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第10章 消された名も、これから名乗る名も、私のもの

1.死者ゼロを、勝利の見出しにしない

 翌朝、王立大広間に祝勝会の椅子はなかった。

 抜けた屋根の下へ長机を並べ、四地区の報告を一枚ずつ受け取る。会の名は、損失記録会。

 死者、零。

 重傷、十二。

 軽傷、四百七十九。

 全壊家屋、二十三。

 半壊、百八十一。

 消失した公的記録、八百四十二頁。復元不能、百七頁。

 固定印刷機、一台。

 移動印刷機の版胴、一部損傷。

 ハンナの義手、一。

 ヨハクの出生申請、一。

 事件開始から失われたレイの記憶、五場面。

 事件開始から失われたアレンの記憶、五場面。

 数字にできない損失へ、勝手なゼロを入れなかった。

 イレーナの息子の名は、非掲載。

 百十三人の遺留品は、掲載選択が終わるまで封印。

 それぞれの家で失った物、怖かった時間、二度と使えなくなった部屋は、本人が出したい時に別紙へ追加する。

 大広間の入口に、祝賀花輪が三つ届いた。

 ミラが送り状を読んだ。

「『英雄たちへ』。誰のこと?」

「返送」とシオンが言った。

「花は診療区へ回していい?」

「送り主の同意が必要です」

「そこまで?」

「贈答目的の変更です」

 ミラは送り主へ照会札を書いた。

 花輪の一つには、白い薔薇が使われている。

 レイはそれを外へ出した。花に罪はない。だが今、損失を数える机のそばへ置く理由もなかった。

 王冠は、裁判所の封印箱に入った。

 新しい四地域版を装着した集成枠と、旧四親版の鉛箱は別々にする。王冠庫管理官、市民公証人、裁判所書記の三本の鍵がなければ開かない。

 現王は、白雨が止んだ三時間後に息を引き取った。

 アレンの戴冠は成立していた。

 法の上では、彼が新しい王だった。

 彼は最初の王命で、統治権を臨時評議会へ移した。

 二つ目の王命で、王冠版に関するすべての秘密指定を解除した。

 三つ目を出す前に、自分を市民公証院の監督下へ置いた。

「王が自分を拘束する命令は、王が解除できる」と評議員が反対した。

 アレンは王権放棄書へ署名した。

「では、解除する王を先にいなくする」

 王位継承権と、現王としての地位を公開審理の判断へ預けた。

 白い礼装は着なかった。

 青い無紋の服で、被告席へ座る。

 レイが見た時、彼は天井を見上げていた。

 大広間には天井がない。

「何を数えているんです」

「雲の切れ目」

「動きます」

「だから、さっきから合わない」

「数える対象に向きません」

「同感だ」

 アレンはレイの顔に答え合わせを求めず、また雲へ目を戻した。

 レイにも、彼の隣へ戻った理由の記憶がない。

 共同合意書を読めば、三つの条件を出したことは分かる。

 王宮前の演説。校正局の扉。七人の署名。

 文章はある。

 その文章を、自分がどんな足取りで選んだかだけがない。

「昨日の私を、知っていますか」

「君が戻り、三条件を出したことは覚えている」

「理由も?」

「記録以上には知らない」

 アレンは被告席の机へ、封印された四通の記憶記録を置いた。

 黒い欄外注が出る前、彼自身が場面の表題だけを書き、内容を独立公証人へ口述したもの。開封すれば、失った出来事を文章で知ることはできる。

「読みますか」

「今は読まない」

「理由は」

「失った私的記憶を、裁判で情状として使われるおそれがある。先に法的事実を確定する」

「裁判が終わったら」

「その時の私が決める」

 過去の自分へ従うとは言わなかった。

 審理官が入廷する。

 最初の公開聴取は、五年前の署名から始まった。

「被告アレン・ヴェルム。命令へ署名した記憶はありますか」

「ありません」

