第8章 戴冠まで三十八時間――四千人を数え直せ
1.四枚の訂正文に、四千人の選択を
同じ一文を、四つの版へ寸分違わず組む。
四地区は、名を問わず隣人を庇った。
ただし、最初に揃えるのは活字ではなかった。
校正局の黒板へ書いただけの案を、エルゼが止めた。
「この文は、もう事実ですか」
厨房区では名を聞かず食事を渡した。診療区では腕輪のない負傷者を入れた。工房区と避難区にも似た記録がある。
「『似ている』では足りません」とレイは言った。「時刻も対象も違う。四地区という主語を、今の四地区で確かめます」
千点を集める前に、点にならない四つの行動が要る。
四地区の立会記録が、伝達版へ順に届く。レイは証言を一件ずつ読み上げさせた。
厨房区。東門から来た女が共同炉の前で座り込み、地区札も戸籍票も出せぬまま吐いた。パウラは何も尋ねず麦湯を口元へ運び、女が飲み込んでから救護係を呼んだ。
診療区。寝台係が廊下の長椅子を外へ出し、誰の家族か分からない火傷の男を空いた場所へ寝かせた。意識がなく、名は尋ねようがない。
工房区。犬猿の仲の鋳掛屋二軒が、境の防火板をつないだ。片方の親方は隣の名を呼ばず、「あっちの炉へ火を回したら、こっちも寝覚めが悪い」とだけ言った。
避難区。閉門後に親子が来た。門番は身分札より先に内扉を開け、風の当たらない側へ二人を入れた。確認は後だった。
各現場に市民公証人と観察者二人が立ち、時刻、場所、行為、名を先に条件にしなかったことを別紙へ書いた。
四件の先行行動に関わった人々を、最終候補名簿から外した。
「なぜです」とパウラが聞いた。
「この人々は、まだこの文を読んでいません。行動が文より先です」
彼らは文を判断根拠にしていない。文を真実にする証拠にはなっても、定説の黒点にはならない。
四つの証明書がそろってから、レイは黒板の文をもう一度読んだ。
四地区は、名を問わず隣人を庇った。
大きな理想ではない。
各地区で少なくとも一人が、名を先に条件にせず、別の一人を危険から遠ざけた。版の封印記録には、その範囲を明記した。
その時点で初めて、同じ活字を四枚へ組んだ。
表面の文字は同じ。
裏面の対象欄だけが違う。
厨房区。診療区。工房区。避難区。
四枚を窓へ重ねると、一行の文字は黒く重なる。裏返せば、四つの対象欄は別々の場所を指した。同じ文に見えることと、同じ版であることは違う。
一枚でも千人に届かなければ、王冠の集成枠は閉じない。千人を越えても、別地区と同じ人物が混じれば二枚目の点は無効になる。
校正局の床へ、四地区の候補名簿を並べた。
各千二百人。
青、緑、黄、灰の地区札を一人一色だけ渡す。戸籍名があれば名で、なければ公証人の固有番号で照合する。実名を新聞へ載せるかは、札へ書かない。
照合の予行で、最初の重複が出た。
北区の登録名、マルタ・セイ。
南区の職人名、槌のマル。
二枚の札は別人に見えたが、同じ女性だった。結婚前の戸籍名と工房の呼び名。騙すつもりはなく、二地区から頼まれて二枚とも受け取っていた。
「どちらが本当の名前です」と帳簿係が聞いた。
「どっちも私だよ」
「戸籍名を優先します」
「工房じゃ、戸籍名で呼ばれても振り向かない」
レイは二枚を没収しなかった。
「本人は一人です。数える地区を選んでください」
「北には母がいる。南には弟子がいる」
「助ける行動は、両方でできます」
「点だけ一つ?」
「はい」
マルタは黄色い札を残した。
「母は、私が点にならなくても食堂へ入れるんだね」
「入れます」
「なら南。弟子は扉の仕組みを知らない」
青い札へ、参加行動は有効、黒点算入なしと印をつける。
青札を返しても、北で母へ食事を運ぶ権利は消えない。点にしないことと、行動を無駄にすることを、レイは同じ欄へ入れなかった。
次は、同じ名を持つ別人が三組出た。
ヨハンが二人。ノアが三人。姓のないヨハクと、古紙店でヨハクと呼ばれる老人。
名前だけを数えても、一人には届かない。
顔、年齢、地区札の指印、本人が選んだ対象地区を組み合わせる。指を失った職人には、掌の工具痕と二人の証言を使う。
「名を問わない文なのに、名簿より大変」とミラが言った。
「名がない人を一人と数えるには、手間がかかります」
「王子一人なら早い」
「いま、その速さを直しています」
「一人が二地区を助けたら?」とミラが聞いた。
