清く正しい王子さま 上
『ねぇ、エド。見て! このお花、わたくしの髪の色にそっくり!』
『わぁ、ほんとだ』
初めて見たわ、とクローディアが喜ぶから、エドワードは庭師にその花の名前を質問した。
『紫陽花って言うんだって』
『あじさい! 綺麗な名前ね』
弾けるようなクローディアの笑みを、エドワードは今もまだ覚えている。
***
「殿下、お時間です」
「ああ」
侍従に急かされ、エドワードは署名の手を止めて立ち上がった。山となった書類はまだ残っているが、この後は、東に所領を賜る伯爵との面会の予定だった。
「殿下、本日はお時間をいただき誠にありがとう存じます」
「カーウェル伯爵、よくぞ参った。水害の概要は既に聞き及んでいる。詳細を……」
伯爵領での水害の話を話を聞いている途中で、ぐぅ、と腹の虫が鳴った。老齢に差し掛かる伯爵はおや、と首を傾げる。
「殿下、ご昼食はお召し上がりではないのですか」
「時間がなくてな。手が空いたら食べるつもりだ」
「あまりご無理はなさらず」
「ああ、ありがとう」
無理はせずに、と言われたが、しなければ政務が回らないのが現状だ。王太子妃となったアリスは、そもそも貴族として暮らし始めてまだ六年。王妃教育を終えるにはとても時間が足りなかった。必然的に、王太子妃が担うべき仕事もエドワードが処理しなくてはいけない。公式の昼餉以外でまともに昼食を取ったのがいつか、覚えていなかった。
その後も別の貴族との面会や、王太子直轄領からの報告、来月隣国から来る使節団の対処など、諸々の仕事をこなしているうちに夜になった。
「エド様」
「アリス」
寝室に行くと、先にアリスが来ていた。アリスもアリスで王妃教育や茶会に追われ、日付が変わる前に寝室に来ることは稀だった。化粧を落とした目元には、くっきりと隈が刻まれている。
「お疲れ様です」
「アリスも」
ベッド脇に置いてある紅茶を口にして、ほう、と深く息を吐いた。肩の力が抜けると同時に、抗いようのない眠気が襲ってくる。
だが、ここで眠るわけにはいかなかった。王太子夫妻に課せられた最大の使命が残っている。
「アリス……いいかい?」
「……はい」
眠たげなアリスにそっと触れる。肌を重ね合わせて、すべての思考を追いやった。
***
わぁわぁと、民衆の興奮が渦を巻いている。広場に立ち込めた熱気だけで、夏かと錯覚しそうだった。
王宮前の広場には、普段はないものが置かれていた。それを民衆が取り囲み、ありとあらゆる悪罵を吐き散らしている。社交界で悪意に慣れたエドワードでさえ、耳を塞ぎたくなるような言葉ばかりだった。
『国を揺るがす悪魔め!』
『殺せ!』
『人の心を持たない悪女め!』
『殺せ!』
『聖女さまを狙った人殺し!』
『『『悪女を殺せ!』』』
違う、というエドワードの叫びは届かない。
『違う、違う違う......! クローディアは......確かに性格がいいわけじゃないけど、でも人殺しなんてしてない.......! やめてくれ、やめろ!』
断頭台を囲む民衆の熱気は、処刑執行人に連れられて人影が現れた瞬間、最高潮に達した。フードを被ったクローディアの顔は見えない。民衆は口角から泡を飛ばして叫び、手元にある石を投げつけた。
それが、唐突に止む。
段上に登ったクローディアは、晴れやかな笑みを浮かべていた。今から処刑される者とは思えない、澄んだ瞳が、時を止めたかのようだった。
騎士に身動きを封じられていたエドワードもまた、思わず呆然とその顔を見上げた。
『クロー、ディ』
誰かが何かを叫んだ。それを皮切りに、小さいものの罵声が飛ぶ。
クローディアの頭が、断頭台に乗せられる。エドワードは我も忘れて手を伸ばした。
『やめろ、やめてくれぇええぇええええっ........!』
叫びを掻き消すように、断頭台の刃が降ってくる。
そうして過たず、クローディアの首を斬り落とした。ころりと転がった生首の目が開き、エドワードを見る。血に濡れた唇が、にい、と弧を描いた。