 傍聴席がざわめいた。

「では、責任を否認しますか」

「否認しません。署名鑑定、三系統の記録、当時の権限移譲、私自身の事後確認が一致している。記憶の有無は、署名を別人のものにしません」

「十三歳だったことを」

「事実として考慮するかは、審理に委ねます。私から免責理由にはしません」

「十万人を救う目的だった」

「目的の記録はあります。百十三人を外した結果もあります。片方で片方を消さないでください」

 審理官が筆を止めた。

「あなたは、白雨から王都を救ったとも評価されています」

「四地区で行動した四千百二十八人、校正班、設備班、避難所職員、負傷者を運んだ市民の行為です。私は王冠の主語を一時的に引き受けた。役割の一つとして記録してください」

「謙遜ですか」

「数量の訂正です」

 レイは被告席の横顔を見た。

 資料不足で笑った場面を、彼は失った。

 それでも今、事実の不足を笑顔で隠さない人がいる。

 失った笑いの証明には使わず、今の行為として白紙の手帳へ書いた。

 第一回聴取、責任を記憶へ委ねず。

 その下へ、レイ自身のことも書く。

 共同校正へ戻った記憶はない。署名と結果を確認。現在の私は、事後監査を続けると決めた。

 昨日の自分を復元したのではない。

 今日の自分が、もう一度選んだ。

 損失記録会は夕方まで続いた。

 死者零という見出しは、最後まで使わなかった。

 零の後ろには、五年前に数え直されなかった百十二人がいる。

 今回生きた十万百八十六人も、一つの数字だけではない。

 報告書の末尾には、こう記した。

 確認は継続する。追加の損失と異議を受け付ける。空欄は、損失がなかったことを意味しない。


2.功績で、罪も代償も消さない

 三日目、シオンは実働隊長の章を返した。

 災害例外条項の行使は適法だった。

 王冠版の交換も、証拠鎖も、監査では欠陥が出なかった。

 だが王家直属の隊長が、王家を被告とする捜査の責任者ではいられない。シオン自身が利益相反を申告した。

「審理が終わるまで職務停止でよいのでは」とレイが聞いた。

 シオンは章から黒い紐を外した。

「戻る前提を残せば、審理で王家に有利な判断をした時、地位を守るためだと疑われます」

「あなたは気にしますか」

「証拠を使う人が気にする」

 金属章を返納箱へ入れる。

 元版片の細剣は腰に残った。

「剣は公物では」

「父の判決時に、遺族から私へ譲渡されています。誤報で封鎖扉を閉じた版の一部です」

「持ち続ける?」

「正しいと信じた手順が人を殺す証拠です」

 机の証拠袋で、壊れた黒い塔が横倒しになっていた。

 アレンが失い、シオンだけが覚えている盤上遊戯。

「返しますか」

「被告が受け取る意味を理解できません。審理終了まで保管する」

「あなたは覚えている」

「はい」

「それを、彼へ説明しない?」

「本人が請求した時に、記録と私の記憶を分けて話します」

 彼女は止まった時計を巻いた。

 針は動かなかった。

 修理へ出さない理由を、レイは聞かなかった。

 四日目、シオンは監督施設の面会室へ黒い塔を持っていった。

 レイは市民公証院の臨時記録係として、壁際の机に座っていた。

 証拠袋のまま、机の中央へ置く。

 アレンは袋の番号と封印署名を先に読んだ。

「盤上遊戯の駒、と記録にある」

「はい」

「私と君が使った?」

「使いました」

「続きを教えてほしいと頼めば、話してくれるのか」

 シオンはすぐには答えなかった。

「記録に残る事実と、私が覚えていることを分けます。あなたが何を感じていたかは断定しません」

「頼む」

 彼女は黒い塔が、十一歳の彼にとって王子ではなく一人の少年でいられる時間だったことを話した。盤をひっくり返した回数。負けを認めず、夜食を賭け、毎回二人ぶん失ったこと。