「行動は止めません。黒点へ数える地区を一つにします」
「助けた分が無駄になる」
「事実は無駄になりません。版の認証へ重ねないだけです」
ヨハクが青と灰の札を重ねた。
「僕、どこ」
「紙面搬送なので、候補名簿から外れます」とシオンが言った。「校正班が自分の版へ黒点を出せば、監査の独立性を疑われる」
「守っても、数えない?」
「守ることはできる。点にしない」
ヨハクは二枚を元へ戻した。
「分かった」
オスカーが四地区の設備図を壁へ留めた。
「文だけでは防壁強度が足りない。行為を既設設備へ結ぶ」
厨房区では、食料庫と共同炉を開く。名を照合する前に、水と食事を渡す。
診療区では、腕輪のない負傷者も寝台へ入れる。患者同士が運搬と場所の交換を行う。
工房区では、家ごとの防火扉を一列につなぐ。自分の工房だけ閉じれば、隣家へ火と白雨が回る。隣の作業場まで一緒に庇う。
避難区では、四つの鉛扉を順番に開く。入ってから名と人数を確かめる。
「善意を測る試験ではない」とオスカーは言った。「設備を実際に動かし、その判断に文を使った人を数える」
「善人でなくてもいい?」
パウラが厨房区の名簿を受け取りながら尋ねた。
「嫌いな隣人でも、扉を開ければ一人です」とレイが答えた。
「あとで喧嘩しても?」
「閉める前に入れた事実は消えません」
「その説明なら信じられる」
信じる必要はない。行動と記録が一致すればよい。
四地区の版は、予備を一枚ずつ作った。
最初の版が壊れても、黒点は予備へ移らない。紙、判断、行動をゼロからやり直す。「予備」が人の選択まで複写できるように読まれぬよう、レイは注意書きへ二重線を引いた。
午前零時、地域責任者との訓練が始まった。
最初の誤りは、また王子の名だった。
「殿下の命令で扉を開けます」
「無効です」とレイは言った。
「命令がなければ責任を取れない」
「誰が中へ入るかを見て、あなたが判断してください」
「事故があったら」
「訓練責任は共同合意にあります。開ける判断はあなたにある」
「王子の承認を一言」
アレンは責任者の前へ出た。
「私の名を理由にしないでほしい」
「しかし殿下」
「王子の命令で名のない人を入れるなら、次の王が命じなければ追い出すことになる。誰を入れるかは、あなたが決めてくれ」
最後の頼みまで、王子の命令になりかけた。
レイは伝達版を止めた。
「最後の一文を削ります」
「なぜ」
「『決めてくれ』は依頼です。拒む人が、王子へ逆らった形になります」
アレンは言い直した。
「私の承認は不要だ。以上」
短くなるほど、責任者の前へ判断の余白が戻った。
イレーナは工房区の版を組んでいた。
左手で活字を拾い、右の指先で字間を測る。拘束腕輪の鎖は植字台へ固定され、護衛は一歩後ろ。作業監督と逃走監視を混同しない距離だった。
「『隣人』が浮く」
彼女は試し刷りをレイへ見せた。
隣の二字だけ、他より濃い。
「印圧が高い?」
「活字、古い」
「交換を」
「新しい字、王立印刷局」
王家の物は使わない、と言っている。
「同じ規格なら、出所は記録します。使うかはあなたが決めてください」
イレーナは新しい活字を手に取り、底の高さを確かめた。
「削る」
「規格を合わせるため?」
「王家の字、高すぎる」
職人と政治、二つの批評が同じ一言へ収まった。
夜明け前、四地区それぞれの本版と予備版が完成した。
王立印刷局の封印官と市民公証人が、文字、対象欄、先行四件の証明番号を照合する。午前四時五十二分、本版四枚と予備四枚を元版封印した。以後、一字でも動かせば黒点は無効になる。
黒点はまだゼロ。
予定を、人の行動として先取りしなかった。
最初の認証は、工房区。
固定印刷機と防火扉が最も近く、失敗時に住民を退避させやすい。候補千二百人へ一人一枚の認証紙を先に渡し、そのうち千人が文を判断材料にして、路地をまたぐ防火設備をつなぐ計画だった。
一人ずつ工房区版を読み、四地区の証明書を見て、意味を自分の言葉で答える。その事実を判断に使うと決めた者だけが路地へ出る。隣の防火設備をつなぎ、観察者二人が紙の裏へ印を入れる。
読む。理解する。選ぶ。行う。
どれか一つでも他人へ預ければ、その紙は黒点にならない。
午前五時二十分、住民を安全区画へ集める。
ミラが印刷機の輪へ手を置いた。
「千枚。千人。一枚ずつ」
「紙の数を、人の数にしないでください」とレイが言った。
