夕暮れのゆりかもめと、心地よい沈黙
ショッピングモールを出る頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
海風は昼間の熱気を帯びたものから、少しだけひんやりとした心地よい涼しさへと変わっている。東京湾の水面が夕日を反射して、オレンジ色の無数の鱗のようにキラキラと揺れていた。
遠くに見える高層ビル群には、少しずつ夜を告げる明かりが灯り始めている。
「あー、楽しかった! いっぱい歩いたね」
駅へと向かう遊歩道を歩きながら、咲良が両手を大きく上に伸ばして背伸びをした。
ヒールのパンプスを履いている彼女と並んで歩くと、やはり視線の高さはほとんど変わらない。夕陽に照らされた彼女の横顔が、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「そうだな。足、痛くなってないか? 慣れないヒールでずっと歩き回ってたし」
「ん、ちょっとだけ疲れたかも。でも、それ以上に楽しかったから全然平気!」
強がるように笑う彼女の小さなショルダーバッグで、今日買ったばかりの桜色のキーホルダーがカチャカチャと揺れている。
僕のリュックのポケットの中にも、お揃いのブルーのガラス玉が入っている。たったそれだけの事実が、僕の足取りを不思議なほど軽くしていた。
お台場海浜公園駅から乗り込んだ帰りの『ゆりかもめ』は、遊び疲れた家族連れやカップルで適度に混雑していた。
僕たちは運良く、横並びの座席に二人並んで座ることができた。
ガタン、ゴトンと、規則的な揺れが心地よく体を包み込む。
行きのようなテンションの高い会話は、もう僕たちの間にはなかった。けれど、それが気まずいわけではない。むしろ、言葉を交わさなくても隣にいるだけで安心できるような、そんな柔らかく温かい沈黙がそこにはあった。
車窓を流れる景色は、昼間の鮮やかな青から、ノスタルジックなオレンジ色へと変わっている。
巨大なレインボーブリッジのシルエットが、夕空にくっきりと浮かび上がっていた。
「……海、綺麗だったね」
不意に、隣に座る咲良がぽつりと呟いた。
窓の外を見つめる彼女の肩が、電車の揺れに合わせて時折僕の二の腕に触れる。
「そうだな。亀鈴の海とは、やっぱり全然違ったけど」
「うん。でも、私、今日の海も好きだな。……春斗くんと一緒に来られたし」
ドキリ、と心臓が大きく跳ねた。
彼女は相変わらず窓の外を見たまま、さも当然のことのようにそんな台詞を口にする。
それが「地元の仲の良い友達と一緒に来られて楽しかった」という意味なのか、それ以上の意味が含まれているのか、僕には到底判断がつかなかった。ただ、彼女の口から無防備に放たれる「一緒に」という言葉の響きが、僕の理性をどうしようもなく揺さぶる。
「……俺も、楽しかったよ。一人でアパートに引きこもって求人サイト睨んでるより、ずっと有意義な休みになった」
「ふふっ、でしょ? 私の完璧な東京案内に感謝してよね」
「はいはい、ありがとうございます」
僕が軽く肩をすくめると、咲良は満足そうにくすくすと笑った。
やがて、暮れゆく東京の景色をぼんやりと眺めているうちに、隣から規則的な小さな寝息が聞こえてきた。
そっと横目で盗み見ると、咲良は腕を組んだまま、コクリコクリと頭を揺らして眠りに落ちていた。
ヒールを履いて僕と目線が同じくらいになっていても、座ってしまえば彼女の体はやはり女の子らしく華奢で小さい。電車のカーブに合わせて、彼女の頭が僕の肩の数センチ手前まで傾き、また元に戻る。
(……無防備すぎるだろ)
僕は小さくため息をつき、少しだけ姿勢を崩して、自分の左肩を意図的に彼女の方へと寄せた。
次の大きな揺れが来た瞬間。
コトン、と。
咲良の頭が、僕の肩に小さく預けられた。
「……ん」
彼女は寝言のような微かな声を漏らし、そのまま僕の肩にすり寄るようにして再び深い寝息を立て始めた。
いつもなら香るはずの甘い匂いは、今日一日海辺を歩き回ったせいか、微かに潮風の匂いが混じっているように感じられた。
肩越しに伝わってくる、彼女の柔らかな髪の感触。そして、薄手のシャツ越しにじわりと伝わってくる、確かな体温と規則的な息遣い。
それが生々しいほどに彼女の存在を主張していて、僕は全身を硬直させた。息をするのさえ忘れそうになりながら、ただひたすらに前を向いて座り続ける。心臓の音がうるさすぎて、彼女を起してしまうのではないかと本気で心配になった。
ほんの少し前まで、僕と彼女の間には四百キロメートルという絶望的な距離があった。
スマホの画面越しにしか触れられなかった彼女が今、僕の肩に寄りかかって、無防備な寝息を立てている。
この奇跡みたいな状況を、誰が想像できただろうか。
(やっぱり、この距離は……心臓に悪すぎる)
でも、決して離れたくはなかった。
窓ガラスに映る自分の顔が、どうしようもなく緩んでいるのが分かった。
新橋駅での乗り換えを経て、僕たちが巨大なターミナル駅へと戻ってきた頃には、空は完全に暗くなり、東京の街は煌びやかなネオンの光に包まれていた。
朝のあの絶望的な地下迷宮も、今は不思議と息苦しさを感じない。隣に彼女がいてくれるだけで、この巨大な街が少しだけ自分の味方になってくれたような気がした。
「ごめんね、私、帰りの電車でずっと寝ちゃってたよね……」
改札口に向かう途中、咲良が恥ずかしそうに眉を下げた。頬が少しだけ赤いのは、寝起きのせいだろうか。
「別に。歩き疲れてたんだろ。それに、俺も少し寝てたし」
「ほんと? よかったぁ。……春斗くんの肩、すごく寝心地よかったから、つい爆睡しちゃった」
「っ……お前な、そういうこと他の奴には絶対言うなよ」
「え? なんで?」
きょとんとする咲良からそっぽを向き、僕は「いいから」とだけ言って誤魔化した。
本当に、この天然な幼馴染には敵わない。
「それじゃあ、気をつけて帰れよ。バイトの件、また塾長さんから返事来たら教えてくれ」
「うん! 連絡来たらすぐ伝えるね。今日は本当にありがとう、春斗くん」
咲良は僕に向かって大きく手を振り、笑顔で改札の向こうの人の波へと消えていった。
彼女の姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、僕も自分の帰路についた。
最寄り駅から数分歩き、閑静な住宅街にある自分のアパートに帰り着く。
鍵を開けて暗い部屋に入ると、朝出かけた時と何も変わらない、静かで孤独なワンルームが僕を出迎えた。
冷蔵庫の低いモーター音だけが響く空間。
けれど、リュックのポケットから取り出した小さなブルーのガラス玉を見つめていると、部屋の温度が少しだけ上がったような気がした。
机の上にそれをそっと置き、僕はベッドに倒れ込んだ。
まだ右肩に、彼女の頭の確かな重みと、服越しに伝わってきた温もりが残っているような気がした。
ゴールデンウィークの初デート。
そして、同じ塾でのアルバイトという新しい約束。
僕たちの日常は、確実に新しいフェーズへと突入していた。
この心地よくて危険な三十センチの距離が、これから僕をどこへ連れて行くのか。不安よりも、期待の方がずっと大きく胸の中で膨らんでいた。
ゴールデンウィークも終わり,再び日常生活へと戻る二人.
突然転がり込んだアルバイト先の紹介は吉か凶か.
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