清く正しい王子さま 中
地下牢を出たエドワードは、蹌踉とした足取りで歩いていた。お幸せに、と笑ったクローディアの顔が、頭から離れない。これまでのクローディアの言葉が、ぐるぐると頭を回った。
――お言葉ですけれど、そもそも対立を煽ったのはどちらです?
――少しは人を疑った方がよろしいですわよ?
――ここまでヒントを差し上げたのだから、あとはご自分で考えてくださいまし。
「感情でも、正義心でもない........」
青褪めた顔色でぶつぶつと独り言を呟くエドワードを、側近はぎょっとしたように見つめていたが、エドワードの目には入らなかった。
クローディアとは、かれこれ十年近い付き合いだ。次代の王と王妃として、厳しい教育を励まし合いながら乗り越え、友のように、相棒のように過ごしてきた。
上位貴族らしい傲慢さと慈悲深さ、そして統率力。冷淡なところもあるけれど、エドワードが甘いからちょうどいい、と言われていた。
誰よりも王妃に相応しい令嬢。けれど時々抜けていて、甘い物が大好きな幼馴染。
なんでも分かる。理解できる。
はずだった。
この春、エドワードの失態によって、クローディアが変わってしまった。否、エドワードが変えてしまった。諫言も嘆願も、クローディアの耳には届かないようだった。
己の愚行のせいとはいえ、それが悔しくて、苦しくて、遠ざかった。
「いや.......違う」
見ようとしなかっただけだ。確かにクローディアはアリスを虐めていた、これは紛れもない事実で、だからエドワードはクローディアが変わってしまったのだと思い込んだ。襲撃事件のことも、冤罪の証拠が見つからないことに絶望して、諦めてしまった。
――だが、何も変わっていなかったのだとしたら?
クローディアは曲がったことが嫌いだ。けれど、自分の――ひいては王家の不利益になることは、決してしなかった。
「だが、今回は王家だって.......」
言いかけて、エドワードははたと足を止めた。ざあっ、と顔から血の気が引く。
今回の件で、王家は損をしていない。
王家派は打撃を受けるだろうが、クローディアの勘当でそれも軽減されるだろう。そして教会派は蜜を得た。何故ならば、エドワードとアリスの婚約が結ばれたから。
数拍の沈黙の後、エドワードは勢いよく駆け出した。殿下!?と慌てた様子の護衛や侍従を置き去りにして、体面も気にせずに走る。目まぐるしく、景色が後ろに流れていく。
「――父上!」
制止を振り切って執務室に駆けこむと、父は顔を上げた。瞳の色以外、エドワードと似たところがない父は、どうした、と静かに言う。
「クローディアとの婚約は、いつ、解消することが決まっていたのですか」
父は片眉を上げた。今か、と囁くような声が漏れた。エドワードは半ば悲鳴のような声で問うていた。
「お答えください、父上! いつからフローレス令嬢との婚約が決まっていたのですか!」
「落ち着け、エドワード」
「落ち着いてなどいられません、私は、私は........!」
父は呆れたように溜息を吐く。
「過ぎたことであろう。何をそう慌てているのだ」
「私は王太子です、なのに私は何も知らず、クローディアは.......」
「――5月だ」
「は?」
「昨年の4月に教会から婚約の申し出があり、ひと月にわたる協議の末、これを受け入れた」
がん、と頭を殴られたような衝撃があった。
「4、月........? それほど早くに、教会が........?」
「質問はそれだけか?」
父はじっとエドワードを見ている。エドワードは震える声で続きを絞り出した。
「クローディアは、一体、いつ、それを」
「5月だ」
エドワードは呆然と口を開けた。足元が崩れていくような、そんな錯覚があった。
――それでは、己だけが何も知らなかったのだ。
「なぜ、私だけが何も知らず.......」
「詳しくは王妃に聞くが良い。余は、事が終わるまでエドワードには何も告げないでくれ、という王妃との約束を守っただけだ」