「分かってる」
イレーナが版の位置を直した。
「分かってない手」
「何が」
「急いでる」
「急いでるわよ。あと二十八時間」
「速い手、紙を二枚取る」
ミラは給紙台へ一枚ずつ目盛りをつけた。
「これなら?」
「少しまし」
ハンナが砂糖を噛み、固定機の留め具を確認した。
「失敗したら機械を捨てる。人を戻しに行くな。版も拾うな」
「版は必要です」とレイが言った。
「予備がある。人に予備はない」
午前五時三十分。
最初の一枚が、まだ白い朝へ刷り出された。
2.紙は千枚、人は八百十二人
千枚目の紙が吐き出され、歓声が先に千へ届いた。
レイが見ていたのは、人ではなく版の縁だった。
黒点は、八百十二。
「止めて」
印刷機の音に消えた。
「ミラ、止めて!」
ハンナが駆動帯を義手で掴んだ。革が真鍮を擦り、焦げた臭いを上げる。
機械が止まった。
「何枚?」とミラが聞いた。
「千です」
「点は」
「八百十二」
工房区の責任者が紙束を数え直した。
「全部配った。署名もある」
「同じ人が複数使っています」
「一人一枚にした」
「原本を」
回収した認証票を床へ広げる。
札はすべて黄色で、番号も千個ある。表面だけなら重複はない。
レイは番号ではなく、札の縁を見た。
七百番台から切断面が同じだ。一枚の紙からまとめて切った跡。番号は違っても、筆圧と指の油染みが同じ間隔で繰り返す。
「誰が配りました」
若い組合員が前へ出た。
「班長ごとに束を渡した。一人ずつ回す時間がなくて」
「班長が、部下の番号まで判断した」
「全員、扉をつないだ。嘘じゃない」
「行動した人と、文を判断へ使った人が違います」
「班長が代表したら駄目なのか」
「定説は代表者を千人へ水増ししません。必要なのは別人千人です」
組合員は紙束を見た。
「百八十八人、足りない?」
「少なくとも」
「今から本人を呼んで読ませる」
「行動はもう終わっています。同じ文を、次の判断へ使わせる必要があります」
「扉をもう一度外す?」
「安全確認をしてから」
組合員が返事をする前に、地面が白くなった。
雪ではない。
路地の目地から、濡れた白紙が芽吹いていた。
固定印刷機の版へ、別の文字が浮いた。
王子は傷つかない。
王子は民を飢えさせない。
王子は決して敗れない。
王子は白雨からすべての子どもを救った。
四つの旧文が、工房区の主語を押し潰す。
「全員退避!」
ハンナの声が路地を走った。
住民は安全区画にいる。だが各工房の班長が、道具を取りに戻ろうとした。
「火を落としてない!」
「活字箱が!」
「捨てろ! 人だけ西路へ!」
白紙が防火扉へ巻きついた。
隣家とつないだ鉄棒を外し、一軒ずつ閉じようとする。自分の工房だけ守る形へ戻せば、古い文は王子一人の守りとして成立してしまう。
イレーナが版を外そうとした。
護衛が鎖を引く。
「危険です!」
「版」
「置いていく命令です」
「誰の」
護衛が詰まった。
イレーナは版へ手を伸ばす。
レイが間へ入った。
「予備があります。ここへ戻れば、あなたを記事の証拠と同じ扱いにします」
イレーナの指が止まった。
「人に予備、ない」
「はい」
彼女は自分で後ろへ下がった。
ミラが印刷機の版胴へ飛びつく。
「固定機を切り離せば、白紙が路地へ広がらない!」
「離れろ!」とハンナが叫ぶ。
「駆動帯だけ!」
ミラは刃物で革帯を切る。一本目が跳ね、頬をかすめた。二本目へ刃を入れた時、白紙が給紙台から噴き出した。
ハンナの義手が襟を掴む。
ミラを投げるように安全側へ引いた。
固定印刷機が、巨大な白い繭に包まれた。
中で版が過熱する。鉛が低く鳴り、縁から赤くなる。
「版を封印!」とシオンが言った。
元版片の細剣を路面へ突き立てる。
白紙の流れを切り、封印布を投げる。布は半分まで被さったが、下から紙の手が何本も出た。
王子は傷つかない。
紙の手はアレンを探していた。
彼は安全区画の入口で、逃げ遅れた住民を先に通していた。
「殿下、下がって!」とシオンが叫ぶ。
アレンは周囲を見た。
自分へ紙を集めれば、住民から離せる。
その考えが顔へ出た。
「使わせません」
レイは彼の前へ立った。
「私を囮にすれば」
「王子が全員を救った文になります」
「では、どうする」
「道を空けてください。目立たないで」
王子にできる最も難しい仕事だった。
