第三話 発端
クローディアの予感は当たった。
坂を転がり落ちるように、ふたりは恋に落ちた。言いようもない甘やかな空気が漂うのを、クローディアはどうすることもできずに見ていた。
「エドワード。あなた、フローレス令嬢の世話役から外れなさい」
「クロエ」
「理由は言わなくても分かるでしょう」
クローディアが厳しい声音で言うと、エドワードは肩を落とした。
「......済まない。君の他に気づいている者は」
「察しがいい者は気づいているでしょうね。今のところ沈黙を保っているけれど、今後どうなるかは分からないわ」
「そう、だな。ああ。距離を置くと約束する」
「愛妾として囲うことは許すから――」
「それはしない!」
荒く言って、エドワードは済まない、と手で顔を覆った。
「きちんと、折り合いをつける。だから、少しだけ、待ってくれ......」
クローディアは何も言わず、小さく頷いた。震えを隠すために、強く手を握り込んだ。
約束は果たされた。エドワードとアリスは徐々に距離を置いた。アリスは暫く消沈していたが、その理由を他者には話さず、沈黙を守った。
だが、会えないことが却ってふたりの情熱に火をつけてしまった。クラスは違うからそこまで接点はない。クローディアの指導中や食堂で遭遇する程度。その度に、ふたりの間には切ないものが漂っていた。エドワードはともかくも、アリスが分かりやすく感情を面に出すので、クローディアは頭が痛かった。それでもどうにか取り繕って中等部一年を終えた。
――その春休みに、事は起きた。
***
「城下は久しぶりだな......」
エドワードは護衛騎士を伴い、王都を視察していた。学園では生徒会業務、王宮では王太子教育に追われていて、こうして息抜きがてら城下街に降りるのは随分久しぶりのことだった。護衛騎士と兄弟という設定で、のんびりと街を練り歩く。舞踏会とはまた違った街の喧騒が、エドワードは好きだった。毒の危険性があるから買い食いなどは一切できないが、見ているだけでも楽しかった。
屋台が多く混みあった通りを抜け、衣服や装飾品が並ぶ通りに出る。馬車も通れる大きな道は、先程よりも人が密集していなくて、エドワードはほっと息を吐いた。
と、そこで近くの店から出てきた少女の姿を認め、目を見開く。
一瞬、錯覚かと思った。自分が見たい幻ではないかと目を擦るが、やはり景色は変わらない。
「――フローレス令嬢?」
護衛を従えたアリスは、こちらを向いて驚いた様子で目を見開く。商家の子女のような質素な衣装がよく似合っていた。
「へ? でっ、でん、ええと、」
エドでいい、とエドワードは苦笑する。アリスは恐れ多い、というかのようにぶんぶんと首を横に振った。
「ええと.......どうしてこちらに?」
「息抜きがてら、視察に。フローレス令嬢は?」
「わたしも、息抜きに来ました。ようやく、王国史を読み終わったんです!」
「ほんとうか、すごいな」
エドワードは驚いて目を瞠る。クローディアから聞いた話では、ひとまずこの一年は礼儀作法と魔法を優先に、巡礼で必要となる地理や貴族名鑑を覚えることが目標、とのことだったが。アリスは少しだけ誇らしそうに笑った。
「最初はのんびりお散歩してたんですけど、あのネックレスに惹かれて、つい入ってしまったんです」
アリスは出てきた店を名残惜しそうに見遣る。どうやら、ショウウィンドウに飾られているネックレスが気になったらしい。愛らしい薄紅の花と翠の葉を模した、シンプルなネックレスだ。
「買わなかったのか? それほど高価なようには見えないが」
「千リーレくらいです。でも、わたしが勝手に予算を使うわけにもいかないですし.......」
普段、エドワードやクローディアが身に着けている装飾品の額を考えると、むしろ安価で心配になるほどだが、清貧を尊ぶ教会が擁する光魔法使いには相応しくないかもしれない。
とはいえ。
「――しかし、よく似合いそうだな」
ネックレスを見ながら呟き、ふとアリスに視線を戻す。アリスは頬を赤らめていた。それでエドワードもどきりとする。
視線が絡んだ。春の穏やかな風が、なぜか暑く感じられる。がらがらと馬車の車輪が近づく音さえも敏感に捉えた。
永遠にも思われた沈黙を破ったのは、それでは、というアリスの、やけに大きな声だった。
「失礼いたしま――」
アリスが言いかけたところで、先の曲がり角から喧騒が聞こえた。護衛たちが瞬時に警戒態勢を敷く。何事か、と振り向いた途端、馬の嘶きが通りに木霊した。馬が曲がり角から姿を現したのと同時に、耳を劈く悲鳴と衝突音が響き渡る。
