。咲良ちゃんがわざわざ『すごく優秀で、教えるのが上手な友達がいるんです』って力説して連れてきたからさ。どんな奴が来るのかと思ってたけど……うん、なんとなく分かったわ」
相馬さんはペンをくるくると回しながら、僕の顔と履歴書を交互に見て、フッと息を漏らすように笑った。
「咲良ちゃん、うちの塾でも中学生の男子とか若手の講師から結構人気があってさ。受付にいるだけで雰囲気が明るくなるから、塾長としてはすごくありがたいんだけど……まあ、変な虫がつかないか、少し心配してたんだよね」
「……」
「でも、君みたいなしっかりした『お友達』が同じシフトに入ってくれたら、俺も安心だなーって思って」
相馬さんの目は、完全に僕の内心――咲良への下心――を見抜いて笑っていた。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「ただの友達です」と否定するべきか。しかし、ここでムキになって否定すれば、余計に怪しまれるのは目に見えている。僕は顔が熱くなるのを感じながら、必死に平静を装って頭を下げた。
「……微力ながら、塾の戦力になれるよう頑張ります」
「ははは! 模範解答だね。うん、よろしく頼むよ」
相馬さんは満足そうに頷き、ポンッと僕の肩を叩いた。
こうして、僕の初めてのアルバイト面接は嵐のように過ぎ去り、無事に採用を勝ち取った。
塾を出て、駐輪場から自転車を引き出す。
夕暮れの街を、ペダルは漕がずにゆっくりと歩き始めた。
ポケットの中のスマホが短く震える。
画面を見ると、咲良からメッセージが届いていた。
『春斗くん、面接お疲れ様! どうだった?』
『来週から早速授業だって。相馬さん、いい人そうだな』
『でしょ! 採用おめでとう! これから同じ職場だね、よろしく!』
同じ職場。
大学のキャンパスという非日常だけでなく、アルバイトという日常の中にも、彼女との接点が生まれたのだ。
高校時代、四百キロメートルの距離に阻まれていた僕たちの関係は、今、確実に新しいステージへと進んでいる。
この三十センチの距離を、いつかゼロにする日まで。
僕の三度目の初恋は、静かに、けれど熱を帯びて加速し始めていた。




