聖女の悔恨 1
あの日、手放した幸せの形を、わたしは今でも時折思い出す。
***
フローレス男爵邸。
麗らかな春の日差しに包まれた午後である。昼食を食べたアリスは、急いで窓の掃除をしていた。本当は昼前までに終わらせたかったのだけれど、あれやこれやと追加で仕事を頼まれて、間に合わなかったのだ。
男爵邸の窓からは、小さな庭が見える。邸の裏手にあるせいで手入れが行き届いていない庭が、アリスは存外好きだった。人の手を加えられず、のびのびと生い茂る草花が、格好よく思えるからだ。
「アーリス!」
「うわっ!」
いきなり背後から肩を叩かれ、アリスは驚いてその場で飛び跳ねる。
幼馴染のエミリーは、そばかすの散った顔にしてやったり、と言わんばかりの笑みを浮かべていた。
「んもー! エミリー、びっくりさせないでよ!」
「ごめんごめん」
「絶対思ってないでしょ」
「あはは。それより、手伝ったげる。向こうの方、まだやってないでしょ?」
「え、いいの? ありがとう!」
アリスはその場で飛び跳ねた。エミリーは魔法が上手なので、掃除なんてすぐに出来てしまう。生活魔法すら苦手なアリスとは大違いなのだ。
「エミリー様素敵ー、とか言ってくれるとなおよし!」
「絶対言わない!」
あはは、と笑ったエミリーが遠ざかる。
エミリーが手伝ってくれるなら、すぐにでも終わるだろう。わたしも急ごう、とアリスはふんすと腕まくりをした。
「おお、アリス」
「旦那さま」
あとひとつで終わり、という時、旦那様――邸の主たる男爵がやってきた。前よりもちょっと腹回りが増えたかもしれない。
「元気にしておったか」
「はい、元気です!」
「そうかそうか」
相好を崩した男爵は、懐から小さな髪飾りを取り出した。
「お前にやろう」
「いいんですか?」
「あぁ。大して高くもないし、こういうのはガートルードより若い娘の方が似合うだろう」
アリスは一瞬、笑みを消した。けれどすぐに浮かべ直す。
「.......ありがとうございます!」
ガートルードというのは、男爵夫人の名前だ。男爵夫妻の間には、息子がひとりいるだけで、娘はいない。
――そしてアリスは、男爵が使用人に手をつけて産ませた子供だった。
手渡された髪飾りは、紫の蝶を模していて可愛らしい。子供っぽい意匠で、確かに男爵夫人には似合わないだろう。
「うんうん、よく似合いそうだ。それをつけて、今度の休みに出かけるといい」
「はい、そうします」
「ではな」
男爵は上機嫌に去っていく。アリスは頭を下げてそれを見送った。
手の中の髪飾りを見下ろし、強くそれを握りしめた。
可愛いものは好きだ。見ているだけでも癒される。それを知っていて、男爵は時々贈り物をくれる。
けれど、アリスはどうしても男爵が好きになれなかった。
生まれてすぐに母を亡くしたアリスを置いてくれているのは恩情だろう。けれど、庶子として迎え入れるわけでもなく、使用人として放置。その割に、こうして贈り物を寄越して、時には隣街まで連れて行ってくれる。おかげで他の使用人からは、お嬢様ではないけれど、同じ使用人ではない、という微妙な扱いを受けることになっているのだ。
この髪飾りだって、つけて遊びに行く日がいつになるかも分からない。使用人は、基本的に休みが少ないのだ。
気紛れに構っては気紛れに突き放すなら、いっそ構わなければいいのに。
ぱしっ、とアリスは自分の手で頬を叩いた。
「だめだめ、明るいことを考えなくちゃ」
そう、たとえば今日の夕飯とか.......明日のお昼ご飯とか。
ご飯だけだな、と肩を落とした時、向こう側からぎゃあ、と盛大な悲鳴が響いた。エミリーの声だ。何事かと慌てて駆け寄ると、辺り一面水浸しだった。
「エミリー! 大丈夫!?」
「あ、アリス。いやー、生活魔法じゃなくて水魔法でなんとか出来ないかなーと……」
「んもう、エミリーってば。練習は使用人棟の近くで、って決めてたじゃない」
「ごめんごめん」
しょうがないなぁ、とアリスは持っていたままの雑巾を置いた。
「エミリーは時々こういうことするから、真面目なんだか不真面目なんだか分からないって言われるのよ」
「目標のために一途なんですー!」
「あー、あれね。魔法使いになって王都に行くってやつね」
「そう!」
エミリーは声を弾ませる。
「今は無理だけど、こうして頑張ってたらいつか行けるだろうし」
「はいはい、頑張ってね」
「雑だなー」
「だって夢物語みたいじゃない。この片田舎から王都に、なんて」
むっとエミリーは唇を尖らせる。
「そういうことは、アリスも努力してから言ってよね! 生活魔法も覚束ないけど」
「うっ.......重傷」
アリスはわざとらしく胸を押さえる。それを見たエミリーが噴き出し、つられてアリスも笑った。
***
「アリスー、早くー」
「待ってエミリー! んもう、支度するの早すぎるよ!」
「アリスが遅いの!」
「そんなことないしぃ」
アリスは不貞腐れながら部屋を飛び出す。使用人たちが使える浴室はひとりふたりしか入れない狭さで、手が空いた人から順番に使用する決まりだ。
アリスとエミリーは髪を解き、タオルを片手に浴室に向かう。
「あー、なんか楽しいことないかなー」
「なんかって、たとえば?」
「うーん、お祭りとか?」
「なんか、誰かが街でお祭りあるって言ったなかったっけ」
「あー、創立祭でしょ? 行きたいなー」
「お休み取れないから無理だよ」
「ちぇー」
エミリーは唇を尖らせる。と、向こうからメイド長が歩いてきた。どうやら湯浴みを済ませたところらしい。
「あら、ちょうどよかった。アリス、エミリー。次の週末、お休み取っていいわよ。暫くお休みしてなかったでしょ」
「ええっ、いいんですか?」
「ほら、小さいけれど、お祭りがあるじゃない。私と夫で休みを取らせてもらう予定だったんだけど、夫が体調を崩しちゃって.......」
「えっ、執事長が? 大丈夫ですか?」
「ええ、ただの風邪だから、心配しないで」
楽しんで、とメイド長が遠ざかっていく。ふたりは顔を見合わせた。
「ほんとになっちゃった」
「やったね! 折角だし楽しもうよ! おしゃれもしてさ」
「いいね!」
くるくるとエミリーはその場で回り、踊るような足取りで走り始める。アリスは慌ててエミリーを追いかけた。
「もー待ってよー!」
「待たなーい!」