アレンは頭巾を深く被り、壁際へ退いた。
紙の手が目標を失う。
ハンナが防災庫の手動遮断機へ走った。真鍮の腕を差し込み、歯車を逆へ回す。
工房区の防火扉が、一斉に開いた。
「開けたら白紙が抜ける!」と組合員が叫ぶ。
「閉じ込めたら圧が上がる! 隣の空き路地へ流す!」
扉の向こうは退避済みだった。
白紙の奔流が空の路地へ抜ける。シオンが最後の継ぎ目を切り、封印布を引いた。
固定機が布の中で燃えた。
火は白く、煙だけが黒かった。
午前七時、路地は無人だった。
負傷はミラの頬とハンナの真鍮掌だけ。住民は全員退避した。
固定印刷機は失われた。
工房区版も、鉛が溶けて読めない。
八百十二の黒点は版とともに消えた。
安全区画に拍手はなかった。皆、焼けた機械とゼロの計数板を見た。
「俺たちは、やらなかったことになるのか」
耐圧板を運んだ老職人が言った。
「行動記録は残ります」とレイは答えた。
「防壁には残らない」
「はい」
「じゃあ、王冠にとっては何もしてないのと同じだ」
「王冠版の認証には使えません」
「言い方を変えただけだ」
レイは否定できなかった。
八百十二人は実際に隣家へ手を伸ばした。行動ではなく、班長を代表にし、紙と人を取り違えた手順が失敗した。
だが魔法は、善意だけを拾って慰めてはくれない。
「もう一度やれ、と言うのか」
「強制しません」
「時間がないんだろ」
「それでも、断れます」
老職人は白く焼けた路地を見た。
「断ったら、王都が割れるかもしれない」
「その負担を隠しません。断った人数と足りない点を公表し、別の人を探します」
「王子が頼みに来る?」
「来させません」
「あんたは頼む?」
レイは答える前に、自分の立場を確かめた。
共同校正の本文担当。
失敗した手順を作った一人。
「協力を頼みます。断っても、避難所と食事から外しません」
老職人は黄色い札を返した。
「今は断る。家の屋根を見てくる」
「記録します」
その隣で、若い弟子が札を残した。
「俺は、もう一回やる」
「親方と違っても?」
「親方の点じゃない。俺のだろ」
同じ失敗から別々に選んだ。どちらも一人と記録した。
「予備へ移せませんか」
組合員が聞いた。
「移しません」とレイは答えた。
「八百十二人は、本当に扉をつないだ」
「その事実は残ります。認証はゼロからです」
「時間がない」
「だから、間違えた点を使っていい理由にはなりません」
ミラは、輪の止まった印刷機を見ていた。
自分の手で何千枚も刷った機械だ。大輪は熱で歪み、もう一行も送れない。
イレーナが灰の中から、焼けた一枚を鉗子で拾った。
「紙、千。人、八百十二」
「分かってる」とミラが言った。
「今、分かった手」
ミラは頬の血を袖で拭いた。
「次は、人を数える」
イレーナは焼けた紙を証拠袋へ入れた。
「次、ある」
ハンナが防災庫の扉を開いた。
中には、小さな印刷機があった。
四輪の荷台に載せた、二人回しの手動式。固定機を失う災害まで想定し、五年前から保管されていた。オスカーの増設記録にあった移動印刷機だ。
その横に、工房区の予備版がある。
予備版の黒点は、容赦なくゼロだった。
時刻は午前七時三十分。
戴冠まで、二十六時間半だった。
3.信じるのはあとでいい。まず中へ入れ
足りなかったのは、百八十八人ではない。
一人の判断を、班長へ預けても一人ぶんになると考えた。
紙を配れば、受け取った人が同じ行動をしたと考えた。
千を急ぎ、誰が何を選んだかを紙の裏へ隠した。
レイは焼けた版の前で、認証手順へ一本の斜線を引いた。
「次は、人へ先に文を渡します」
地区札の表へ、四つの欄を作る。
読んだ、または聞いた。
意味を確かめた。
選んだ。
行った。
最初に認証紙を一枚渡す。候補者は同文を読み、または正確に聞き、四地区の先行四件を事実として理解する。それを判断材料にすると自分で選び、目の前の人を入れる、運ぶ、分ける。観察者二人が四欄を別々に確かめ、紙を版へ戻す。
「文字を読めない人は」と工房区の責任者が聞いた。
「読み上げます。意味を本人の言葉で確かめる」
「声を出せない人は」
「指差しでも、実際の行動でも確認します」
「名前がない人は」
「地区札の番号で一人です」
名簿に間に合わなかった者のため、エルゼが追加番号を封印した。地区ごとに連番を分け、他地区との重複は中央で照合する。