 呼び名のことは、最後にした。

「私は、盤の前だけであなたをアレンと呼びました」

 彼は微笑みかけ、やめた。

「今も、そう呼びたい?」

「分かりません」

 正直な返事だった。

「では、昔の続きを始めない方がいいな」

「はい」

 アレンは机の端にあった面会申請書を裏返した。白い面へ、九つ掛ける九つの升目を自分で引く。監視官へ鉛筆を返す前に、中央へ小さな丸を一つ置いた。

「これは、あの盤と同じ遊びか」

「違います。塔を使いません」

「教えてくれる?」

「審理に影響しない時間と、監督官の許可がある時だけ」

 シオンは封印された黒い塔を鞄へ戻した。

 過去の盤は封印したまま。

 丸一つの新しい盤を始めるかは、次の面会で決める。

 五日目、ミラの新聞は発行停止処分を受けた。

 三十日間。

 事件当日に出た緊急仮停止を、正式処分へ切り替えたものだった。期間は仮停止の初日から数える。

 王子を処刑人へまとめた号外が、私的拘束、配給所閉鎖、証人への危険を生んだ責任だった。白雨で訂正刷りを作った功績は、処分の欄に相殺として書かれなかった。

「三十日も刷れないと、読者が他紙へ行く」

 ミラは焼けた固定印刷機の輪へ腰掛けていた。

「発行停止は、取材停止ではありません」

「見出しを出せない記者は、口のない人形よ」

「人形劇では、魚が壊れて馬が出たそうです」

 白紙の手帳に記録がある。

 なぜレイがその劇を知っているか、記憶はない。

「それ、私が行ってないやつ」とミラが言った。

「記録だけです」

「誰と?」

 レイは頁を閉じた。

「今は、説明を求めません」

 ミラはそれ以上聞かなかった。

 発行停止中、彼女は百十三人の掲載選択を集めた。

 実名版。

 匿名版。

 永久封印版。

 三つの活字箱を離して置く。同じ名前を誤って別版へ入れないよう、箱の形から変えた。実名箱は四角。匿名箱は丸い取っ手。封印箱には、本人か遺族と公証人の二鍵がついている。