咄嗟に、エドワードはアリスを背に庇っていた。
「なっ、何事だ!」
「お下がりください、馬が暴走し、建物に激突した模様です」
不安そうなアリスを背に庇い、エドワードは隠れて随行していた護衛に、状況を問うた。
「この先の曲がり角で馬車が横転し、店に激突したようです」
「怪我人は!」
アリスが叫んだ。まだ分かりません、と彼女の護衛が答えるよりも早く、アリスは駆け出した。護衛とエドワードが制止をかけたが、聞いていないのか聞こえていないのか、足を止めない。待ちなさい、とつられてエドワードも走り出した。
曲がり角は凄惨な状況だった。馬車の前輪は砕け、割れた硝子が散乱している。荷台から投げだされた木箱の中身が散らばり、乗り合わせていた人々は地面から起き上がることができずに苦悶の声を上げていた。馬はもう死んでいるのか、ぴくりとも動かない。
思わずエドワードは押さえた。あまりの惨事に、声も出なかった。
だが、アリスは脇目もふらずに怪我人の元に駆け寄り、大丈夫ですか、と声をかけた。だが、必死の声かけにも、倒れ伏した人々は呻き声しか返さない。
何かしなくては、と震える足を一歩踏み出そうとして、護衛に制された。
「お下がりください、ここから離れましょう」
「だが、彼らをこのままにしておくのは」
「施療院に送られるはずです」
「施療院まで行っていては!」
一刻も早く治療が必要であることは、医術に詳しくないエドワードでも分かった。護衛は頷き、されど、と言葉を続けた。
「今お出来になることはないでしょう」
「っ――」
エドワードは顔を歪めた。王子という身分は、こんな時、何の役にも立ちはしない。
項垂れて踵を返そうとした矢先、おやめくださいっ、と切羽詰まった声が聞こえた。振り向くと、アリスを中心に不自然な風が渦巻いている。
光魔法を使おうとしているのだと、すぐに分かった。
「ここでお使いになるなど、」
「こういう時のために、この魔法はあるんでしょう! 邪魔しないで!」
護衛を睨みつけ、アリスは呪文を唱える。ぱあっ、と強い光が辺り一帯を覆い、エドワードは思わず目を瞑る。
――次に目を開けた時、辺りは様変わりしていた。否、血や荷物が飛び散っていることには変わりがないのだが、倒れ伏していた人々が、皆穏やかな表情になっている。その体からは血糊さえも消えていた。
聖女さまだ......と誰かが呟く声がした。顔を上げると、集まっていた人々が感極まったようにその場に膝をついた。
「聖女さまが、お救いくださった!」「奇跡だ! 聖女さまの奇跡だ!」「すごい、すごい、聖女さまだ.......!」
興奮した民衆が、わらわらと周囲に集まってきた。アリスとエドワードの護衛が必死に押しとどめているが、聖女の元に行かんとする人々の勢いと数に押し負けた。人波に揉まれ、エドワードはアリスの傍らにまで来てしまった。
「聖女さま、どうかわたしにも救いを!」「父がずっと寝たきりなんです、聖女さまなら治してくださいますか?」「聖女さまに触れると病にかからなくなると聞きました、触っても構いませんよね?」「せーじょさま、いまのなに!? すごい! もういっかいやってー! ねーおねがい!」「聖女さま!」
聖女を讃え、縋る声が席巻する。アリスは怯えた様子で身を引くが、民衆は意に介した素振りもない。
聖女さま、聖女さま、と声だけがどんどん大きくなっていく。無数に伸ばされた手から逃れようと、アリスは背後を振り向いた。
その時、エドワードと目が合った。
「殿下」
決して大きくはない声だった。
けれど、触れられるほど近い距離にいた民衆は、その声を敏感に聞き取った。
「殿下.......?」
そう呟いたのは誰であったか。アリスの隣に立つエドワードに、矢のように視線が降り注いだ。まずい、とエドワードはフードを被るも、遅きに失した。
「まさか、王太子殿下.......?」
ざわり、と民衆が騒めく。跪く民衆を飛び越えた護衛が、エドワードを庇うように取り囲んだ。
「どうして、王太子殿下がこんなところに」「聖女さまと王太子殿下が一緒にいたの?」「おふたりで街に?」
エドワードは瞬時に青褪めた。アリスもまた、蒼白な顔色で、手で口を覆っている。否定の言葉を探したが、頭は空転するばかりだった。
つまり、と場違いなほど明るい声が響く。
「おふたりは、恋仲なのですね!?」