「手続きが増えた」とオスカーが言った。「一人あたり平均四十二秒。千人で十一時間四十分。複線化しなければ間に合わない」
「何列」
「八列。誤照合率を一パーセント未満にするなら、各列に公証人一、観察者二」
「人は」
「確保済み」
オスカーは失敗を責めない。条件が変わったから、計算を変えた。
午前八時、移動印刷機が工房区を出た。
ハンナが荷台を引き、アレンと組合員が押す。王子の白髪には煤を塗った。気づいた者が名を呼ぶ前に、ミラが叫ぶ。
「今日は王子の記事じゃない! 見るのは隣!」
命令ではない。視線の向きを、一度だけ隣へ戻す声だった。
工房区の再認証は、路地の安全確認が終わるまで開始できない。
その間に、残る三地区を動かした。
厨房区では、王立食料庫の前へ二つの列ができた。
名簿を持つ者。
何も持たない者。
庫番は、何も持たない列を後へ回した。
「先に人数を確かめないと、足りなくなる」
「誰へ足りなくなるんです」とレイが聞いた。
「登録済みの住民へ」
「目の前の人は」
「旅人かもしれない」
「空腹です」
「それだけでは」
列の最後で、ノアが木椀を持っていた。
五日前、青印のせいで食べられなかった子どもだ。今日は厨房区の青札を胸につけている。
読み上げ係が、ノアの認証紙を指で追った。
「四つの地区で、名前を先に聞かず、そばの人を守った人がいた。これを聞いて、どうするかはノアが決める」
「前にやった人が、いる?」
「四地区にいる。やらない人もいる」
ノアはもう一度聞いた。王子が配る話ではないこと、食べ物だけでなく寝台や扉も含むことを、自分の言葉で返した。
自分の番で、ノアは受け取ったパンを半分に割った。
何も持たない列の老人へ渡す。
「名前、聞かないのか」と庫番が言った。
「聞いたら、パン増える?」
「増えない」
「じゃあ、先に渡す」
ノアの札へ、四つの穴が一つずつ開く。
聞いた。理解した。選んだ。行った。
版へ黒点が一つ浮く。
庫番は、登録済みの列、名のない列、残る袋を見比べた。
彼の手にも、先に認証紙が渡されていた。
「四地区で一度できたから、ここでも足りると言うのか」
「足りるとは書いていません」と読み上げ係が答えた。
「なら、食料の数は俺が見る」
「一人一杯。両方、交互に入れ」
自分で言った。
庫番自身が二つの列から一人ずつ炉へ通し、同じ量の麦粥を二つの椀へ注いだ。観察者二人が四欄を確認する。
二つ目の黒点。
正午、厨房区は六百八十四。
午後二時、九百四十。
最後の六十人を集めるため、パウラは食堂の裏口を開けた。働いていない者へ渡すなと反対した料理人もいた。ジルは切れた前掛けを縫い、入口に立った。
「俺は鍋に食われかけて、その間は働いてない。食べて戻った」
反対した料理人は、しばらく彼の木札を見た。
それから、裏口の閂を外した。
列には、発声できない染物職人もいた。
認証係が読むと、職人は両手の指を四つずつ立て、厨房、寝台、工房、扉の手話を順に作った。最後に掌で名札を覆い、そのまま隣へ腕を伸ばす。
「分かった、に印をつけていいですか」
急いだ書記がエルゼへ聞く。
「本人の返答を、あなたの推測で作らないで」
返事を待つ間に、食堂の外で荷車が傾いた。
名簿のない母親が、幼児を抱いたまま豆袋の下敷きになりかける。職人は列を飛び出し、袋を肩で受け、母子を食堂へ押し込んだ。地区札を幼児へ握らせようとし、レイが止める。
「札は渡さなくていい。中へ入れるために、名前も番号も要りません」
職人は札を自分の胸へ戻した。
職人は四本指を立て、聞いた、確かめた、選んだ、行った、を順に指す。最後に幼児と自分を別々に示した。
「二人を一人として数えるな、ですね」
職人は一度だけ頷いた。
観察者二人が別紙へ行動を記録した。読み書きも発声も黒点の条件ではない。誰かに結論を代弁させる必要もなかった。
染物職人の一人分が、版へ増えた。
幼児は判断を確認できないので数えない。
急いでいても、二人を足して二点にはしない。
午後四時、厨房区版の認証簿を締め、輸送用の保全封印を掛ける。元版封印は開始前から切れていない。
黒点、一千七十一。
五日前の食堂版で得た千点は、最終戦へ使わない。文も対象も取得時刻も違う。今ある一千七十一だけを、封印簿へ記録した。
診療区では、寝台が足りなかった。
負傷者は百六十。空き寝台は百四十八。