 イレーナが拘置工房から試し刷りを点検した。

「実名、二字欠け」

「どこ?」

「七行目」

 ミラが拡大鏡を当てる。

「読めるけど」

「名は、読めるで済ますな」

 ミラは版を組み直した。

「あなたの息子の版は、封印箱」

「出すな」

「出さない」

 許されたわけではない。

 同じ印刷物を、違う手順で作る仕事だけが続いた。

 七日目、ヨハクは新しい出生申請書を受け取った。

 戸籍院の書記が、証人欄を先に埋めようとした。

「姓は、ベルでいい? ミラさんの養子扱いなら早い」

 ヨハクはペンを取らなかった。

「早いと、僕?」

「手続きが早い」

「僕が決めた?」

「希望なら別の姓も」

「まだ」

 書記は空欄へ線を引きかけた。

 ヨハクが紙を押さえる。

「空欄、消さない」

「未記入のままでは受理できない欄があります」

「持ち帰る」

 一日でも早く紙へ載りたかった少年が、他人の姓で空欄を急いで埋めることを拒んだ。

 匿名版の運搬を先に引き受ける。

 自分の申請書は四つ折りにし、胸へ入れた。破らず、出さず、保留にする。

「誕生日は」とレイが聞いた。

「決めていい?」

「過去の日付を推定する方法はあります」

「違う。僕が、始める日」

 レイは答えを急がなかった。

「法的な出生年月日と、祝う日は別にできます」

「二つ?」

「二つです」

「じゃあ、考える」

 八日目、イレーナの予備審理が始まった。

 王太子暗殺未遂。

 違法な弓の持込み。

 祭礼公報の職人印。

 五年前にエルナを救った事実。

 白雨当日に王冠版を組み替えた事実。

 どれも同じ記録へ並んだ。

 救った一人を理由に、射た矢は消えない。

 射た矢を理由に、救った一人も消さない。

 弁護人が王家からの特赦案を持ってきた。

「災害救助への特別功績により、起訴猶予を」

 イレーナは紙を読まなかった。

「王家、許す紙?」

「あなたが許すのではありません。王があなたを」

「いらない」

「拘禁が続きます」

「裁判」

「有罪の可能性があります」

「知ってる」

 特赦を受ければ、王家が慈悲を与え、彼女が受け取る物語になる。

 イレーナは普通の裁判を選んだ。

 審理がない日は、監督下で避難所の錠を直す。護衛が二人つき、拘束腕輪は作業台へ長い鎖でつながる。

 彼女が改良した錠は、外側の名簿台から操作できない。

 内側の人間が、扉を閉じるか決める。

「逃走にも使えます」と護衛が指摘した。

「中から開く。外も開く。二人、必要」

「一人で決められない?」

「そう」

 五年前の一人の署名で閉じた扉を、二人の判断で開ける錠だった。

 十日目、ハンナが宿舎の鍵を返した。

 右袖は肘から空になっている。新しい義手の採寸を勧められたが、証拠として旧義手の構造検査が終わるまで待つという。

「入っていいか」

 レイの部屋の外で聞いた。

 以前なら、返事より先に扉を押していた人だった。

「話の目的は」

「鍵を返す。おまえの保護者登録を解除した。あと、五年前の隠匿について追加証言」

「入ってください」

 ハンナは机へ鍵を置いた。

「宿舎の契約は、おまえ名義へ変えた。戸籍照合は審理中だが、市民公証院が仮承認した」

「勝手に?」

「申請だけした。受けるかは署名してない」

 書類の署名欄は空白だった。

 レイはそれを確認してから、鍵を受け取った。

「追加証言は」

「おまえを版倉で拾った後、エルナの名を隠した。王宮から守るためだと言った」

「前回、聞きました」

「続きがある。俺自身が百十三枠を切った証拠になるのが怖かった」

 ハンナの左手が、空の右袖を押さえた。

「おまえを守っただけじゃない。自分を守った」

「なぜ今」

「審理記録へ足した。おまえにも同じ時刻で渡す」

「謝罪ですか」

「違う。謝って楽になる話にしたくない」

 レイは鍵を机へ置いた。

「私は、まだ許しません」

「分かった」

「待てば許すという意味でもありません」

「分かった」

 ハンナは立った。

「送らなくていいか、とは聞かないんですね」

「俺が送られる側だ」

 外には審理院の護送官がいた。

 ハンナは証人であり、実行責任を問われる被調査者でもある。自由に現場へ戻れない。