「母上が.......? そんな、どうして」
「さあ。余には分からぬよ」
父の声は、どこか哀れむような響きを帯びていた。
父の部屋から退出したエドワードは、その足で母の部屋に向かった。足が縺れて、何度も転びそうになった。
先程と同様に父の部屋に駆けこむと、既に報告を受けていたのか、母はソファに腰かけて優雅に紅茶を飲んでいた。
「母上、どういうことですか」
「エドワード、座りなさい」
「クローディアは、クローディアは、この為に動いてきたというのですか........!?」
「エドワード。同じことを言わせないで」
強い口調に、エドワードは黙り込み、母の向かいの席に座った。ソーサーとティーカップを置いた母は、小さく首を傾げる。こげ茶色の髪がさらりと揺れた。
「それで、ようやくクローディアの真意に気づいたの?」
「っ、母上は、母上はどうして私に何も仰ってくださらなかったのですか!? 知っていたら、私は何か」
「それがクローディアの望みだったからよ」
「――ぇ」
ほう、と母は溜息を吐いた。
「婚約の公表を遅らせること、あなたに何も言わないこと――そして、半年間の行動に、口出しをしないこと。それがあの子の望みだった」
「どうして.......」
「あなたの頭は飾りではないでしょう」
思わず疑問が口を突いて出たが、母は非難がましい視線を向けた。エドワードは恥じ入り、必死に考えを巡らせる。
婚約解消を、もしも5月の段階で公にしていたら、どうなっていただろう。
まず第一に、王家派が王家に反発しただろう。何しろクローディアは王家派筆頭公爵家の令嬢であり、次期王妃として名高い。たとえ王家が新たにそれ相応の身分の婚約者を用意したとしても、王家が王家派を軽んじたという事実は消せない。
その一方で、教会派はつけあがるだろう。次期王妃の後見人として、政に介入してくる恐れもある。
勿論、どちらもいずれは落ち着くことだ。父王は決して教会派の増長を許さないだろうし、シャーウッド公爵は骨の髄まで国の忠臣だ。王家に背くことはあるまい。
何より、心の内で何を考えているかは定かでないにしろ、王家が率先して教会と手を結ぶことは、王家派と教会派の長きに渡る溝を埋める一歩となる。
――だが、双方の裏側の思惑を消すために、一体どれほどの年月がかかる?
「クローディアは.......国を、円滑に回すために?」
声が震えた。母は何も言わない。ただ、膝の上で重ねられた手の指先が、白く染まっていた。
「でも.......でも、だからといってあんなことをする必要は! 謹慎や蟄居で済むくらいの罪でも、よかったはずて……」
クローディアならば、正確に罪と罰を考えられる。そのくらいの計算はできるだろう。
「暗殺未遂を起こしたのは、あの子ではないわ」
は、と間の抜けた声が漏れた。
「な.......で、は、では。あの証拠は」
「取り急ぎ作ったものよ。公爵と陛下が共謀して、ね」
「父上が.......!? そんな馬鹿な、クローディアはなんら瑕疵がない、筆頭公爵家の令嬢で」
「――元よりあの子は死ぬはずだった」
一瞬、反応が出来なかった。聞いた言葉が右耳から左耳に通り過ぎ、数秒の空白を経て、ようやく理解する。
「死ぬ、はず......? な、にを。何を仰っているのですか、母上.......!」
「わたくしたちは王族で、あの子は貴族だった」
「それがなんだと、—―」
勢いよく立ち上がって、机に足をぶつけた。ティーカップが揺れて、手をつけていないままの紅茶が零れる。
手足が震えた。額に滲む汗が止まらない。
あるではないか。
王族のみが知る、貴族には知らされていない、王家の秘儀。諜報部隊や、公にできないような密約。
「い、つ。いつ、ですか」
「――あなたが城下に降りた日」
悲鳴は喉の奥に飲み込まれた。
「あなたが、最大の失態を犯した日よ」