軽傷者十二人が床へ移れば、全員入る。
「なぜ私が」
腕を縫った商人が、寝台の縁を掴んだ。
「税を払ってる。あの人たちは腕輪もない」
入口には、工房区の白紙暴発で避難した職人がいる。登録札を路地へ置いてきた者もいた。
商人は寝台の柱へ貼られた認証文を、看護師に二度読ませていた。
「ほかの地区で誰かが庇ったから、俺も真似をしろと?」
「判断の材料にするかは、あなたが決めます」と看護師が言った。
「気に入らんな」
「移ることを強制しません」とレイは言った。
「じゃあ、このままでいいな」
「あなたが判断してください」
「責任をこっちへ投げるのか」
「はい」
商人は、隣の寝台を見た。
そこには闘技場で踏まれかけた老人がいる。王立慈善薬局を閉じた店主の父親だった。
「あんたの息子、昨日は薬を捨てた」
「そうだな」
「俺へ謝ってない」
「私も謝ってない」
二人には、譲らない理由も嫌う理由も十分にあった。
老人が先に床へ布団を下ろした。
「背中は床でも治る。腕は上へ置け」
商人は寝台を離れなかった。
数分後、入口で子どもが泣いた。
商人は舌打ちし、自分の枕を床へ放った。
「一晩だけだ」
「一晩で十分です」と看護師が言った。
「四地区の紙を見て一晩だけ動いた、と俺の欄へ書け。善人と書いたら寝台へ戻る」
誰も彼を善人とは呼ばない。それでも黒点は出た。
午後八時、診療区版の認証簿を締め、輸送用の保全封印を掛ける。
一千三十三。
避難区の鉛扉では、番号札の発行台が入口を塞いでいた。
百人を入れる訓練で、名前の綴りを直すだけの五十人が外に残った。
イレーナは拘束腕輪をつけたまま、錠の横へ立っていた。
護衛が手順書を読む。
「受付、仮番号、身体検査、入場」
「逆」
「規則です」
「雨、待たない」
「身元不明者を先に入れれば、危険物を」
護衛は灰色の認証紙を受け取っていた。四地区の文を読み、門番が前夜に親子を先に入れた証明番号も確認している。
イレーナは外の空を見た。
まだ白雨はない。
訓練だからこそ、規則が何人を外へ待たせるか測れた。
「まず入れ」
彼女は鉛扉を開けた。
護衛が拘束鎖へ手をかける。
「技術協力の範囲外です」
「扉、私の範囲」
「責任者の許可を」
避難所責任者が、昨日イレーナから受け取った鍵を持っていた。
彼女は入口の列と、受付机を見比べた。
灰色の認証紙をもう一度見た。
鍵を回す。
「まず入ってください! 番号は中で発行します!」
止まっていた列が、名簿より先に動いた。
護衛は鎖を放し、自分も扉を押さえた。最後の一人まで閉めない。
イレーナは七人の校正班に含まれる。その行動は事実として記録したが、黒点へは数えなかった。
避難区版へ、二人ぶんの黒点が別々に出た。
午前一時、避難区版の認証簿を締め、輸送用の保全封印を掛ける。
一千十八。
三枚の版が校正局へ運ばれた。
厨房区版はハンナの荷車。診療区版はシオンの封印馬車。避難区版はヨハクが、壁の訓練公報から校正局の待機紙面へ運ぶ。
ヨハクは三度の移動ごとに横になる。急がせれば輪郭が薄くなる。彼を運搬路の消耗品にしないよう、ミラが回数を大紙へ書いた。
残るのは工房区。
黒点は、午後十時で四百九十一。
午前一時で六百七十。
版は予備版。
焼失版の八百十二点は、一つも足していない。
戴冠まで、九時間だった。
4.千個目の黒点が灯り、最初の白片が降る
午前二時、工房区の路地を風が走り始めた。
白雨の前触れは雨より先に紙を湿らせる。移動機から出る頁が反り、活字の端へ黒い滴が溜まった。
作業台の脇には、交代表があった。
二時間ごとに給紙、照合、公証、救護を替える。本人が続けると言っても、手の震え、数字の誤読、返答の遅れが二つ出れば休ませる。
ミラは一度、交代を拒んだ。
「私の機械だった。最後まで回す」
「固定機を失ったことと、あなたが眠らないことは別です」とレイが言った。
「私が千枚を数えたから、八百十二になった」
「だから次は、別の人と数えます」
「信用してない?」
「一人を信用して成立する手順にしません」
ミラは反論しようとし、認証票の八と三を取り違えた。
自分で気づく。
「二時間」
「三十分でも寝てください」
「一時間。必ず起こして」
「起こす時刻は休息担当が判断します」
「誰?」
ヨハクが新聞紙の上から手を上げた。
「僕」
「あんたも寝てるじゃない」
「だから、分かる」