 扉の前で一度止まった。

「話していいか」

「一文なら」

「生きててよかった」

 レイは返事をしなかった。

 それを言う権利まで奪う必要はない。

 受け取ったことにする義務もない。

 ハンナが出た後、書類の署名欄へ目を戻した。

 宿舎を自分名義にするか。

 その日は決めなかった。

 十二日目、オスカーは宰相職を停止された。

 机ごと市民公証院へ移され、四地区設備の全図面を公開していた。食事もまた冷えている。

「四地区案の事後確率は」とレイが聞いた。

「今回の生存率は九十九・九八パーセント。設備完成率、民間参加率、白雨強度を含む。再現時は九十八・一から九十九・六」

「五年前に同じ案は」

「設備完成率十一パーセント。時間十一分。成立確率は一パーセント未満」

「だから、除外案は正しかった?」

「期待生存者数は最大だった。手続きと事後責任は欠けた。今の条件なら採用しない」

「反省したから?」

「条件が変わったから」

 人命を数字で見る視線は変わらない。ただ、落としてはならない条件が増えた。

「今回、名簿外を一人として計算しました」

「最初から計算すべき変数だった」

「なぜ五年前は」

「仮登録を人口台帳へ接続して追跡する仕組みを作らず、入力から切った時点で変数ごと消した。私の設計責任だ」

 オスカーは冷えた黒パンを食べた。

「温めないんですか」

「食事時間は八分。運搬して戻すと六分失う」

「味は」

「評価項目にない」

 そこは変わらなかった。

 十四日目、公開審理はアレンの王権放棄を受理した。

 王位は臨時評議会へ戻り、統治制度は市民会議で決める。アレンは継承資格を失った。

 五年前の緊急命令は、未成年性、権限、強迫状況、事後隠蔽を分けて審理する。判決まで市民公証院の監督下。外出は証言、治療、認可済みの校正協力に限る。

 白雨を止めた王だから釈放する案を、本人は拒んだ。

 ノアの腕輪は証拠価値確定後、交換腕輪を着けた本人へ返した。施設責任者と市民公証人が立ち会い、台帳だけ審理に残した。

「英雄だから釈放、は見出しが短すぎる」とミラが取材帳へ書いた。

「あなたの言葉ですか」とレイが聞く。

「今度は、被告に確認した」

「返答は」

「『数量の不足』」

 どこかで見た言い方だった。白紙の手帳には、資料不足で笑う、とある。

 場面は戻らない。今の言葉だけを、新しい行へ書いた。

 二十日目、七人の共同合意は解散した。

 役目が終わったためだ。

 解散書には、成果の分配欄がない。

 罪の相殺欄もない。

 七人は、それぞれ別の場所へ戻った。

 同じ場所へ戻っても、同じ役ではない者。

 戻らず、空欄を抱えたまま次を選ぶ者。

 レイには、まだ名前の審理が残っていた。


3.私の名前を決めるのは、私だ

 二十一日目、市民戸籍院の審理室に、二つの名が置かれた。

 エルナ。

 レイ。

 机の左には、五年前の資料。

 抹消版の拓本。仮児二一九〇の腕輪台帳。イレーナの搬送記録。ハンナの回収証明。赤い手帳の圧痕。

 右には、現在の資料。

 三年間の見習い登録。校正局の勤務票。赤筆の使用記録。七人の共同合意書。事件後に自分で選んだ宿舎契約。

 二束は、同じ傷と筆跡へ行き着く。

 違うのは名だった。

 戸籍審理官が判定案を読んだ。

「抹消処分を無効とし、出生名エルナを復元する。仮名レイの使用記録は、エルナの経歴へ統合する」

「統合の意味は」

 レイは聞いた。

「同一人物なので、一つの戸籍頁へまとめます。レイは通称欄へ」

「主欄はエルナ」

「出生名が法的な原名です」

「五年前のエルナの頁を戻すことには同意します」

「では」

「現在の私の主欄を、勝手にエルナへ変えることには同意しません」

 審理官は判定案を置いた。

「あなたはエルナ本人です」

「身体と記録の連続は認めます」

「別人だと主張する?」

「していません」

「なら、なぜ二つに」

 レイは赤い手帳を開いた。

 最初の頁に、エルナという圧痕がある。

 その文字を書いた指の感触はない。

 白雨の夜も。

 イレーナへ運ばれた車の揺れも。

 ハンナに見つけられた時の声も。

 記憶の欠落を、エルナではない証拠にはしない。

 アレンの署名責任を、記憶の有無へ預けなかったのと同じだ。