『お ま え の せ い だ』
「はあっ.........」
エドワードは飛び起きた。周囲を見回し、脱力する。
「夢、か.......」
額には汗が滲んでいた。エドワードは深呼吸を繰り返す。
あの日から、毎日のようにあの時のことを夢に見る。そのせいで、夜明けよりも遅く眠れた試しがない。
だが、これは罰なのだろう。
何も気づかなかった、気づこうともしなかった。
汚れを知らぬまま理想を騙り、派閥争いの思惑に気づかぬまま踊り続けた――愚かな自分の。
「うう......」
隣で小さくうめき声が聞こえた。視線をやると、アリスが眉間に皺を寄せて苦しそうにいている。疲れの滲んだ顔に、そっと触れた。
本当は、王太子妃になる少女ではなかった。百年に一度の稀代の光魔法使い、教会の庇護を得た男爵令嬢――それだけで終われていたら、どれほどにか楽だっただろう。
――彼女たちの人生を狂わせたのは、紛れもなくエドワードだ。
「......苦労をかけてばかりで、済まない」
呟いた声は、誰にも聞かれず空に溶けた。
***
「え......母上が?」
「はい、朝餉の後、急にお倒れになったようで......」
朝餉を手早く済ませて書類を捌いていると、従者が慌てた様子でやってきた。このところ伏せりがちだった母が、倒れたという。
「容体は」
「ただの疲れだろうと仰っていますが、実際のところは.......」
従者は言葉を濁した。原因不明として処理されている病が、母の体を蝕んでいるのだろう。エドワードは書類に視線を落とした。この書類群は、議会の前に終わらせておきたかったのだが。
「......分かった、すぐに向かう。先触れを。それと、妃にもこのことを伝えるように」
エドワードは立ち上がった。
窓の外を見ると、糸のように細い雨がしとしとと降っていた。水害の件、水運業の連絡、ととりとめもなく執務のことが頭に浮かぶ。鋭い頭痛が走り、エドワードは眉間を揉んだ。
「母上、お加減はいかがですか」
「エドワード。忙しいでしょうに、来てくれたのね」
エドワードが入室すると、母は上体を起こした。幾らかやつれたようだった。
「母上が健康でないと、安心して執務もできません。どうか、いつものようにお元気な姿を見せてください」
ありがとう、と母は微笑む。その顔には深い皺が刻まれていた。
「そう言ってくれるのは嬉しいわ。けれど、わたくしはたぶん、もう長くはない」
「――母上!」
思わず声を荒げていた。けれど母は、動じた素振りもない。
「そのようなこと、仰らないでください」
「ちゃんと伝えておいたほうがいいでしょう?」
「早すぎます!」
「わたくしはもう50なのだから、決して早くはないわ」
きっぱりと言い切って、母はエドワードの拳に手を重ねた。
「エドワード。この数年、あなたには辛い思いをさせたわね」
「.......そのようなことは、」
「いいえ。本当なら、幼い内から政の汚い部分をあなたに教えておくべきだった。それを遠ざけておきながら、いきなり押し付けてしまったのはわたくしたちよ」
「違います、私が自ら気づくべきだったのです」
人には優しくしましょう。
自分とは違う価値観でも、否定せずに尊重しましょう。
物事は多面的に捉えましょう。
いつでも笑って、人を安心させられる王子になりましょう。
幼い頃の教えは、きっとどれも間違いではなかった。よくできたわねと褒められるのが嬉しくて、頭を撫でてもらえるのが楽しみで、与えられた知識を深く考えもせず、受け取って覚えればいいのだと勘違いしていたのは己だ。
「そうすれば........そうすれば、」
あんなことにはならずに済んだのに。
エドワードは言葉を飲み込み、きつく拳を握りしめた。目を瞑れば、その日のことがありありと思い浮かぶ。
――母上、どういうことですか。
動揺して母を責め立てた自分の声までもが、鮮やかに脳裏に蘇った。
――クローディアは、クローディアは、この為に動いてきたというのですか........!?