ミラは毛布へ入った。
失敗を一人の徹夜で返そうとする者まで、英雄にしない交代表だった。
「『庇った』の払い、潰れてる」
イレーナが刷りを止めた。
「読めます」と組合員が言う。
「読めると、同じ字は違う」
「一分でも」
「駄目」
紙を温めれば速いが、版の鉛が膨らむ。ミラは一枚ずつ布へ挟み、ハンナが移動機へ即席の屋根を組んだ。
レイは認証票を照合し続けた。
同じ番号。
別の筆跡。
行動を見た証人と、選んだ本人が入れ替わった票。
一欄でも曖昧なら、その黒点を外す。
午前三時、七百二十一。
外した点、十九。
午前四時、七百七十六。
候補名簿の残りが減る。
夜勤明けは眠り、朝番は家族を避難所へ送っている。工房の隣人を庇うより、自分の家を守る方が先だった。
「王子の名で招集すれば千人は来る」と、伝達版のオスカーが言った。
「無効です」とレイは答えた。
「認証ではない。現場まで命令で呼び、到着後に自分で判断させる」
「断った者が処罰されます」
「災害招集には罰則がある」
「使いません」
「残り六時間。現行速度なら九百六十から千二十。中央値、九百九十一」
千へ届かない側に、中央値がある。
レイは名簿を見た。
「罰則なしの呼びかけなら」
「到着率は二十三パーセントと推定」
「対象を広げます。職人だけでなく、工房区に住む人全員」
「行動に使う設備が足りない」
「火除け布、共同井戸、工具箱。隣へ渡せる物も数えてください」
オスカーは五秒黙った。
「七百四十件ある。八列を十二列へ増やす」
「お願いします」
変わった条件に合わせ、彼は命令だけを変えた。
午前五時、路地へ鐘が鳴った。
王子の招集ではない。隣家へ渡せる物を一つ持って来てほしいという、工房区からの呼びかけだ。拒否者の名は記録せず、来た者も新聞へ載せない。
最初に来た女性は、雨除けの油布を持っていた。
受付で黄色い認証紙を読み、四地区の先行事実を確認してから、路地へ出てきた。
「隣の染物屋は嫌いです」
「なぜ」
「排水をうちの前へ流す」
「なら、渡さなくても」
「火が回ったら、うちも燃える」
油布を染物屋の屋根へ掛ける。
黒点。
次の男は、空の水桶を持ってきた。
「空です」とレイが言った。
「井戸の場所を知ってる」
隣家の少年を連れ、共同井戸まで走る。
黒点。
善意も友情も赦しも、参加条件ではなかった。
午前六時、八百六十二。
白い雲が低くなった。
空から薄片が一枚、落ちた。
紙に見えたが、手へ触れる前に水へ変わる。最初の雨ではない。観測塔は、到達まで四時間と報告した。
午前七時、九百二十一。
ミラの手が震え始めた。
交代表どおり短く眠っても、疲労は抜けていない。給紙をイレーナへ替わろうとして、拘束鎖が機械へ届かない。
護衛が鎖の固定を一つ外した。
「逃走防止規則は」
「私が端を持ちます」
「信用?」
「職務です」
イレーナは返事をせず、給紙台へ立った。
一枚。圧。抜く。
一枚。圧。抜く。
王立印刷局の活字を削った「隣人」が、他の字と同じ濃さで紙へ乗る。
午前八時、九百六十七。
残り三十三。
候補者は四十四人。
六人は厨房区か診療区で算入済み。中央照合で除いた。
残り三十八人。
失敗できるのは五人だけ。
工房区の若い組合員が戻ってきた。
最初の千枚を班長へ預けた男だった。黄色札は焼失版で一度使ったが、予備版ではまだ数えていない。
エルゼが予備版の紙を渡す。男は一文を声に出し、最初の版で判断を班長へ預けたこととの違いを言い直した。
「何をすれば」
「あなたが決めてください」
「またそれか」
「またです」
隣の金物工房から、重い音がした。
老職人が一人で耐圧板を立てている。組合費を巡り、若い男とは半年口を利いていない相手だった。
「あいつ、俺を除名しようとした」
「知りません」
「助けろって顔、してない」
「顔は認証条件ではありません」
老職人の板が傾いた。
若い男は悪態ごと息を吐き、走った。
二人で耐圧板を持ち上げる。
「反対側を持て、腰が入ってない!」
「助けられて文句言うな!」
「頼んでない!」
板は立った。
黒点、九百六十八。
午前八時三十分、九百八十七。
残り十三。
空の白さが強くなる。王宮の鐘が、戴冠準備の開始を告げた。
アレンは九時に校正局へ戻らなければならない。王宮への地上移動と、冠の儀礼に時間がいる。
「先に行ってください」とレイが言った。