 それでも、過去の名だけが真実で、今まで自分で使った名が仮だとは認めない。

「二つの頁を、消さずに接続してください」

「戸籍様式にありません」

「では様式を直します」

 審理官が眉を寄せる。

「戸籍は物語ではありません」

「だから、同一人物という事実と、使用する名の選択を分けられます」

 市民公証人のエルゼが、様式集を開いた。

「前名と現名の継続登録があります。婚姻と養子縁組に使う欄ですが、抹消無効の回復へ適用を禁じる条項はありません」

「出生名の変更には本人理由が必要です」

「理由は、本人が現在使用する名として選ぶこと」

「通称から正式名へ変えるには」

「三年以上の継続使用、公文書実績、本人の明示意思。すべてあります」

 審理官は一つずつ確認した。

 レイは急かさなかった。

 早く名前が欲しかった。

 三年間、欄外の「仮一名」だった。

 だからこそ、早い手続きのために他人の正解を受け取らない。

 証言者の席には、誰も座っていなかった。

 イレーナは拘置工房から文書を出した。

 五年前、その子は自分でエルナと名乗った。現在の名は本人へ問え。

 ハンナも文書を出した。

 エルナの名を隠した。レイという名を使うことへ干渉する権利を放棄する。

 アレンの証言は一行だった。

 当時の名と現在の選択を、王家の命令で結ばないことを求める。

 誰も、こう名乗れとは書かなかった。

 審理官が新しい用紙を出す。

 前名。

 現名。

 継続根拠。

 公開範囲。

「前名エルナの公開は、どうしますか」

「百十三人の事件記録と、私自身の戸籍では公開します。私的な医療記録と、赤い手帳の全文は封印」

「現在名」

「レイ」

「姓は」

 空欄だった。

「必要ですか」

「単名登録の要件を満たしています。将来、追加もできます」

「空欄のままにします」

 審理官が、最後の確認をする。

「出生名へ戻らず、通称を正式名として選ぶ。それは過去のエルナを否定する意思ではない?」

 レイは二つの頁を見た。

 エルナの名が消されたから、レイが生まれたわけではない。

 エルナを取り戻せば、レイが消えてよいわけでもない。

「エルナは、あの日まで生きた私です。これから使う名は、レイにします」

 エルゼが証言として記録した。

 審理官は前名と現名を、一本の継続線で結ぶ。

 線は黒かった。

 レイは赤鉛筆を出した。

 右掌の五本の傷は、二十一日で淡い瘢痕になっていた。薬指の感覚はまだ指先まで戻らない。握力を補う革輪へ鉛筆を通し、自分で線を引ける角度を確かめた。

「なぜ赤を」

「抹消処分への訂正です」

 黒い線の下へ、細い赤線を重ねた。

 エルナを消さず、レイを上書きしない。

 抹消処分だけを誤りと示し、現在へつなぐ。

 現名欄へ署名する。

 レイ。

 今度は仮名ではなかった。

 審理官が戸籍印を押す。

 乾くまで、誰も紙へ触れなかった。

 審理室を出ると、廊下の長椅子にアレンがいた。

 市民公証院の護送官が二人ついている。別件の証言へ来たらしい。青い無紋服の胸に、王家の印はない。

 彼は立たず、護送官の合図を待った。

 拘束中の証人が距離を決めないためだ。

「審理は」

「終わりました」

「結果を聞いても?」

 レイは戸籍紙を見せるか考えた。

 自分から一歩近づき、現名欄だけを向けた。

「レイです」

 アレンは赤い署名を読んだ。

「承知した、レイ」

 校正官とも、生存者とも、エルナとも呼ばなかった。

 今、本人が示した名だけを使った。

「あなたの記憶記録は」

「まだ開けていない」

「私も、戻った場面の記録を読み返していません」

「不便では」

「不便です」

「私もだ」

 そこで会話が止まった。

 以前なら、何か共有した冗談があったのかもしれない。

 今はない。

 廊下の窓に、雲が二つ浮かんでいる。

 アレンが一つを見て言った。

「あれは、数える対象に向かない」

「動くからですか」

「そうだ」

「同感です」

 二人は、同じところで笑った。

 過去の笑いと同じかは分からない。

 比べる必要もなかった。

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