エピローグ 余白から、二人の次の物語を始める
1.資料不足なので、もう一度あなたと
三十日後、王都へ赤が戻った。
祭礼旗ではなく、校正局の机、新聞の初校、戸籍院の訂正札へ。間違いを見つけた者が、そう言える場所の色だった。
レイは正式な校正官章を受け取った。
特例の贈与ではない。
事件から二十六日目、筆記試験を受けた。定説法、証拠保全、人数監査、現場判断。口頭試問では、自分が赤筆を使った五件を資料として扱い、判断の欠陥も答えた。
第四問。
緊急時、正しい事実の公表に当事者同意を待つべきか。
レイは、待つか公表するかの二択を消した。
生命へ即時危険がある範囲だけ匿名で警告し、実名、詳細、非掲載は別に確認する。発行後の停止条件と訂正経路を先に作る。
採点者は余白へ、長すぎる、と書いた。
レイはその指摘へ、短くできない、と再答した。
合格した。
金属章には、レイとだけ刻まれている。
姓の空欄は、欠陥として埋められなかった。
最初の正式任務は、北方だった。
常勝将軍は一度も退かなかった。
発端の軍報元版には、軍報版について王立印刷局の委任を受けた軍務局印がある。封印欄の主語は将軍本人の軍籍番号、対象は北方三州。
北方三州で、その一文が軍報、教本、酒場の壁へ刷られている。黒点はすでに千を越えた。
同じ期間、敗走兵の帰還記録が四百人ぶん欠けていた。
退かなかった軍の後ろへ、退いた兵が帰る場所はない。
レイは資料箱を抱え、市民公証院の監督施設へ行った。
門で、訪問者名簿へ正式名を書く。
レイ。
赤ではなく黒いインク。
日常の署名に、訂正色は必要ない。
アレンは閲覧室にいた。
王族の系譜から、自分の継承欄へ取消線を引いた写しを読んでいる。机の左右には護送官が一人ずつ。窓は開くが、鉄格子がある。
完全無欠の王だった人は、監督下の危険な王族証人と記録されていた。
「任務の相談です」
レイは資料箱を机へ置いた。
「私へ?」
「北方常勝将軍の件。あなたは軍報の発行承認に三年関わった。王族の発話が定説を増幅する仕組みも、自分の身体で知っています」
「危険性も、という意味だな」
「はい。あなたが将軍を称賛すれば、黒点が増える。証言規則と発言停止条件へ署名してもらいます」
「旅行の誘いとしては厳しい」
「旅行ではありません」
「知っている。監督施設から出るには、審理院の許可と護送官二人が要る」
「許可申請案は作りました。あなたが断れば提出しません」
アレンは箱を開けなかった。
「なぜ私を選んだ」
「軍報の知識。王族証言の危険を自覚している。失敗の記録を隠さない。あと、質問への返答が短くなりました」
「最後は評価なのか」
「作業適性です」
「私を面白いと思った、ではなく?」
レイは答えを探した。
過去の自分が彼をどう思ったかは知らない。
資料不足で笑った記録。
包帯を巻いた記録。
半分の入場券。
共同校正へ戻った署名。
四つを足し算して、現在の答えを捏造するつもりはなかった。
今、鉄格子のある閲覧室で、言葉の着地を少し間違えた人がいる。
「少しは」
「少し」
「分量の基準が厳しいな」
「資料不足です」
アレンが笑った。
レイも、少し遅れて笑った。
以前の笑いと同じかは、どちらにも分からない。
今の会話だけで、二人とも笑った。
アレンは資料箱へ手を置いた。
「資料は十分か?」
「いいえ」
「やはり」
「将軍側の軍報だけです。退いた兵、待っていた家族、補給所、墓地管理人。原本も不足。だから現地へ行きます」
「王族への第一声が資料不足だったと、記録にある」
「読みましたか」
「公的議事録だけ。封印した私的記憶は、まだ開けていない」
「なぜ」
「今の関係を作る前に、過去の答えを読まない方がいいと思った」
「それは、今の判断ですか」
「今朝決めた」
レイは白紙の手帳へ日付とともに書いた。
過去の記録を開けない。今朝、本人が選択。
「私も、戻った場面の詳細は開けていません」
「不便なままだな」
「はい」
「北方では、もっと不便になる」
「旅支度の経験は」
「王族としてなら」
「使えません」
「では、経験不足だ」
今度は、レイが先に笑った。
護送官が咳払いをする。
「許可が出た場合、出発はいつです」
「三日後」
「早い」
「白雨は待ちましたか」
「待たなかった」
「定説も待ちません」
アレンは証言規則を読み始めた。
一行ずつ。
署名する前に、今回は全文を読む。