「版が完成するまで」
「王子を待たせた事実で黒点を得たくありません」
「私は候補ではない」
「見ている人には関係があります」
アレンは工房区の人々を見た。自分が去れば、王子の目の前で善行を見せる理由が一つ減る。
「九時に校正局で待つ」
「待つことを、成功の前提にしないでください」
「承知した」
彼はシオンと護衛を連れ、先に出た。
午前八時四十五分、九百九十八。
あと二人。
候補札を持つ三人が来ない。
一人は家族の避難へ行き、一人は拒否し、一人は所在不明。
拒否した者を追えば、選択そのものが歪む。
「追加番号を」とレイが言った。
エルゼが、辞退と重複照合で空いていた六つの候補枠へ、最後の追加番号束を差し替えた。候補名簿の総数は、千二百のまま増えない。
路地に、名簿外の荷運び人が六人いた。白雨警報で城門を閉じられ、工房区に足止めされている。住所も戸籍もこの地区にはない。
「参加すれば避難所へ入れますか」
一人が聞いた。
「参加しなくても入れます」
「食事は」
「同じです」
「じゃあ、何のために」
「隣にいる人を庇うか、自分で決めるためです」
六人は顔を見合わせた。
四人が残り、二人は避難所へ向かった。
二人の背を、誰も呼び戻さなかった。
残った四人へ、同じ一文を順に読み上げる。二人は自分で読み、字を知らない二人は、四地区で実際に起きた先行行動の説明を聞いた。「これを理由の一つにして手を貸す」と、それぞれ別に答えた。
四人は、移動印刷機を押す工房区の四人へ、一枚ずつ雨除けを掛けた。名は聞かない。自分たちが風上へ入り、相手が屋根下へ交代するまで荷台を押した。
人を庇った結果として、工房区の道具も王宮へ一歩進んだ。
黒点が四つ増えた。
一千二。
イレーナは印刷を止めなかった。
「余分」
「人を余分と呼ばないでください」
「点。余分、必要」
千ちょうどでは、一点の照合誤りで崩れる。
残る候補から、さらに四人が認証紙を取った。
煙突掃除の少年は文を読み、後から来た老人へ防塵布を渡した。「四地区でやったなら、布一枚くらいはやる」。名は聞かなかった。
水売りは読み上げを聞き、「庇うじゃなく、売れ残りを捨てるだけだ」と言いながら樽の栓を開けた。隣家の火除け桶を満たし、代金を取らなかった。
木工所の女主人は先行四件を自分で照合し、仲違い中の隣家の鎧戸へ補強棒を渡した。「あの家が潰れると、うちの壁も倒れる」。美談にするなと念を押す。
最後は組合の受付係だった。灰髪の旅人が雨除けへ入ろうとすると、癖で名簿を開きかける。認証紙を見て手を止め、名より先に縄を上げた。
四人とも先に文を読み、事実と確かめ、判断に使った。観察者二人ずつが行動後に印を入れる。
午前八時五十二分。
工房区版、一千六。
イレーナが版を外し、封印布へ置く。ミラが対象欄と表面文を照合し、エルゼが時刻を記す。
ヨハクが、工房区の掲示紙へ手を入れた。
「運ぶ」
「移動回数は」
「休んだ。今日、二回目」
「行ってください」
彼は版を胸へ抱き、掲示紙の一行へ沈んだ。
午前八時五十五分、校正局の待機公報から出る。
四枚が、ようやく同じ机へ揃った。
午前八時五十七分、厨房区、診療区、避難区から、未使用の予備版三枚について認可封印を失効させた記録が届いた。各地区の封印官と市民公証人が黒点ゼロを確認し、版を証拠袋へ収めている。工房区で使った予備版以外に、有効な複製を残さない。
午前八時五十八分。王冠庫管理官代理と別の市民公証人が、伝達版の向こうで署名命令書原本と腕輪台帳を開示する。受領番号と三封印は無傷。校正局へ置くのは、二人の認証番号入りの写しだけだった。
厨房区、一千七十一。
診療区、一千三十三。
避難区、一千十八。
工房区、一千六。
合計四千百二十八。
九時ちょうど、レイは四枚を重ねた。文字位置と字間は一致。四封印は有効。対象欄は四地区すべて別。
机の反対側には、四つの反証がある。
王子の血が落ちた祭礼公報。
三日飢えたノアが、公証手続で一時貸与した配給腕輪。
公開試合で割れた儀礼冠。
百十三人を外した命令書と腕輪台帳の認証写し。
元版は王冠庫。訂正文と四千人は、ここにある。
残る仕事は、古い四文を止めた四十七秒で、王冠の四枚を入れ替えること。
二百人ずつの余裕は残らなかった。
一秒の余白もなかった。
戴冠まで、残り一時間。