2.最後に校正するのは、「名もなき少女」
その日の午後、『朝の余白』が発行を再開した。
一か月余りぶりの一面には、三つの見出し案があった。
名もなき少女が都を救った。
悔い改めた王が、命を賭して白雨を退けた。
七人の英雄、四千人を率いる。
ミラは三枚を壁へ貼った。
「全部、他紙が先に出した見出し。どれを訂正する?」
「全部です」
レイは最初の紙へ赤線を引いた。
「私は名もなき少女ではありません」
「今はね」
「当時も、人が見つけられなかっただけです」
次の紙。
「アレン一人が白雨を退けていません。悔い改めたかは、本人の内面です。行為と裁判を書いてください」
三枚目。
「七人は、四千人を率いていません」
「じゃあ、どうする」
レイは黒点の最終記録を開いた。
認証された四千百二十八人。
候補名簿に入らず、黒点へ数えられなかった救助者。
命令では動かず、自分で扉を開けた人。
参加を拒んだ人。
実名を載せたい人。
匿名を選んだ人。
何も載せないでほしい人。
一面へ、すべての名は入らない。
入らないことを、存在しないことにもしない。
「見出しは、これです」
四地区は、白雨の中で隣人を庇った。
副見出しを添える。
認証四千百二十八人。未集計の救助行為と損失を継続記録。実名、匿名、非掲載の選択を尊重。
「長い」とミラが言った。
「二段抜きにしてください」
「それ、前にも言った?」
「記録にはあります」
「覚えてない?」
「はい」
ミラは二段ぶんの空きを作った。
実名版には、掲載同意のある名前だけを組む。
匿名版には仮番号。
永久封印を選んだ人の名前は、印刷所へ持ち込まない。紙面には、非掲載を選んだ人数だけを載せる。
イレーナの息子の名は、どの活字箱にもなかった。
数からは引かなかった。
ヨハクが紙束を運んできた。
新しい出生申請書は、まだ胸に入っている。姓と祝う日を決めていない。
「北方の古紙、混ざった」
梱包用の紙を一枚、床へ広げる。
十二年前の地方新聞だった。
冬の配達競争を描いた小さな挿絵に、少年がいる。
平らな黒髪。
短い手足。
紙の端へ片足を入れた横顔。
今のヨハクと、同じ顔だった。
「親戚?」とミラが聞いた。
「十二年前」
「あんた、何歳?」
「分からない」
挿絵の下に、作者名はない。
記事の本文は途中で破れ、少年についての説明も欠けている。
ヨハクは古紙を出生申請へ重ねた。
「これ、資料」
「原本を探しますか」とレイが聞いた。
「北方?」
「次の任務です」
ヨハクは少し考えた。
「行く」
「審理院とミラの許可が必要です」
「僕の許可も」
「最初に聞きました」
「行く」
二度目の「行く」で、話は決まった。
ミラが新しい一面の版を締める。
イレーナの監修票。
シオンの証拠番号。
ハンナの追加証言。
オスカーの設備値。
アレンの被告証言。
ヨハクの未解決資料。
レイの校正印。
七人の名を載せる版では、本人同意を一人ずつ取った。
イレーナは自分の作業名だけを許可し、息子については非掲載。
アレンの肩書は「元王」ではなく「被告兼王族証人」。
ハンナは「救助者」の前に「除外実行者」を置くよう求めた。
版が印刷機へ入る。
移動印刷機は修理され、ミラの工房へ仮設されていた。輪の片側には、黒く焼きついたはんだと、真鍮の指が噛んだ歯痕が残っている。
最初の一枚を、ミラが自分で回した。
黒い見出し。
赤い校正印。
余白は以前より広い。
あとから損失と異議を足せるよう、最終段を一段空けてある。
「完成?」とミラが聞いた。
レイは一面を窓明かりへかざした。
文字、人数、配置。
紙の厚み。
インクの匂い。
裏まで食い込む圧。
「現時点では」
「校正官って、絶対に完成って言わないの?」
「新しい資料が出ます」
「面倒」
「仕事です」
戸籍院から、正式な登録票が届いた。
現名欄にレイ。
前名エルナとの継続線。
抹消無効を示す赤い訂正印。
ミラが一面の校正者欄へ、その名を組んだ。
校正、レイ。
活字では黒い。
レイは自分の控えへ、赤鉛筆で同じ名を書いた。
赤い手帳には、最後の白い頁が一枚残っていた。
白い頁は、まだ誰にも否定されていない可能性だった。
レイはそこへ、今日の見出し、北方へ行く日、ヨハクが見つけた古紙を記した。
最後に、自分の名を書いた。
私は、赤字で書かれた自分の名を、初めて間違いではないと思った。




